この悪夢を祓いたい
お読み頂き有り難う御座います。
悪夢のような電話から、夜が明けました。
どんどん、と。
控えめながらも扉を叩く音が聞こえました。窓の外は……朝の光が差し込み始めたばかり。
こんな時間に、一体誰が……。
「…………」
「………静かに。スコープ窓から覗いたら、あの屑野郎なの」
そっと目を開けると、目の前には母が。
ああそうです。父から謂れのない濡れ衣を被せられた私は、あの後、崩れるように寝込んだのでした。
「………父ですか」
「私書箱も使ってるし、住所を漏らすなって経理にも口止めしたのに……。守秘義務違反で労基に持ち込んでやる」
「あの、出なくて」
決まったリズムでずっと叩き続けているのが、とても恐ろしかったのです。
ですが、無視するのもとても怖くて………。母が撫でてくれる迄涙が流れていることに気づきませんでした。
「表札出してないもの。無視でいいわ。
DV夫に追われて逃げてきたって、大家さんやご近所さんには触れ回り済みよ」
……母は、このような事態が起こることを予想していたのでしょうか。とても準備が良すぎます。
私と同じ色の母の目は……怒りに燃えているのに、とても静かでした。
………私は、どうしたいのでしょう。恐怖で体がすくみ、アワアワする私に、静かにしているように母は言います。
そして、おもむろに電話を掛け始めました。
「不審者が訪ねてきたって通報するわ」
「………其処まで……」
「するべきなのよ。権威に弱い奴だから」
まもなく、足音が去り……インターホンが鳴りました。
お巡りさんのようで、母と2、3こと話をして、帰って行かれたようです。
「……今日は休む?」
「……いえ、行きます」
「………そう。そうよね。あのバカ野郎に人生を狂わせられてたまるもんですか。だけど気をつけて。山茶花坂の坊っちゃん……特に山葵様とヒモトにはね」
やはり、そうですよね。
……昨日、父が言った名前……山葵様とヒモト。彼らがこの事態に噛んでいるに違いありません。
幸い学年が違うので……いえ、でも用心に越したことは有りません。
「スマホも解約しましょう。番号は乗り換えないで変えなきゃ。学校が終わったら電話して。直ぐ買いに行きましょう」
「其処まで……」
「遅いくらいよ。今すぐ引っ越したいくらいだけどね」
「お母さん、準備が良すぎるよ……」
「あの男の気持ち悪さを長年体感してるもの」
私を撫で続ける母の目は凪いでいました。
母と父の間に何があったのでしょう。
最早、取り返しの付かない溝が横たわっているのを……この時恥ずかしながら知りました。
「さあ、朝御飯にしましょう。少し早いけど送るわ。あの男に可愛いミズハが拉致られたら嫌だわ」
「壊された壺って、何なのかな」
「さあ?大体未成年のバイト扱いのミズハが行けるような場所じゃないし、賠償責任は無いわ。
雇用契約書も貰ってないんでしょう?あの男が握り潰したのね。娘の通帳を取り上げる男だもの」
「………確かに、貰ったことは有りません」
それどころか、親として学校の行事に関心を向けてくれたのすら有りません。全て母へでした。
「それに、アイツはミズハの上司の立場。監督責任ってものがあるわ。
ああくだらない。どうせ監視カメラが旧式で確認出来ないから擦り付けたのね」
「……そう、なんですか」
「ミズハがワープ魔術でも使えると思ってるのかしら、あの無能。この件も含めて早く離婚しなきゃ」
その時、スマホが震えているのに気が付きました。
『ミズハちゃん、今日はおサボりならいいんだけど、もし登校するなら裏口は避けてください。@^]~、¢◇¥*‰が待ち受けています。出来れば早めでなくギリギリ間に合う位に、校門で待ってます』
送り主は轟さんからでした。だけど一部が文字化けしているようです。
ああ、轟さんは私に何が有ったかご存じなのですね……。だから、こんなアドバイスをくれたんでしょう。
……一体、この後に何が待ち受けているのでしょう。父が学校にまで怒鳴り込んでくる?それとも……。
「どうしたの?」
「あの、友達が、ギリギリにおいでって」
「そう。じゃあそのくらいに出ましょう。その足で弁護士事務所に行ってくるわ。
以前、市役所の無料相談会で名刺を貰っておいたの」
………母の用意周到さが恐ろしいのですが。
凄く前から用意していたかのようです。……そんなに、父に辛い目に遭わされていたのに私は……。
「それから、ミズハ」
「え、えっと、何?」
「あの駄目男はメンツを気にする小者だから、学校には来ないわ。父兄としての役割も果たしていないってミズハの担任にも言ってあるし」
「ええっ!?そ、そんな事を言って大丈夫なの!?」
確かに、自分の家族よりも山茶花坂のメンツに拘る人では有りますが……。
「担任が信じるか信じないかはどうでもいいの。ちゃんとその事実が有ったことを態々出向いてボイスレコーダーに会話を録音したわ。
学園の来賓記録にも残ってるのよ。握り潰されないように来校者記録を写真も撮らせて貰ったわ」
………どれだけ母は用意周到なんでしょう。
恐怖も薄れて来たような気が致します。
普通……離婚したいとしても、其処までしませんよね?
そういう事態……もしかして荒事に慣れているのでしょうか?
いえ、目茶苦茶普通のパート主婦ですし、そんな訳はありません。
単に手回しがいいだけでしょうね。
そして、始業時間の10分前。母に送って貰いましたが……。こんなギリギリに来たのは初めてで、嫌な汗が滲み出て来ました。
「うおおおお!!ミズハちゃん!!」
「お、おはようございます」
「その悲しみには満ちているけど、闇堕ちしてないおめめ!!ああ良かったえああんんん!!ぐほえっ!」
あ、ああ……。後ろから襟首を捕まれた轟さんの首が絞まっています!
「煩い野良ブス。良いですかミズハ、教室にはチビヤカラが来てましたから裏庭行きますよ」
「チビ、ヤカラ?」
チビヤカラとは、一体……。
三和さんのセンスは独特ですよね……。何と言うか、容赦なさが滲み出ています。
「勿論、関白殿の腰巾着のヤカラですよ」
「…………」
「不破ヒモトとか名乗ってましたね。一学年下の」
「ヒモト……」
「従弟だよね!?あの……………な…………をしてきやがる…………!!」
……轟さんの言葉にノイズが掛かっています。
ヒモトが……。いえ、昨日の父からの電話では……『私が高価な壺を割った』と証言したのは彼と山葵様でした。
混乱で考えもつきませんでしたが、私に絡んでくる可能性は充分に有ったのです。
「ヒモトが私を破滅させる為に仕組んだ事なのでしょうか。
一体、何故」
「細かいことは後です。行きますよ」
「待ちいや、ミズハ」
………この、お声は。
後ろを振り向くまでもありません。
幼少期からずっと、お仕えしてきた方……。
「シカトしましょう。シミったれたモノローグとか要りません、時間が惜しい」
グイッと力強く引っ張られ、春の空色の瞳とかち合いました。
……確かに、今若君に構っている場合では無いですね。
糾弾されたとて反論出来る材料も御座いませんし、かといってハッタリで凌げる技量も御座いません。
………ああ、お母さんの逞しさを見習いたい。ですが、醜態を晒すだけでしょう。
私は三和さんに引っ張られるまま、無言でその場を立ち去るつもりでした。
「待てえゆーとるやろ!!三和ぁ!!」
若君がキレた声を出されるのはお珍しいですね。呑気に感心している場合では無いのですが。
「………ほー、お邪魔キャラらしく、俺にご用で?」
「何やねんお邪魔キャラて!!」
「お前ですよ。どーせ、付き合いの長いミズハを庇いきれなかったんでしょう?
コイツの父親にいーように丸め込まれて、何にも出来ずグーのひとつも叩き込めなかったんでしょ?」
ぐうの音も出ない、なら分かりますが……殴れと仰いますか、三和さん……。
この方は繊細な見掛けに寄らず、本当に過激派な男子ですね……。
「おま……」
「えっ!?そのリアクションてば!?山茶花坂君、ミズハちゃんを信じてくれてるの!?」
「当たり前やろ!!」
「わ、若君……」
思わず振り向くと、若君がバツの悪そうな顔で此方を見ていました。少し、顔色がお悪い……。
ああでも、でも!
「………う、嬉しいです若君!!」
「ミズハ……」
そっ、と若君が私の手を取ろうとして……手を弾かれました。
す、凄く大きい音がしましたよ!?
「何すんねん!!」
険しい顔をされた三和さんが、思いっきり若君の手を叩いたようなのです。一体どうしてでしょう。
「だったらこんなところで油売ってねーで、サッサと手下を収めろよってんですよね」
「コイツガチで殴りたいねんけど!!」
「まあ、ミズハを信じてるならそれならそれでいーです。じゃあ行きますよ、ミズハに野良ブス」
「ええ!?琴子ぉ!?山茶花坂君もご一緒しないの!?」
「嫌ですよ。俺、あの甲斐性マイナスに振れたダルダル坊っちゃん嫌いです」
ズンズンと私の手を取ったまま、三和さんは早足で歩き出しました。
「えっ、どうして……。若君が加わってくださったら……特に何も無いでしょうが、御当主がたに私の冤罪を訴えてくださるのでは」
「出来たら昨日のウチにしてる筈です。アイツは何も出来なかったと言うのに否定しなかった」
そ、そうでした。
何かされたなら若君は主張される……筈です。承認欲求はああ見えて高いので……私には仰ってくださると……。
「……えと、御当主さん、つまり山茶花坂ブラザーズの御両親が居ないってこと?」
「でなきゃ、未成年の坊っちゃんに手下、単なる使用人のアタマが、好き勝手出来ないでしょう」
確かに。御当主様や、奥様は……少なくとも私を頭ごなしに糾弾されることはないでしょう。
……昨日の、事件当日。もし、御当主様達がいらっしゃらなかったのでしたら。
だから、ヒモトや山葵様、父が暴走したと……?
「アイツ本当に次期当主なんです?頼り無さすぎますよ」
「どのエンディングでもそーなんだけど……」
若君の面倒臭がりの、ことなかれ主義。
それは父にとって、頭の痛いことだった筈ですが、それでも若君はお仕えする方。そんな若君に歯向かう事を……したのでしょうか。一体どうして。
父は一体何を考えているのでしょう。
そんなに私を排除したかったのでしょうか。私の拙さが、許せなかったのでしょうか。
鼻が詰まります。
泣いては駄目です。
「使ってくださいな」
三和さんのハンカチの柄は、涙で滲んで暫く確認出来ませんでした。
なるべく調べましたが、労基についてはサラッとスルーしてくださると嬉しいです。




