死神と呼ばれた猫(中)
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「あっ! こいつ! こんなところに!」
その刺々しさに満ちた、ひどく暴力的なモーニングコールで、ようやく私は目を覚ました。
例の男の胸の上に、小さく丸まった体勢のままで。
ただ一瞬、寝起きゆえ状況が掴めず、ついぼんやりとしてしまう。
霞む目を瞬かせつつ、なぜ自分は眠り込んでいたのだろう、なんてズレたことを考えていたのだ。
そこへ再び、先ほどの声が響いてきた。
「どけ! どくんだ! シッ、シッ!」
そのあまりのしつこさと、辛辣極まる声音に、私は激しく神経を逆撫でされる。
それゆえいったい何の騒ぎだ、と軽く苛立ちつつ、そちらへ視線を向けた。
結果として、私の目に映ったのは――
(あっ……)
ひどく憎々しげな表情を浮かべて、こちらを厳しく睨み付ける、白衣を纏った男の姿である。
おそらくは、この『ビョウイン』の職員だろう。
そしてその手は、何かを叩く直前のように、大きく振り上げられている。
それを見た瞬間、素早く現状を把握した私は、迷うことなくその場から飛び退いた。
暴力の到来を察知し、反射的に逃走を図ったのだ。
(……うわっ!)
すると直後、今まで私がいた位置を、男の腕が凄い勢いで通り過ぎていく。
もし元の場所に留まっていれば、あれに激突し吹き飛ばされていただろう。
間一髪で大怪我を避けられた、ということである。
その白衣の男が、突如そんな行為に及んだ理由――それはおそらく、ベッドの男を守るためだろう。
彼は患者の様子を見に来たところで、そこに眠る私の姿を見つけ、『死神』を追い払おうと実力行使に出たのだ。
やれやれ危ないところだった、と胸を撫で下ろすより他はない。
もっともそうして、最初の一撃こそ回避できたものの、まだ安全が確保されたとはいい難い。
なぜなら例の白衣の男が、興奮冷めやらぬ雰囲気のまま、私の方をじっと睨みつけているから。
毎度のことだが、実に腹立たしい態度である。
だって私は、何ひとつ悪いことをしていないのだから。
それなのにこの手ひどい扱い、どう考えても理不尽であろう。
抗議の意志を示すため、いっそその手に思い切り噛み付いてやろうか。
そんな風に私は、半ば本気で考えていたのだが。
しかし実際に、相手に牙を剥こうとしたその矢先――
「……えっ?」
ふと眼前の男が、そう小さい驚きの声を上げて、急にベッドを振り返った。
その視線の先には、同じく白衣を着た女がいて、暗い顔で男に何か呼びかけている。
いかにも深刻な話をしています、という空気だ。
それを聞いた男は、なんと瞬く間に――
(なんだ……?)
先ほどまでの荒々しさを引っ込めて、代わりにひどく沈痛な表情を浮かべた。
とても悲しいことを知らされた、というのが容易にわかる反応である。
そんな男の態度の変わりようを見て、間を置かず私にも、何が起こったのかの予想がつく。
(まさか!)
それゆえ慌ててベッドに視線をやると、そこには一人静かに眠る、例の男の姿があった。
その顔は隅々まで、命の気配なき土気色に染まっており、また見る限り呼吸もほぼしていない。
そう、つまり彼は――
(死んだ……のか?)
私が彼の胸の上で、のんびりと昼寝を決め込んでいる間に、寿命を迎えて黄泉の国へ旅立ったのだ。
ただ一人、私だけを自らの看取り人として。
眼前にあるその現実は、私の心を激しく揺るがす。
(本当に……死んだ……私が来た途端に……)
なぜなら今までは、話に聞くだけだった現象――自分の訪問を受けたニンゲンが息を引き取る――を、目の前で見せつけられたから。
しかも否定しようがないほどに、明確かつはっきりと。
こうなるともう、馬鹿馬鹿しい話と片付けるのは難しい。
あの変な臭いは、ひょっとして死期の近づいたニンゲンが発するものだったのか、とか。
私の鼻には、それを察知する力があったのだろうか、とか。
そんな根拠の無い想像ばかりが、ひたすらに脳内を駆け巡っていく。
またそのせいでつい、愚にもつかぬことまで考えてしまった。
(これじゃまるで、本当の死神みたいだ……)
これほどタイミング良く死人が出たのなら、私の訪問が、何らかの影響を与えた可能性もあるのではないか。
そういうつまらぬ考えが、頭にまとわりついて離れなくなったのだ。
ひょっとして私が死神という話は、ニンゲン達の妄想ではなく、紛れもない真実だったのだろうか……
そう眼前の現実に打ちのめされ、私はすっかり自信を失っていたのだが。
しかしその直後、白衣の女が、ふと何かに気づいたような声を上げる。
「あれ……?」
そして眉をひそめつつ、ベッドの男の顔を覗き込んだ。
そこへ何か、看過できぬ異変が生じているとでも言わんばかりに。
私と白衣の男は、いったい何事かと、しばしその様子を眺めていたが。
やがて白衣の女は、腑に落ちない顔をしたまま、それに相応しい奇妙なことを口にした。
「この患者さん、すごく幸せそうな顔してる……」
身動きひとつとれぬほど、衰弱しきっていたあの男が、幸せそうな顔で永遠の眠りについている――なんと彼女、突如そんな話を始めたのだ。
その境遇を考えれば、普通はあり得ないことだと言うのに。
当然もう一人の男は、それに驚きつつ、慌てて自分の目でも確認する。
するとやはり、不思議そうな様子で、先ほどの女とほぼ同じ感想を述べた。
「本当だ……いい顔をしている。
昨日まではあんなに苦しそうだったのに。
いったいなんで……?」
どうやら例の男は、本当に安らかな寝顔をしているらしい。
孤独と苦痛に苛まれていたあの病人が、と考えると、どうにも不可解な事態である。
そのせいでしばし、病室の中には奇妙な空気が流れ始める。
謎めいた現象を前に、誰もが首を傾げて黙り込む、という状態が延々と続いたのだ。
しかし、その果てに――
「ひょっとして……」
白衣の女の方が、急にこちらを振り向いて、私をじっと凝視した。
ひどく訝しげに、何か信じられないものを見るような目で。
それから彼女は、いかにも半信半疑、という口調で口を開く。
眼前の不思議な事態に対する、自分の考えを語り始めたのである。
それは驚くべきことに、あのベッドの男と全く同じ、壮絶な勘違いだった……
「この子がずっと側にいてくれたから……?」




