太陽
更新履歴 21/11/28 文章のレイアウト変更・表現の修正
『少年老いやすく、学成り難し』
これは『若い頃は先があると思って真面目に勉強しないが、そうしている内に年月が過ぎ、結局は何も学べずに終わる』――そんな意味の言葉なわけだが。
いやはやまったく、的を射ているというか何というか、実に良く言ったものである。
そんな風に私は、その使い古された言葉の正しさを、否応なく実感する羽目になっていた。
眼前にある、自らの持ち主たる少年の、やる気が一切感じられない顔のせいで。
彼の使う机の上に、本来の役目を与えられぬまま、空しく放置された自身を哀れみながら。
そうして悩む私の周囲に広がるのは、主と似た年頃の少年少女が、何列かに分かれて並ぶ姿だ。
彼らは皆一様に、同じ服を着て、同じ椅子に座り、同じ机に向かっている。
またその前方には、教師らしき、厳格な雰囲気を漂わせる大人がいた。
彼は教壇の側で、黒板に向かって立ち、そこへ手早く何かを書き付けている。
まあ要は、どこにでもあるごく一般的な教室の風景、ということである。
ちなみに今、その平凡な教室で行われているのは、歴史の授業だった。
現在このクラスでは、近現代史のとある一部分を学習中なのだ。
そしてその辺りは、次のテストの主要な範囲でもある。
となれば当然、気持ちを入れてしっかりと勉強すべきところ……なのだが――
(大丈夫なのか……こんな状態で)
我が主は、今にも居眠りを始めそうなほど気の抜けた表情で、ひたすらにあくびを噛み殺すだけだった。
勉強面倒くさい、早く終わらないかな、という心根がにじみ出た態度である。
真面目に取り組む気が無いのは、火を見るよりも明らかだろう。
となるとおそらく、授業内容は何ひとつ頭に入らぬまま、というか入れる気自体が無いに違いない。
それゆえ私も手持ち無沙汰で、仕事をさせてもらえる気配はほぼ皆無だ。
なんともはや、困った学生殿である。
ただまあそれも、現状ではある意味致し方ないことか。
実は主が勉強に集中できないのにも、きちんとした理由があるのだ。
ちなみにそれが、何かと言うと――
(……この暑さでは、仕方ないか)
主が押し込められている、この教室の気温である。
ここは現在、じっとしていても汗が噴き出してくるぐらいの、尋常ならざる熱気に満たされている。
窓の外で、降り注ぐ太陽の光が、鬼神のごとく暴れ回っているせいで。
まあ春の穏やかさが遠い、夏真っ盛りの快晴の日の午後では、それも当然のことなのだが。
しかもそんな状況だというのに、なんとこの教室には、どこを見渡してもクーラーが設置されていない。
そのせいで部屋の中の温度は、外と変わりないか、むしろ輪をかけて蒸し暑い。
それでも一応、申し訳程度の空調設備として、大型の扇風機はあるのだが。
ただそいつがいくら回ろうと、熱湯のような空気をかき混ぜるのみなので、涼しさを感じることはない。
無いよりはマシ、と表現するのも気が引けるような有り様である。
さらに間の悪い事に、直前の授業は体育で、おまけにプールを使ったものだった。
つまりこの教室の生徒達は、存分に全身運動をしたその直後、静止しての座学を強いられているわけだ。
それによる疲労を引きずったまま、サウナとさえ勘違いしたくなるような、たいへんに過酷なこの場所で。
これでは間違いなく、熱気と眠気のダブルパンチで、勉強など手につくものではない。
何の拷問だよ、本当に勉強をさせる気があるのか、との疑いさえ抱いてしまうような状況だ。
もっともその当然の不満を、ここにクーラーを設置しないと決めた連中にぶつけたところで、おそらくあっさり突っぱねられることだろう。
『忍耐力の育成も必要だ』などと、無茶で強引な理屈を並べて。
自分達の方は、毎日涼しい環境で働いていると言うのに。
相も変わらずの、理不尽極まりない世の中である。
となると我が主が、こうして学びの時間を怠惰に過ごしてしまうのも、それはそれで致し方ないところか。
冷静に考えて、十分に情状酌量の余地がある事態なのだから。
本来はあまり、口うるさく言うべきではないのかもしれない。
とは言えしかし、である。
だとしてももう少し、身を入れて勉強すべきと思うのだ、私は。
だって我が主は、これから自分がどう生きていくのか、未だに全くと言っていいほど考えていないのだから。
ならばせめて勉強をして、様々な知識を増やすと同時に、社会的評価も高めておくのが得策だろう。
それはいつか、自分で成し遂げたい事が見つかった時、必ず助けになるはずのものなのだ。
直接は役に立たずとも、きっと何か別の形で。
それを簡単に放棄してしまうのは、やはりもったいないという風にしか思えなかった。
だがしかし、そんな小難しく説教臭い事を、いくら私が考えたところで――
(まあ……意味は無いわけだが)
我が主には、伝わるわけもない。
言葉を口にできぬこの身に、それは元より不可能な行いなのだ。
あくまで道具は道具、ということである。
そうした不遇極まる自身の立場を、私は少しばかり儚んで、独り地団駄を踏む。
ああ本当に、早く仕事がしたいよ……と、心の中で強く願いながら。
するとそうして、やりきれぬ想いを抱えた私へ、追い討ちをかけるかのように――
(わっ……うわあああっ!)
次いで我が主が、突然私を手に取って、間を置かず激しいダンスを踊らせ始めた。
彼が最近会得したらしい、とあるテクニックの実験台に、運悪く選ばれてしまったのだ。
そのせいで私は、竜巻にでも突入してしまったかのように、猛スピードで回転を始める。
細く無機質な自分の体が、歪み軋む音が聞こえてくるくらいに、ありとあらゆる方向へ揺さぶられたのだ。
おそらくは退屈を紛らすため、こういう遊びに興じているのだろう。
しかし無論、やられるこちらは混乱の極致である。
生きた心地がしない、とはこの事だ。
どうか一刻も早く、やめていただきたい。
それに本来、これは授業中にやるような事ではない。
友達にもずいぶん自慢して、軽めに煙たがられていた行為なのだし、何にせよほどほどにしておくべきだろう。
どんなトラブルの種になるか、予想もつかないのだから。
するとその心配は、しばらしくして見事に的中する。
「あっ……」
『失敗した』という感情がにじむ、その小さな呟きと共に、主が私を横へ弾き飛ばしたのだ。
例のダンスの勢いのままに、とんでもない速度で。
きっと操作を誤ったか何かで、つい手放してしまったのだろう。
ゆえに私はそのまま、わずかに宙を舞った後、重力に引かれて床へ叩きつけられた。
そこで発生した軽い音は、意外なほどはっきりと、教室の中に伝わっていく。
きっと皆が静かにしていたから、小さな音でも響いてしまったのだろう。
その場違いな音を、固い床の上で聞きながら、ほとほと呆れた気分で私は思った。
ああほら、言わんこっちゃない。
真面目に勉強に励むべき、学校での授業中に――
ペン回しなんかしてるから、こういう事になるんだよ……と。
するとその直後、唐突に前方の教師が、こちらを振り向いた。
何かを訝しむように、眉間に深い皺を寄せながら。
おそらく私が立てた音を聞き取り、原因を確かめようとしているのだろう。
ゆえに私は、即座に緊張して体を強張らせる。
自分が見つかってしまえば、自然と我が主の戯れが露見し、教師に叱責されるかもしれないと気づいたから。
これは彼の平穏な学校生活にとって、それなりに由々しき事態なのである。
ただもちろん、自力で動けぬ状態では、運を天に任せるより他はない。
本当に何やってんだ、と改めて主へ不満を感じるのみだ。
もっとも教師の方は、そんなこちらの心配とは裏腹に、すぐさま黒板の方へと向き直った。
どうやら距離が遠すぎて、私を発見できなかったらしい。
これぞ九死に一生、無事やり過ごせたようで何より、というところか。
とは言え一方、問題は何ひとつ解決していない。
だって私の体は、未だ床に打ち捨てられたままだから。
要するにこのままだと、主が自由にノートを取れないのである。
可及的速やかに、回収を図るべきなのは明白だろう。
だと言うのに我が主は、こちらには目もくれず、素知らぬ顔で前を向いてしまった。
自分は無関係ですよ、とでも言いたげな表情である。
どうやら私の事を、徹底して無視することに決めたらしい。
まあ確かに、現在私は、主から結構離れてしまっている。
回収を試みるのならば、おそらく席を立たねばならぬだろう。
そんなリスクを犯せるものか、だからこのまま放っておくぞ、というわけだ。
ちょっと薄情な気はするが、それはそれで妥当な判断かもしれない。
しかしそうなると私は、このまま授業が終わるまで、ずっと床に放置……ということなのだろうか。
誰にも見向きされぬ状態で、ひたすら寂しく過ごすことになるのだろうか。
その不憫な予測を肯定するかのように、私の周りでは、他の生徒達がチラチラとこちらを見ている。
顔に底意地の悪い笑みを浮かべ、何事か小さく囁き合いながら。
きっと我が主の失敗を揶揄し、面白がっているに違いない。
しかも当然のように、私を拾い上げようとする者はいない。
まあ彼らには直接関わりの無い話だし、それで普通なのだが。
やはり私が捨て置かれる、というのはすでに決定事項であるらしい。
そうした自身の境遇を、私は再び儚み、冷たい床の上で独り慨嘆した。
ああ先ほどの思索も、全ては無意味だったのか、と。
やはり一介のシャーペン風情が、主を悔い改めさせようなんて、思い上がりも甚だしかったのか、と。
私はそう嘆くあまり、次第に前向きな気力を失っていく。
だがそんな風に、私が諦めに囚われかけた、まさにその瞬間――
(……え?)
突然誰かが、私を床から持ち上げた。
周囲全てに無視され、いないことにされかかった私の体をだ。
その救いの神の正体を確かめようと、必死で視線を巡らす、私の瞳に映ったのは――
(えーと……確か、隣の席の生徒?)
艶やかな長い黒髪と、深い藍色の瞳が印象的な、一人の女子生徒の姿だった。
確か我が主の、隣の席に座るクラスメイトである。
どうやら彼女、手の届く範囲に私が飛んできたので、仕方なく拾ってくれたらしい。
そして彼女は、そのまま私を、主に向け差し出した。
苛立ちは見せることなく、しかしどこかに冷たさを漂わせて。
まあさして親しくもない間柄だし、態度としては普通であろう。
そんな彼女の厚意を、我が主は、ひどく驚いた顔で受け取った。
思いもよらぬ事が起こった、と感じているのがはっきりうかがえる表情である。
ただ彼女の方は、その大げさな反応に関心を示すことなく、即座に自分の席へと戻っていく。
つまらぬ面倒事が片付いて、ようやくすっきりした、という雰囲気だ。
どうやらこの女子生徒、まったくもって奇特なことに、ちゃんと勉強をしたかったらしい。
この暑さの中でも、決して緩むことなしに。
きっと私を拾ってくれたのも、周りのざわつきを静め、集中できる環境を作り出すためだったのだろう。
ぐうたら極まる我が主とは、雲泥の差の勤勉具合である。
真似しろというのは酷だろうが、やはり学生はこうあるべきなのかもしれない……
……なんて風に、私がその女子生徒の振る舞いに感心していると――
(……うわっ!)
そんな彼女に触発されたように、直後に主が、猛然と勉強を開始した。
私を使い、前方の黒板の内容を、必死でノートに書き留め出したのだ。
これまた、ずいぶんと唐突な変化である。
先ほどまでずっと、萎れた草木も同然だったのが、突如見違えるように活き活きとし始めたのだから。
ここに来て、己の怠惰さを恥じ入りでもしたのだろうか。
あるいは、例の女子生徒に見られている事を意識し、軽く格好をつけ始めたのかもしれない。
ちょっと頑張っているところを見せてやろうかな、みたく短絡的に。
……まあ実際のところ、それが揺るぎない事実だろう。
だって他には、主が積極的に勉強へ取り組む理由なんて、何ひとつ存在していないのだから。
その現金さに呆れつつも、しかし仕事ができること自体は良かった、と私は喜んでいたのだが。
そんな私の目に、次いでふと、黒板に書かれた今日の授業のテーマが入ってくる。
それを見て、私は思った。
ああ、昔だけではないのだな、と。
これは今も、何ひとつ変わっていない真理なのだ、と。
そう心底実感できるくらい、今の状況にぴったりの言葉が書かれていたのだ。
そんな風に私が確信を持った瞬間、ちょうど我が主がそのフレーズを見つけ、早速ノートに書き留める。
私はその偉大な言葉を、改めて心の中で読み上げた――
『原始、女性は太陽であった』