1章 6話 再びの異世界
気がつくと、ベッドで横たわっていた。
立ち上がり、辺りを見渡す。
間違いなく、俺の部屋だ。
現代へ舞い戻ってきたのだ。
胸を撫で下ろし、ベッドに腰掛けた。
時計を見ると、水曜日の朝、八時。
異世界へ行ってから、二日後の朝だった。
つまり、異世界で過ごした時間と、まったく同じ時間が経過しているということだ。
勉強机の上に〈シェヘラザード〉がある。
捨ててしまおうか。
いや、他の誰かが異世界へ飛ばされてしまったら、困るだろう。
とりあえずは、どこかへ隠しておこう。
放置されたスマホを見ると、母さんと翔から着信が一件ずつ、それとライン数件。
母さんに電話する。
「もしもし、俺だけど」
「あら、恋。おはよう」
「電話くれた?」
「担任の先生から、学校休んだけどどうされました、って連絡来たの。具合悪いの?」
「いや、えっと……」
どう説明すれば良いのか分からず、言い淀んでいると、
「サボっていいとは言えないけど、適当な理由でいいから、学校に連絡はしなさいよ」
「あ、うん。ごめん。っていうか、怒らないの?」
「あんたはちょっと冷めてるところがあるけど、高一の男の子だし、それなりに悩みや葛藤を持ってるんじゃないの? だから、自分と向き合う時間が必要でしょうし、そうでなくても、不良ぶりたくなることもあるでしょう。さすがに今日連絡付かなかったら、あんたの部屋に行こうと思ってたけど。場合によっては、警察に捜索願い出さないといけないし」
母さんは俺を責めることなく、
「今日は学校行くんでしょ?」
「うん。ホントごめん」
「お父さんには私から伝えておくわ。恋、自分の力で解決できないことがあったら、言いなさいよ」
そう言って、母さんは電話を切った。
大急ぎで、身支度を整える。
普段は遅刻なんてお構いなしなのだが、今日だけは遅れちゃいけない気がする。
教室に着くと、席に着いている翔がいた。
本物だ。
「翔、おはよう」
「おう、昨日はどうしたんだよ。女と会ってたのか?」
アイサのことが脳裏をよぎり、一瞬言葉に詰まってしまう。
「あれ? 図星だった?」
「違う、違う。ちょっと体調崩してさ」
理緒が前から歩いてきた。
「蓮城くんって、一人暮らしよね? 大丈夫だったの? 体調管理はしっかりね」
「おう、ありがとな」
理緒の頭には、当然ながら猫耳は生えていない。
「頭に何か付いてる?」
「いや、ごめん」
どうしても、ショウとリオを思い出してしまう。
二人とも、マジでそっくりだ。
ふと、愛砂の姿を探すが、まだ来ていないようだ。
翔がめざとく、俺の視線に気づき、
「雨宮、遅刻じゃね?」
「いや、俺は別に雨宮を探してるわけじゃ……」
理緒が眉をひそめた。
「雨宮さんって、成績優秀だけど、たまに遅刻とか早退するよね。保健室に行っちゃたりとかもあるし」
始業のチャイムが鳴ったが、愛砂は教室に現れなかった。
次の休み時間、購買部の端にある自販機に向かった。
久しぶりに急いで登校したせいで、ずっと喉が渇いていたからだ。
校舎の片隅で壁にもたれ、パックのお茶を飲む。
遠くで生徒たちの騒ぐ声が聞こえる。
異世界には、自動販売機も、鉄筋コンクリートの建物も無かった。
どこか頭がぼんやりしている。
異世界へ行っていたのが、嘘のようだ。
長い夢を見たような気分だが、それにしては記憶がリアル過ぎだ。
スマホを出し、ネットで「シェヘラザード」を検索する。
すぐに千夜一夜物語の語り手だと分かる。
千夜一夜物語を簡単に調べる。
妻の不貞を知った王が、処女と結婚しては翌朝に処刑するという行為を繰り返す。
被害女性が数千人に達したとき、大臣の娘が王との結婚を志願する。
その娘こそがシェヘラザードで、毎晩王に不思議な物語を聞かせては、王の興味を惹き、自分を殺させなかった。
千夜に渡って物語を聞かせ続け、王との間に子をもうけた。
王は子供ができたことを喜び、シェヘラザードを正妻に迎える。
彼女は、教訓が含まれた数多の物語によって、王を改心させることに成功した。
「なるほど」
よく出来た物語だが、それにしてもむちゃくちゃな王様だな。
「やあ、蓮城くん」
振り向くと、同じクラスの未古神 美蘭がいた。
背が高く、モデルのようなすらっとした体型。
大人びた外見で、どこか超然とした雰囲気がある。
腰まで伸びる長い髪が、流麗に波打った。
「おはよう、未古神」
「昨日はどうしたんだい?」
「ちょっと熱が出たんだよ」
「そうか。しかし、登校してきているということは、もう調子は戻ったのだね。良かったね。あまり学校を休むと、授業の進行について行けなくなるからね」
「お前が授業の進行を気にしていたとは知らなかったぜ」
未古神は基本的に、教室にいない。
たまに授業をサボる、というやつはいるが、未古神はたまに授業に出るのだ。
その変わり者が、なぜか俺のような平凡な男に、やたらと絡んでくるのかは謎だ。
「ふふっ。辛辣だね。君との会話は、こういう刺激があるから楽しいよ」
俺の嫌味を笑い飛ばす未古神。
美少女と言って差し支えない。
ハイスペック故のとっつきにくさがなく、こいつは誰とでも仲良くできる。
理緒のようにわざわざ交友の輪を広げようとはしないが、来るもの拒まず、という態度で一貫している。
協調性があるというよりは、自分のペースに相手を引き込むと言うのが正しい。
一度でいいから、こいつのペースを乱したいのだが、俺には一生無理かも知れない。
未古神は缶の抹茶サイダーを買った。
ロックな野郎だ、意表を突きやがるぜ。
未古神がプルタブを開けながら、
「君は、この世界とは別の世界に生まれていたら、どうなっていたと思うかね?」
俺は口の中のお茶を吹き出した。
「どうしたんだい?」
そんなピンポイントな質問されたら、誰だってびっくりするわ。
「未古神が突拍子もないこと聞くからだろ。そんなこと考えたこともねぇよ」
「この世界を愛しているのだね」
俺は首を傾げる。
「なんでそうなるんだ?」
「この世界が好きだから、別の世界へ行く必要がないということだろう?」
「……別に好きじゃないよ」
「不思議な話だね。好きじゃないのに、どこにも行こうと思わないのかい?」
俺が現代へ戻ってきたのは、俺がこの世界の人間で、俺が帰らないと心配する人たちがいるからだ。
だけど、この世界が好きというわけじゃない。
いや、厳密には、満足していないんだ。
「では、もし別の世界に行けるとしたら、どうする?」
未古神の涼しげな瞳が、俺を見つめる。
「さぁな。どうせそんなことできないんだから、考えても仕方ないだろ」
教室に戻る途中、廊下の曲がり角で人にぶつかった。
謝り、相手を見ると愛砂だった。
驚いた顔をしたが、すぐに無表情になった。
今、登校してきたのか? と聞こうとして、口を閉じた。
異世界でアイサと普通に会話していたから、こっちの愛砂とも喋れるような錯覚に陥ってしまう。
愛砂の桜の花びらのような唇が動いた。
「なに?」
訝しげに俺を睨んだ。
「いや、なんでもない」
「そう」
愛砂は短く言い、教室へ向かっていった。
愛砂と話すのは、いつぶりだろう。
愛砂の後ろ姿を見ながら、確かな高揚と、一抹の寂しさを感じた。
チャイムが鳴り、俺は慌てて教室へ走った。
その後、淡々と時間が流れ、自宅に帰った俺は、ベッドに横たわる。
元の世界に、日常に帰ってきた。
学校へ行き、授業を受けたり、翔や理緒と駄弁ったりする。
愛砂は頬杖をつき、窓の外を眺めている。
そして、そこにはもう、昔の愛砂はいない。
ふと、未古神の声が再生される。
別の世界に生まれていたらどうなっていたと思うかね?
今までそんなことを考えたことがなかったのは、本当だ。
だけど、それはこの世界で生きるしかなかったからだ。
もし、選択肢を持ってしまったとしたら?
机の引き出しに隠していた〈シェヘラザード〉を取り出した。
漆黒の装丁が、鈍く輝く。
俺は何を考えている?
再びベッドに寝転ぶと、制服の上着のポケットから、くしゃっという音がした。
引っ張り出すと、折り畳まれた一枚の羊皮紙だった。
そこには、こう書かれていた。
「楽しかったよ。もっと仲良くなりたかったな。アイサ」
机に向かい、〈シェヘラザード〉を開いた。
これがアイサの本心なのだろう。
そうだとしたら、やっぱり一人暮らしをすること、そして一人で店を守ることに不安を感じているんだ。
「レンを待ってる人たちがいるでしょ。その人たちはレンがいなくなって、すごく心配してると思うよ」
快く送り出してくれたのは、俺が罪悪感に苛まれないようにするためだ。
異世界から現代へ帰ってくるために執筆を始めたところから、ベッドで羊皮紙を見つけたところまで書ききった。
上手くいかないかも知れないが、試さずにはいられない。
〈シェヘラザード〉を閉じる。
すると、三度神秘的な光に包まれた。
視界が白く染まり、次の瞬間には別の場所にいた。
木と石と煉瓦でできた家。
向かい合わせのソファと事務机。
そして、雨宮 愛砂と同じ外見を持つ少女。
――アイサが大きな瞳を見開いて、俺を見つめている。
「レン? どうして?」
自分でも、何故再び異世界へ来たのか、はっきりとは分からない。
アイサのことが心配で、気がかかりだからだと思うが、それだけじゃない気がする。
俺は言い訳するように、
「えっと、アイサの店の手伝いするって約束したから」
「えへへ、ありがとう」
永遠に失われたかと思われた、俺が死ぬほど見たい笑顔がそこにあった。
何かのご縁で、この小説を読んでくださったあなた、ありがとうございます。
また、お会いできることを祈っています。