死神と呼ばれた猫(後)
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その一件以降、この『ビョウイン』おける私の扱いは、百八十度と言えるくらいに変わった。
具体的には周りのニンゲン達から、笑顔を向けられたり、明るく声をかけられることが増えたのだ。
それはまるで、私の来訪を歓迎しているかのような態度だった。
これまでは嫌な顔をされ、邪険に追い払われてばかりだったというのに。
ちなみにその原因は、どうやら例のベッドの男らしい。
聞くところによると、今この『ビョウイン』では、『彼の幸せな最期は私が側にいたおかげ』という噂が、まことしやかに囁かれているとか。
だからこそ、他のニンゲン達も思ったのだろう。
もしその噂が本当なら、自分もそうなりたい、だからあの猫に側に来て欲しい……と。
それで私は、こうして手のひら返しに、周りから歓待されるようになったのだ。
わかっていたことではあるが、相変わらず身勝手な連中である。
だって今まではずっと、害虫のように毛嫌いしていたくせに、自分に利益があると知った途端、今度は神か仏のように敬い出すのだから。
私としては無論、改めてそのいい加減さに呆れ果てるしかない。
ただ……
ただ、まあ、あれである。
何と言うかその……表現として適切なのかはわからないのだが。
こういう扱いも……実のところそう悪いものではない。
だっていつも通り、普通にそこらを歩いているだけで、出会うニンゲン達が明るい雰囲気になっていくのだ。
今まではずっと、私を見るなり、不機嫌な表情を浮かべていたというのに。
しかも訪問のお礼として、おいしい食べ物がもらえたり、新しい遊び道具がもらえたりする。
それどころか、暖かな寝床を提供してくれることさえあった。
これまでとは雲泥の差の、おそろしく丁重な扱いをされるのである。
もちろんそれが、ものすごく嬉しいというわけではないのだが。
ただ一応、そこまで嫌な印象も無かった。
評価すべきところもあるのだな、くらいの感想ならば抱けたのだ。
だから、だから思った。
正直ニンゲンのことは、未だに好きではないけれど。
本当なら全員、憎むべき相手ではあるのだけれど。
だけど、それでも――
まあちょっとくらいなら、お前らに付き合ってやってもいいぞ、と。
そうほんのわずかにだが、ニンゲンに対する心構えを変えたのである。
ゆえにそれから、私は自身の嗅覚に導かれるまま、ひたすら例の臭いを捜索した。
そして発生源となっている病人を見つけ出し、しばしその側に留まって、一人一人最期を看取ってやった。
結果としてその誰もが、幸せそうな旅立ちを迎えることができた。
おかげで私は、そいつの家族や白衣の者達から、繰り返し感謝をされることになった。
面と向かって、『ありがとう』『ありがとう』と、時には涙さえ交えながら。
それは私がこの『ビョウイン』に来てから初めての、有意義かつ温かさに溢れる時間であった。
私はその恩恵がもたらす満足感を、存分に全身で味わい続けた。
今までにない幸福感を、飢えた獣のように求め続けたのだ……
だがそんな日々を長く続けて、その数が正確にわからなくなるほど、多くのニンゲンを見送った頃――
(ん……? これは……なんだ?)
私は突然、常に例の臭いを感じるようになった。
なぜか私が、どこで何をしていようとも、いつもそいつがまとわりついてくるようになったのである。
もちろん原因は、さっぱりわからなかった。
それがどういうものなのか、元々不明ということもあり、究明自体が極めて困難だったから。
私としては、ただひたすらに戸惑うばかりだった。
しかもその異変が起こると同時に、不思議と体に力が入りづらくなった。
加えて目や耳も鈍くなり、やたらと視界がぼやける上に、聞こえてくる音もどこか遠い気がした。
私の体に異常が発生しているのは、動かし難い明白な事実であった。
結果として私は、自らの状態を危険なものだと判断し、即座に対処を行った。
積極的な休養を取るため、即座にお気に入りの、落ち着いて休める場所へと移動したのだ。
それはこの大きな『ビョウイン』の片隅にある、小さな部屋――様々な物が押し込まれた、狭い倉庫の奥の奥である。
ここは普段、滅多に人が来ない場所なので、誰にも邪魔されずゆっくりと休める。
なので具合が悪い時は、良くここに閉じこもっていた。
いつもならそれですぐ復調できるし、今回もきっとそうなるだろう……
……という私の期待とは裏腹に、そのお馴染みの場所でどれだけ休もうとも、体調が元に戻ることはなかった。
朝に移動した後、完全に日が暮れて、月が天高く輝く頃まで待ったのにだ。
むしろますます、各種症状は悪化の一途をたどった。
最終的には、立ち上がることさえ困難となるくらいに。
結果として私は、力なく寝転んだ体勢のまま、延々苦痛に喘ぐこととなった。
そんな最悪に近い体調がしばらく続き、それにより意識が朦朧としてきたところで、ようやく私は気づいた。
(ああ……そうか)
常に感じるようになった、例の不思議な臭いの発生源は――
(私……なのか)
自分自身なのだ、と。
自分の体から、この臭いは噴き出しいるのだ、と。
事ここに及んで、ようやくその真実にたどり着いたのだ。
道理でいくら動こうと、こいつから逃れられぬわけである。
またそうなれば当然、今までの経験から考えて、間違いなく私にも死期が迫っているはずだ。
私は私が看取ってきた、数多のニンゲン達と同様に、このまま臨終の時を迎えるのだ。
ただそれがわかっても、現状できることはほとんど無い。
すでに全身が衰弱しきっており、歩くことも不可能な状態だから。
もう助けを呼ぶ声すら、満足に上げられはしない。
要するに私は、この暗い倉庫の片隅で、独り寂しく生を終えるのだ。
もがき苦しんだその果てに、誰にも看取られることなく。
何ともまた、空しい最期である。
当然内心では、なんでこんな不遇な終わりをしなきゃならないんだ、と繰り返し不満を漏らしていた。
だって私は、あれだけニンゲン達に付き合ってやったのだ。
その旅立ちを、数限りなく側で見届けてきたのだ。
それなのにこうして、自分だけが孤独に死んでいくなんて、どう考えたって理不尽であろう。
おかしいおかしい、こんな結末があってたまるものか、と誰にともなく抗議をせずにはいられない。
とは言え今の私には、その文句を口に出す気力すら無い。
なのでそのまま、自身の悲劇的境遇を嘆きつつ、鉛のように重いまぶたをそっと閉じた。
これでもう、二度と目覚めることはないのか、と深く絶望しながら……
だがそうして、私が空し過ぎる自らの運命を受け入れ、諦めと共に眠りに就こうとした……まさにその直後――
(……ん?)
奇跡という以外に表現しようのない、極めて非現実的で、そのうえ神秘的な現象が起こった。
それはたった一人、暗い倉庫の片隅にいたはずの私へ、突然誰かが話しかけてきたことだ。
「やあ、久しぶり」
しかも場違いなほどの快活さと、不自然なほどの喜びに満ちた声で。
無論私は、その予想だにしない事態に驚き、慌てて声の方へと目を向ける。
するとそこには、なんと――
(お前は……私が最初に看取った……?)
私の扱いが変わるきっかけとなった、あのベッドの男の姿があった。
そいつがなぜか今、こんな場所にいて、死期の迫る私へ声をかけてきたのだ。
しかもなぜだか、見るからに活き活きとしている。
あれほど深かった目の隈が見当たらず、頬はふっくらしていて、肌にも張りと潤いがあるのだ。
まるで別人のよう、と表現するのが相応しいだろう。
その不可解な状況に、訳がわからず戸惑う私へ、男は再度楽しげに呼びかけてきた。
「迎えに来たよ。さあ行こう」
そして不意に屈み込むと、両手で私の体を抱き上げる。
まるで赤子に触れる時のような、優しく丁寧な手つきで。
私はその唐突な行動に驚き、慌ててそこから逃がれようとしたのだが。
しかしすでに、体に抵抗する力が残っていなかったせいで、痙攣するようにもがく程度しかできない。
ゆえにやむなく、されるがままに身を任せ、男の懐へすっぽりと収まった。
するとそうして抱えられ、周囲を見渡せるようになった結果、私はその様子が大きく変わっていることに気がつく。
(なんで……こんなに眩しいんだ?)
暗いはずの室内がやたらと明るく、しかも見える物全てが、どこか白くぼやけているのだ。
照明を点けた覚えはないし、まだ朝が来るには早過ぎる時間帯だというのに。
はてどうしてこんなことに、と首を傾げるばかりの状況である。
しかも次いで、私の眼前には、それよりもさらにおかしな光景が現れた。
(あれは……なんだ? ニンゲンか?)
白色に霞んだ世界の端、辛うじて顔が判別できるくらいの距離に、多数のニンゲンが並んでいたのである。
しかも揃って笑顔で、こちらへ大きく手を振りながら。
まるで親しい友の到来を、今や遅しと待ち構えているかのようだ。
私はその異様な眺めに対し、いったい何をしてるんだあれは、と怪しんでいたのだが――
(待てよ……? ひょっとしてあいつら、まさか――)
やがてそこへ並ぶ一人一人の顔に、確かな見覚えがある、という事実にたどり着く。
(私が看取ったニンゲン達?)
そう、白色の世界の向こうから、笑顔で手を振っているニンゲン達の正体――それはこの『ビョウイン』で、私が黄泉への旅立ちを見送った者ばかりだったのだ。
死に際しか知らぬとは言え、さすがに見誤るというのは考えにくいし、やはり本人達と見て間違いはない。
要は死んだはずの者達が、なぜだかこんな場所に集い、諸手を挙げて私を出迎えているわけだ。
ああまったく本当に、何がどうしてこういう事になっているのだろう。
そう状況の異様さに混乱し、思考を激しく掻き乱されながらも、しかし一方で私は――
(でも……なんか、あいつら)
その眼前の人々に対し、不思議な感想を抱いていた。
(ずいぶん、幸せそうだよな)
なぜなら彼らの佇まいが、遠目に見てもわかるくらいの、喜びと慈しみに満ちていたから。
もし天国というものがあったら、きっと住んでいる者達はあんな雰囲気だろう――そう思わせるくらいの、圧倒的な幸福感がにじみ出ていたのだ。
何やら存在そのものが眩しくて、直視することすら難しい。
そんなこちらの想いに、私を抱く男も気づいたらしく、そこでひどく嬉しそうに問いかけてくる。
「どうだい? みんな幸せそうだろう?」
その問いかけは、少しばかり私を落ち込ませる。
幸せそうなニンゲン達と、孤独な己の境遇の落差を痛感し、心が深く抉られてしまったから。
なぜ自分だけがこうなのか、と改めて絶望せずにはいられない。
しかしその鬱々たる感情は、次いで男が発した驚くべき一言により、ほぼ跡形もなく消し飛ばされることになった。
「全部、君のおかげだよ」
ただすぐには、その発言の意味がわからなかったので、私はしばし呆気に取られていたのだが。
それを見て男は、やはり楽しげに微笑みつつ、丁寧に発言の意図を教えてくれる。
「これは全部、君の見送りのおかげなんだ。
最期の瞬間まで、君が側に寄り添ってくれていたから、みんな孤独を感じずに旅立つことができた。
それがこうして笑顔でいられる、一番の理由なんだよ」
そして少し遠い目になって、独白するように自身の心境を語った後――
「だってそうでなければ、今もたぶん、死ぬ直前の苦痛と恐怖を引きずっていた。
そのせいで誰もが、どこか暗い場所で、恨みつらみに囚われていたと思う。
きっとこんな風に、心の底から笑ってなんかいられなかった……」
また私に意識を戻し、まっすぐに感謝の言葉を捧げてきた。
「もちろん、私だってそうだ。
君がいなければ、世を恨んで化けて出ていたかもしれない。
私は君に、魂を救ってもらったんだよ。
本当に、本当にありがとう」
するとその瞬間、突如として全身が、まるで燃えているかのように熱くなる。
(うっ……くっ……)
同時に衰弱したはずの体へ、隅々まで力が行き渡っていった。
何だか今すぐ男の手を抜け出し、そこら中を飛び跳ねたい気分である。
その感覚のおかげか、先ほどまで感じていた喪失感や絶望感は、もう胸の内のどこを探しても見当たらない。
どうやら傷ついた私の魂は、先ほどの男の言葉で深く癒やされたらしい。
きっとその感動が熱となり、こんなにも体と心を震わせているのだろう。
まあ我ながら意外な反応だし、認めたくない現実でもあるのだが。
そうして押し寄せる様々な感情に、激しく打ち震える私の姿を、男はしばし優しく見つめる。
ただ少し時間が経ち、ようやく私が落ち着いてきたところで、安心させるように再び声をかけてきた。
「大丈夫。もう君を独りにはしないから」
それから居並ぶ人々に向かって、ゆっくりと歩き出す。
おそらく彼らと合流し、共に旅立つつもりなのだろう。
私としては無論、その腕に抱かれたまま、ただ運ばれるのみである。
その最中、私はずっと考えていた。
ひょっとしてこれが、ニンゲンの本当の姿なのだろうか、と。
ニンゲンとは本来、これほどの温かさを秘めた生き物なのだろうか、と。
私が知らなかっただけで、それが真実なのではないか――そう思うようになっていたのだ。
だって、あまりにも眩しかったから。
笑顔で手を振るニンゲン達の、光輝くほどに幸せそうな様子や、私の孤独を打ち払ってくれた、男の慈しみに溢れた振る舞いが。
そのふたつに対し、心を強く揺さぶられたがゆえに、今までとは違う考えをするに至ったのである。
だとしたらまあ、ニンゲンというのも、それなりに粋な連中と言えるのだろう。
ほんの少しだけならば、見直したっていいのかもしれない。
呆れるほど愚かで、悲しいほど身勝手なところは、何ひとつ変わりないとしても。
だから、だから思った。
今までは全く、心の端によぎることすら無かった願いだが。
こんな事を願うなんて、以前の自分では決して考えられないことなのだが。
それでも私は、例の男と白色の世界を進む中で、心からこう思ったのだ。
(そうだな……今度は――)
もし、もし次、自分が生まれ変わるようなことがあるのなら。
そして生まれ変わる先を、自分で選べるとしたのならば。
その時は――
(人間に、なれたらいいな……)