死神と呼ばれた猫(前)
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『猫の姿をした死神』
現在の住処である、この『ビョウイン』という場所において、私はそういう不名誉な称号を押し付けられている。
私の周りのニンゲン達は、みんな私のことをそう呼ぶのだ。
私が突然、そんな訳のわからない呼ばれ方をされ始めた理由――それはなんと、私にニンゲンの死を予知する力がある、と彼らが考えたから。
何でもこの『ビョウイン』で、私の訪問を受けた者は、必ずそれから数日以内に息を引き取るらしい。
その話に様々な尾ひれが付き、『寿命を予知する死神のような猫』という噂が、真実として広まってしまったのである。
言うまでもないことだが、全て濡れ衣だ。
だって私は、今までに一度だって、ニンゲンの死期を見抜いたことなんて無いから。
あれはあくまで連中の勘違い、被害妄想も甚だしい認識、というわけである。
いやはやまったく、実に、実に馬鹿馬鹿しい。
まあ一応、『私の訪問を受けた者が息を引き取る』という話は……事実だったりもする。
確かに今まで、ちょっとした理由で訪ねたニンゲンが、間もなく姿を消したケースは幾度かあるのだ。
それなりに裏付けのある話、と言えなくもないのだろう。
ただしそれは、別に死期を見極めたわけではない。
私としては単に、『変な臭い』を追いかけていただけなのだ。
そう、『変な臭い』である。
この『ビョウイン』を歩いていると、ふとした瞬間に漂ってくる、謎めいた臭い。
それは他で感じることのない、不思議な香ばしさを含んだ臭気。
突如どこからともなく現れ、そしてどこへともなく去っていく漂流物。
それに興味を持ち、自慢の鼻で辿っていったら、たまたまその先に死期の迫る患者がいた――真相としては、本当にそれだけなのである。
つまりは全て偶然の産物であり、死神呼ばわりなんてのは、くだらぬこじつけでしかない。
まったくニンゲンというのは、どうしてこう愚かしいのだろうか。
こんな奴らが集まる場所、本来なら一刻も早く出て行きたい。
しかし残念ながら、今の私にそういう自由は無い。
なぜなら私は、この『ビョウイン』とかいう場所に、これから一生縛り付けられる定めだから。
しかも命尽き果てるまでずっと、一歩も外へ出ることなしに。
要するに私は、ここの虜囚に近い立場なのだ。
私がそういう扱いを受ける、そもそもの原因は、私自身の生い立ちにある。
私はいわゆる孤児であり、ここには引き取られる形でやってきた。
労働力として連れて来られた、と言い換えてもいいだろう。
何でもニンゲン達は、私にここで『せらぴい』なることをさせるつもりらしい。
その詳細は不明だが、きっとろくでもない仕事だろう。
たぶん私のことを、ボロボロになるまで酷使するつもりに違いない。
それでも立場上、その非道な扱いに逆らうのは難しい。
他に行くところも無ければ、面倒を見てくれる相手の当ても皆無だから。
飛び切り不幸な境遇、と表現するより他はない。
その事実を認識するたび、深く長いため息が漏れるばかりである。
(はあ……)
そんな鬱々とした思索を巡らしつつ、私は独り、自身の住処たる『ビョウイン』の廊下をさまよっていたのだが。
そこへふと、再び例の『変な臭い』が漂ってくる。
(ん? またか……)
するとなぜか急に、無性に居ても立ってもいられない気分になった。
その臭いが内包する、奇妙とも言える香ばしさに、鼻孔を強く刺激されて。
そう、実はこの臭いを嗅いでいると、不思議と気が逸ってくるのだ。
心が引き寄せられてしまう、と言ったっていいかもしれない。
ゆえに私はすぐ、誘われるようにそれを追いかけていく。
結果として、私の目の前に現れたのは――
(……また、死にかけのニンゲンか)
青痣と見紛うほどに、濃く刻まれた目の隈。
骨に張り付いているような質感の、くすんだ色をした全身の皮膚。
聞き耳を立てねば捉えられぬくらい、か細く頼りない呼吸……
そんないかにも瀕死、という有り様の、ひどくみすぼらしいニンゲンの男だった。
彼は真っ白な病室のベッドで、目を閉じたまま、仰向けの体勢で眠りこけている。
どうやらこの臭いは、こいつが発生源らしい。
それがわかった瞬間、私は臭いへの興味をすっかり失った……のだが。
それでもその香ばしさに、やはり惹かれるものがあったので、もう少し近くで嗅いでみることにした。
(まあ、ちょっとくらいなら)
そこでそのベッドに歩み寄ると、軽くジャンプして上へ飛び乗り、男の痩せた頬に自らの鼻を寄せていく。
『こんな事をしてたら、また死神扱いされるかも』という憂いを、心の隅に抱えた状態で。
同時に『それなのになんで、自分はこんな臭いを嗅ぎたがるんだろうな』と、己の行動に疑問を感じながら。
だが、なんとその直後――
「お……お前は!」
眠っていたはずのその男が、不意に目を開け、私を見るなり驚きの声を上げた。
『死神』が側にいるのを知って、恐怖を感じたからだろう。
となれば当然、すぐにでも動き出し、力任せに私を追い払おうとするはずだ。
そう予測した私は、即座に体を引き、素早く後方へと飛び退く。
しかし意外にも、そんな私の考えとは裏腹に――
「うっ……ぐっ……あ……」
男はなぜか、ほとんど動きを見せなかった。
ベッドの上で苦しげに呻きつつ、ほんのわずかに体をよじるだけだったのだ。
どうやらこの病人と思われる男、動かないのではなく動けないらしい。
おそらくはそれだけ、病気で体が弱っているのだろう。
私としては無論、やれやれ脅かすなよ、と胸を撫で下ろすばかりである。
そうして独り安堵する私を横目に、男はしばし身じろぎを繰り返していたが――
「かっ……はあ……くそっ、駄目か……」
やがて諦めた様子で動きを止めると、次いで小さな呟きを漏らす。
何かを悟ったかのような、深い絶望を感じさせる口調で。
「そうか……俺……死ぬのか……」
どうやら自らの衰弱ぶりを理解し、死期が迫っていることを自覚したようだ。
まあ見るからにくたばりかけだし、おそらくその考えは間違ってない。
するとそう認識した瞬間、ふと私の胸の内に、少しばかり邪な気持ちが芽生えてきた。
(少しからかってやるとするか)
つまらぬ濡れ衣で、死神扱いされた恨みを、ここで晴らしてやろうと思いついたのだ。
この状況を利用し、軽く相手をおちょくってやることで。
趣味の悪い嫌がらせではあるが、しかしこれだけ理不尽な扱いを受けているのだ、その程度の仕返しなら許されるだろう。
そんな悪だくみを胸に、私は再度男へ歩み寄り、そのすぐ側に近づいたところで――
(とーうっ!)
軽やかに体を跳躍させ、男の胸の上に着地すると、そのままうつ伏せになって体を丸める。
いかにも昼寝してますよ、という風を装いながら。
要は相手が動けないのをいいことに、その目前で好き勝手に振る舞っているわけだ。
どうだ悔しかろう、追い払えるものならやってみろ、と挑発するかのように。
もちろんそうされたところで、今のこいつには抵抗など不可能だから、私の暴虐に翻弄されるしかない。
意趣返しとして十分な、ほど良い迷惑行為と言えるだろう。
いやはや実に、いい気分である。
なんて満足感に浸りつつ、私は男にばれぬようそちらを注視し、歯噛みして悔しがるところを楽しみに待っていたのだが。
しかしなんと、ベッドの男は――
(……んん?)
私の行動に驚いて、顔を強張らせた後、続けて全く予想外の反応をした。
『信じられない』という表情で、確かめるように問いかけてきたのだ。
「お前……俺の側にいてくれるのか……?」
どうやらこいつ、私が死にゆく男に同情し、その旅立ちに寄り添うつもりだと勘違いしたらしい。
そんな事あるはずないだろうに、まったくおそろしいほどに馬鹿な男である。
その思い違いが腹立たしかったので、私は早速行動を開始する。
男の認識を正すため、その呆けた顔を、自慢の爪で引っ掻いてやろうとしたのだ。
しかしその瞬間、なぜだか急に、猛烈な睡魔が襲ってくる。
(あれ……? なんか……眠いな)
同時にまぶたが重くなり、体の動きも急速に鈍っていった。
そのせいで今はもう、相手を引っ搔くどころか、少し指を動かすのさえ億劫な状態である。
睡眠はきちんととっているはずだが、どうして突然、こんな事になったのだろうか。
もっとも別に、それで困るようなこともない。
相手が満足に動けぬ以上、自らの安全は確保されているのだから。
いっそこのまま、本当に寝てしまったっていいだろう。
その判断に従い、私は早速目を閉じ、力を抜いて睡魔に身を任せる。
ひょっとしたら危険かもしれないが、まあ相手は死にかけだしどうにかなるだろう、と完全に事態を楽観して。
そしてその状態のまま、下敷きにしたニンゲンの温もりに、不思議なほどの安らぎを感じながら――
(……温かいな)
独り、静かな眠りに落ちていった……