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笑顔を見せて

更新履歴 21/12/1 文章のレイアウト変更・表現の修正


 春は、何もかもが変わる季節だ。



 色々なものが終わりを迎え、そして新たな世界へ旅立っていく。

 溢れるほどの期待と不安を、等しくその胸に抱えながら。

 『冬』という停滞と忍耐の日々を越えた命達が、自由に羽ばたき始める時期なのである。


 僕はそういう存在を、今までに星の数ほど見送ってきた。

 いつものこの場所から、飽きもせずただひたすらに。


 彼女もまた、その中の一人だった。


 出会いは、去年の春。

 僕の向かいにあるアパートに、彼女が引っ越してきたのが始まりだ。


 彼女は見た感じ、大学生のような雰囲気をしており、また同居人の姿も無かった。

 どうやら新しい季節の到来を機に、一人暮らしを始めることにしたらしい。

 おそらくは遠からず訪れる、社会人としての生活に備えて。


 僕はその様子をずっと、毎日のように見つめていた。

 今いる場所から一切動かぬまま、ただひたすらにぼんやりと。

 ちょうど大変な仕事を終えたところで、ひどく疲れていたから。

 まあそうでなくとも、滅多に移動したりはしないのだが。


 そんな横着極まりない僕の前を、彼女は日々、元気良く横切っていった。

 隅々まで希望に満ち溢れた、最高に魅力的な笑顔を浮かべながら。


 おそらくは、親離れに成功したことへの自負と、新たな暮らしへの期待がそうさせたのだろう。

 伸び行く若芽ゆえの輝きと言うか、なんとも微笑ましいものである。


 ただしもちろん、全てがうまくいっていたわけではない。

 失敗だって、たくさんしていた。


 例えば料理を焦がしたのか、換気扇から真っ黒な煙を上げてしまったり。

 あるいは購入した家具が大きすぎて、部屋へ入れるのに難儀したり。

 時には突然の大雨で、洗濯物を全てずぶ濡れにしてしまったり。

 むしろ苦労の方が多かった、とさえ言えるだろう。


 それでも彼女は、いつも楽しそうだった。

 成功を素直に喜び、失敗を平気な顔で笑い飛ばして、何もかも乗り切っていたのだ。


 僕は自分が徐々に、そんな彼女に惹かれていくのを感じた。

 彼女の浮かべる笑顔を、いつしか大切に思うようになっていたのだ。

 このままずっと見ていたい、と心から願ってしまうほどに。


 しかし無情にも、僕の想いが天に届くことは無かった。

 僕は間もなく、彼女の身に起きた異変により、その笑顔を見ることができなくなってしまったのである。


 彼女の様子がおかしくなったのは、梅雨が終わりを告げ、真夏の太陽が輝き出した頃のことだった。

 その焼けつくような暑さの中、彼女は毎朝、真新しいリクルートスーツを着て出かけていった。

 いつもとは異なる、やたらと緊張した面持ちで。


 どうやら彼女に、越えるべき試練の時が訪れたらしいのだ。

 それを理解した僕は、静かにその戦いを見守ることにした。

 結果が良きものとなるよう、心の中でエールを送りながら。


 だがそんな僕の想いとは裏腹に、試練に赴く彼女の表情には、日を追って陰りが目立つようになった。


 一応朝は、自分で自分を奮い立たせているのか、以前と変わらぬ元気な姿を見せるのだが。

 しかし夜はと言うと、深いため息をつきながら、その元気をすっかり失って帰ってくるのだ。

 しかも毎日毎日、見ているこちらが辛くなるほどの深刻な表情で。


 だからかそれを繰り返す内に、やがて彼女は、ほとんど笑わなくなった。

 暗い顔でうつむいたまま、足を引きずるように歩くのみとなったのである。

 少し前までは、あれほど一人暮らしを謳歌していたというのに。


 僕は当然、そんな彼女の様子に、ひどく心を痛めていた。

 どうにかその苦しみを和らげてあげたい、自分に何かできることはないのか、と必死で考えるほどに。


 しかし残念ながら、身動きのとれぬこの身では、してあげられることなど何ひとつ無い。

 ゆえに僕はそのまま、ただの傍観者として、彼女の姿を追い続けることになった。


 そういう状況のまま、季節がふたつほど過ぎた頃だったか。

 彼女に小さな、だが本人にとっては大きいはずの、とある事件が起こった。

 それは冬が一番深まる時期、凍えるように寒い日の出来事である。


 その日の彼女は、どんよりと曇った灰色の空の下、妙に早く家へ帰ってきた。

 晴れていれば、まだ太陽が天高く居座っているはずの時間に、帰宅を果たしたわけである。

 いつもは夜遅くまで、一生懸命試練へと立ち向かっていたというのに。

 無論、どう考えても不自然な行動である。


 もっとも、彼女がそういう行動をとった理由は、見ているだけの僕にもすぐわかった。

 具体的に何があったのかは不明だが、全身がくまなく、見たこともないほどボロボロだったから。


 強風にあおられたかのように激しく乱れた、普段は艶やかな長い黒髪。

 今朝も頑張って整えたはずなのに、もうすっかり崩れてしまっているお化粧。

 あちこちに泥が跳ね、おまけにところどころかぎ裂きさえ見える服。

 彼女はそんな、無惨と呼んでも差し支えのない、ひどい状態に陥っていたのだ。


 しかも靴が壊れてしまったらしく、片方を手に持ったまま歩いていた。

 当然その靴を履いていた方は、ほぼ裸足である。

 それで冷たいアスファルトを踏みしめる様は、かなり痛々しかった。


 おそらく何かの事故に巻き込まれたか、あるいは派手に転倒でもしたのだろう。

 どういう転び方をすれば、ああも滅茶苦茶になるのかはわからなかったが。


 ともかくその日を境に、彼女はますます塞ぎ込むようになり……やがて、スーツを着ること自体なくなった。


 この事件が原因になったのか、それともただのきっかけに過ぎなかったのか。

 詳しいことは、もちろん傍観者たる僕にはわからない。

 確かなのは、彼女が戦いを辞めてしまった、という事実だけだ。


 そんな彼女を、やっぱり僕は、何もせず見つめていた。

 声すら出せぬこの身には、励ましの言葉をかけることすら叶わないから。

 相変わらず僕は、一切彼女の役に立てないまま、じっとその姿を追い続けるだけだったのである……


 そして出会いから一年近くが経過した、次の年の春。

 芽吹き蕾を開いた花達の香りが、生命を礼賛するように漂う季節の始まり。

 その頃になっても、彼女は未だ、魂が抜けたような顔のままだった。


 実際今もまた、いつかの明るさが嘘のような重い足取りで、僕の前を通り過ぎている。

 うなだれたままのその顔には、もはや楽しげな感情など欠片も見て取れない。

 そんな様変わりした彼女の姿に、僕の心はどうしようもなく痛め付けられていった。


 だがそんな暗い表情も、今日までの話。

 いや何がなんでも、今日までにしてみせる。

 今の僕にならば、きっとそれができるはずなのだ。

 だって彼女を元気づけるための、とても良い手段を持っているのだから。


 ただしそれには、ほんの少しだけ誰かの後押しが必要である。

 僕一人の力では、やはりどうにもならないことなのだ。


 そこで深く深く、誠心誠意、天に乞い願った。

 どうか、どうか非力なこの僕に、彼女を支える力を与えてください、と。

 そのために夏が過ぎ、秋を通り抜けて冬を越えるまで、こうして長く辛抱してきたのですから、と。


 それが叶って……なのかどうかは、もちろんわからないのだが。

 しかし突然、僕が望んだ通り、辺りに一陣の風が吹き抜ける。


 結果その風にあおられて、僕の節くれ立った指先から、いくつかの欠片達が離れて舞い上がった。

 次いでその飛び立った欠片達は、風に乗って空を飛び、うなだれた彼女の眼前を横切っていく。


 彼女はその瞬間、ひどく驚いた表情を浮かべ、慌ててこちらを振り返った。

 そして眩しそうに僕のことを見上げ、目を大きく大きく、これ以上ないというほどに見開く。

 まるで僕を目にしたことで、今が春だと思い出したかのように。


 そうした相手の反応に、強い手応えを感じながらも、僕は『いやまだまだ』と気を引き締める。

 なぜなら未だ、一番大切な目的が果たされていないから。

 こんなちょっとした成功で、満足などしてはいられないのだ。


 湧き上がるその想いを胸に、僕は自分の両腕をいっぱいに伸ばして、彼女へと披露した。

 世に春の訪れを知らせるため、僕の体中にくまなく咲き誇った――



 儚げで美しい、桜色の花達を。



 これが僕にできる、唯一のこと。

 この季節にだけ許された、僕の特権だ。

 それをひとつ残らず彼女に捧げながら、心の中で呼びかける。


 もう一度だけでいいんだ。

 どうかもう一度だけ、僕に見せてくれ。

 今はどこかに隠れてしまっている、君の本当の姿を……と。

 血も通わず、声も上げられぬ体で、魂込めて精一杯に。


 すると不意に、驚きで固まっていた彼女の顔へ――



 再びあの、最高の笑顔が戻ってきた……








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