悪くない仕事
更新履歴 21/11/28 文章のレイアウト変更・表現の修正
敷かれたレールの上を走る。
私の半生は、そう形容するに相応しいものだった。
なぜなら毎日、上司に言われるがまま、黙々と働いているだけだから。
しかも寸分の狂いもない、全く同じ作業を、一切頭を使うことなくである。
当然そこには、変化も、感動も、発見も、ましてや波乱も無い。
努力の必要さえ、ほとんど存在していなかった。
私が生業としているのは、そういう退屈極まりない仕事なのだ。
そんな日々には、正直言ってかなり嫌気が差している。
もう辞めてしまおう、と思ったことも一度や二度ではない。
実際今だって、すぐにでも仕事を投げ出してしまいたい気分である。
だが結局のところ、私がその衝動に従うことはなかった。
いつだってこんな風に、内心で愚痴を吐くだけに終わり、具体的な行動は起こさぬままなのだ。
それはそもそも、今の仕事以外、満足にできることが存在しないから。
これの他に、自分が進むべき道を見つけられなかったから。
それではいかに飽きが来ていようとも、我慢して耐え抜くしかないだろう。
だから当然、状況は永遠に変わらない。
私はこれからも、自分が存在し続けるために、この退屈な義務を果たし続けるのみなのだ。
誰にも必要とされなくなる、その日までずっと。
その後ろ向きな考えは、自然と私の胸の内を、虚ろな感情で満たしていく。
頭の方でも延々、自身の境遇を嘆く言葉が渦巻いていた。
精神状態は、まったくもって最悪である。
しかし当然、こんな風に悩んでいても、辛い気分が増していくだけだ。
なので私は、その胸に宿った暗澹たる感情を振り払うべく、いったん周りへ意識を向けてみる。
すると視界に、小洒落た映画のワンシーンのような、見映えのする景色が飛び込んできた。
右手には、サファイアのような青を湛えた、見渡す限りの広大な海。
左手には、エメラルドのような葉を茂らせた木々が、豊かに立ち並んだ山々。
そして頭上からは燦々と、ダイヤモンドのような真昼の陽光が降り注いでいる。
素晴らしい、としか言いようのないその眺めに、私はしばし目を奪われた。
おかげで塞いでいた気分は、一気に爽快に晴れ渡っていく。
ちなみにこうして、私が景色に慰められるのは、実のところいつものパターンである。
この素晴らしい眺望は、私の無味乾燥な仕事における、唯一の憩いなのだ。
もしこいつが無かったら、今まで働き続けてはこられなかっただろう。
それはやはり、いくら感謝したところで足りはしない、と本気で思えるほどありがたいものであった。
だがそれら全ては、一瞬で私の横を流れていく。
目にも留まらぬ勢いで、前から後ろへと。
もちろん周りの山や海が、自ら動いているわけではない。
私の方が、かなり高速で移動中だからそうなるのだ。
鋼鉄の車体に包まれた状態で、足元に敷かれた鈍色の線路の上を。
要は電車に乗っている最中、ということである。
そう、ここは潮の香り漂う、のどかな海岸沿いの土地――そこに延びる寂れた地方路線を、私は進んでいた。
車輪が線路の継ぎ目を叩く、無機質で遠慮がちな音を、ぼんやりと聞き流しながら。
その規則的な震動は、今日の爽やかな陽気とも相まって、非常に強く眠気を誘う。
おかげでつい、それに負けて居眠りをしそうになってしまった。
だが私は、そんな己を慌てて叱咤し、きちんと意識をはっきりさせる。
それは今の自分に、眠ることなど許されてはいないからだ。
それはこの仕事を果たす上で、最低限の守るべきルールなのである。
ゆえに『危ないところだった』と安堵しつつ、次いで私は、同行している上司に視線を転じた。
未だに残る眠気を紛らわすべく、ほんの軽い気まぐれで。
彼はその視線の先で、ひどく真剣な顔をして、脇目も振らず正面を見据えている。
私の悩みなどどこ吹く風、といった様子である。
しかし実のところ、それも当然のこと。
彼との付き合いは、あくまでも仕事中だけであり、元々仲良くするような関係性ではないのだ。
いや仲良くどころか、これだけ近くに居るのに、ほとんど会話そのものをしたことが無い。
そんな関係なのだ、きっと本来は、配慮を期待する方が間違っているのだろう。
そうため息交じりに諦めてから、私はまた景色に視線を戻し、必死で眠気をごまかし続けた。
そんな地味すぎる忍耐を、しばらく繰り返していると、ややあって前方に建物が見えてくる。
それは小さく飾り気のない、質素な佇まいの駅舎だ。
いい意味でも悪い意味でも、この場にぴったりな雰囲気である。
まあ身も蓋もない表現をすれば、オンボロということなのだが。
すると私がそう、駅にちょっと失礼な感想を抱いた瞬間、不意に体が少し前のめりになった。
あの駅に停車するため、速度を落とし始めたのだろう。
無論目的は、今までの乗客を降ろし、そこに待つ新たな乗客を迎え入れること。
まあ平日のこの時間帯では、無駄足だと決まっているようなものだが。
しかし私のそんな予想は、次いであっさりと裏切られる。
直後に駅のホームへと到着、ブレーキの音を響かせながら停車した際、そこに小さな人影が見えたからである。
その人影は、大きな排気音と共に扉を開いたこの車両へ、少し怖々という足取りで入ってくる。
小ぶりなリュックサックを背負い、かわいいキャラクターの描かれた靴を踏み鳴らしながら。
そう、そこで車内に足を踏み入れてきたのは、小学校に上がったかどうかくらいという年齢の、ひどく固い顔をした小柄な少女だったのだ。
しかも彼女、同行者を一切連れていなかった。
本来であれば、保護者が付き添っていてしかるべき年頃だと言うのに。
その普段はあまりない事態が珍しくて、私はついついその少女に注目してしまう。
結果として彼女が、目を真っ赤に腫らしているのがわかった。
口も何かを我慢するように、きつく真一文字に結ばれている。
そしてそんな表情のまま、少女は電車のシートに腰かけると、悲しそうにうつむいて動きを止めた。
ずいぶん沈んだ様子だが、誰かと喧嘩でもしたのだろうか。
ただこちらがそう、とりとめの無い考えを巡らしている内にも、事態は進んでいく。
ふと辺りに、乾いた発車ベルの音が響いたのである。
この駅での停車時間は、あっという間に過ぎ去ったらしい。
ちなみに少女は、それに全くと言っていいほど反応を見せない。
そんな幼子らしからぬ振る舞いに、私が不自然なものを感じ始めた、次の瞬間――突然駅のホームへ、別の人影が飛び込んできた。
それはひどく息を切らした、三十前後の化粧っ気が無い女性の姿だ。
しかも足元はサンダル履きで、服装にも部屋着のような雰囲気が漂っている。
一刻を争う事態に直面し、着の身着のまま家を飛び出してきた――そう表現するのがぴったりの装いである。
彼女はそんな状態のまま、焦った様子で辺りを見回すと、すぐ先ほどの少女を見つけて声をかけた。
それを聞いた少女は、即座に声の方へ向き直り、顔いっぱいに驚きの感情を浮かべて叫んだ。
「ママ!」
どうやら二人は、親子であるらしい。
詳しい経緯は不明だが、察するにあの少女、家出か何かを決行したのだろう。
だからこそ母親は、そんな彼女を、こうして必死に追いかけてきたのだ。
幼子のかわいい反抗、というところか。
まあ親の方は心配で、かわいいだなんて言ってられないわけだが。
とは言え見る限り、無事に仲直りできそうな雰囲気が漂っている。
このままでも特別の問題は無さそう、ということである。
実際そんな印象の通り、少女はすぐに電車のシートから立ち上がると、全速力でドアの方へ走っていった。
もちろん母親も、同じくそのドアに向け歩いていく。
両手を大きく広げ、飛び出してくるであろう娘を、優しく抱き締める準備をしながら。
要はこれにて一件落着、二人に幸せな結末が訪れる……
……という私の吞気な予測は、次いで無情にも裏切られた。
なんと両者が触れ合うその直前で、ドアが完全に締め切られたからである。
これ以上ない最悪のタイミングで、発車の瞬間を迎えたわけだ。
当然例の少女は、慌てて立ち止まり、今にも泣き出しそうな表情を浮かべる。
母親の方もドアの外で、打つ手がない様子で立ち尽くしていた。
そんな二人を引き裂くように、車体はゆっくりと動き出す。
母親はそれに、何とか追いすがっているものの、無論いつまでも続くものではない。
一方少女に至っては、声を上げ泣き出す寸前という状態だ。
このまま放置しておけば、間違いなく二人は引き裂かれることだろう。
そこで、私は――
ほんの少しだけ、『足』に力を込めた。
「うわっ!」
その瞬間、上司の慌てたような声が耳に届く。
またそれと同時に、激しい金属音が辺りに轟き、全身を前へ引っ張られるような感覚が襲った。
私はそれに耐えつつ、自分の体のとある一部分から、そっと力を抜く。
すると再び、重く大きな排気音と共に、例の親子を隔てる車体の扉が開かれた。
直後、突然の急ブレーキに体勢を崩していた少女は、すぐに起き上がってそこから外へ出ていく。
そして待ち構える母親と、ぶつかり合うようにして抱き合った。
その名を連呼しつつ、涙で顔中を濡らしながら。
受け止めた母親の方も、心から安堵した様子で、その少女に優しく囁いている。
おそらく無事で良かったとか、あんなに怒ってごめんなさい、とか告げているのだろう。
少女はそれに、幾度もうなずきつつ、何か囁き返していた。
傍目からは、ママごめんなさい、と謝っているように見える。
つまりはこれで、仲直りは無事成功、めでたしめでたしの大団円というわけだ。
その光景は私の心に、大きな達成感をもたらしてくれた。
しかしもちろん、それで全てが解決したわけではない。
特に私の上司にとっては、原因不明の大きなトラブルが発生した、ということになるのだから。
その事実に申し訳なさを覚えつつ、私は再び彼へと意識を戻す。
そこに見えたのは、備え付けのマイクを掴み、一人車内アナウンスを行う我が上司の姿だ。
彼は狭い運転席の中で、おそろしく真剣な表情を浮かべ、必死に言葉を絞り出していた。
ゆえに車内へは彼の、内心の焦りを良く現した声が響いている。
今のトラブルについて、乗客に説明と謝罪をしているのだ。
場合によっては人の命にも関わる問題なので、かなり追い込まれた雰囲気である。
そんな上司の姿を見て、私は心の中で詫びた。
ごめんよ、これはあなたの責任ではないんだ、と。
全て私の勝手な行動が原因なんだ、と。
そう幾度も、謝罪を繰り返したのだ。
彼に通じる言葉を持たぬ自身を、とても歯痒く思いながら。
そのせいかまた、一度は上向いた気分が沈んでいく。
しかしそんな調子でアナウンスを終えた直後、彼はふと何かに気付いた顔になり、次いで小さな呟きを発した。
私が今までに見たことのない、とても穏やかな微笑みを浮かべながら。
「……ずいぶん苦労をかけてきたからな」
そして使い込まれた運転席のレバーを、優しい眼差しで慈しむように撫でる。
まるで長年連れ添った細君を、いたわりねぎらう時のように。
要はトラブルを起こした私に対し、温かい言葉をかけてきたのだ。
正直、驚かずにはいられない事態だった。
彼に話しかけられた事もそうだが、それより何より、その口調に優しさを感じたのが意外だったのである。
そう唖然とする私を尻目に、彼は運転席に腰かけながら、再度こちらへ声をかけてくる。
「お互いもうすぐ定年だ。
もうちょっとだけ頑張ろうじゃないか。
なあ、相棒……」
それは長年に渡る付き合いの中で、初めて彼からもらった励ましの言葉だ。
おかげで心の内に、じんわりと温かいものが広がっていった。
全く予想外のことだったので、何とはなしに面映ゆい気分である。
しかしきっと、彼の気遣いは、いつもこうして私に向けられていたのだろう。
一切無駄口を叩かぬ、勤勉な仕事ぶりの裏側に、それは確かに存在していたのだ。
私の方が、その想いに気づいていなかっただけで。
だってそうでなければ、ああいう優しい言葉が、不意に口をついて出たりはしないはずだから。
彼が私に無関心、なんていう認識は、とんだ思い違いだったわけだ。
私はそんな状態で悩みを深め、たまには自分の事も考えてくれ、なんて不満を抱いていたのである。
本当に恥ずかしい、と自らの振る舞いを反省するしかない。
ただ私がそう落ち込んでいる内に、出発の準備が終わったのか、上司が運転席のレバーを倒す。
いかにも勤勉そうな口調で、もう一度乗客に対し、注意を促すアナウンスをしてから。
であれば無論、こちらも呆けているわけにはいかない。
ゆえに私は、再び気合いを入れ直し、彼の命ずる通りに走り出した。
鋼鉄の肉体を軋ませ、車輪という名の足を回転させながら。
運ぶべき乗客を懐に抱えて、ただひたすらに前へ。
すると視界の端に、先ほどの親子が、しっかり手を繋いで歩む姿がかすめていく。
その幸せそうな様子を見て、私は嘘偽りなく思った。
敷かれたレールの上を走るだけの仕事も、意外に悪くはないんだな、と……