1章 5話 <シェヘラザード>
何だか疲れてしまった。
倦怠感に身を任せ、事務所のソファに深く体を預ける。
今日は本当にいろいろなことがあったし、仕方ないだろう。
何と言っても、突然異世界に飛ばされてしまったのだから。
うとうとしていると、視界の端に何かが映った。
くすんだ灰色の小さな体で、耳のような羽毛が突き出ている。
ミミズクか。
「アイサ様、ご無沙汰しております」
低くて、渋い声がした。
向かいのソファでくつろいでいたアイサが嬉しそうに、
「アダム! 久しぶりだね」
「……今のって、アイサが一人芝居した?」
一気に目が覚めた。
「ううん。アダムが喋ったんだよ」
「アダムって、このミミズクのことか?」
「アダムはお母さんの使い魔なんだよ。使い魔は魔術師の家族みたいなもので、人間の言語を扱えるんだよ」
アイサはアダムを抱きしめた。
「アイサ様、恥ずかしいのでやめていただけませんか? それと使い魔は、マスターに使役される魔物のことで、」
「えー、家族でしょ。モフモフ、久しぶりだよ~」
頬ずりされるアダムは、困っている様子だが、決して嫌がっている風ではない。
「仲良いんだな」
「アダムとは私が小さい頃から一緒だったの。お話ししたり、遊んだり。それにアダムはすごく賢くて、いろんなことを知ってるんだよ」
「アダムはアイサに会いに帰ってきたのか?」
「いえ、もちろんマスターからの命で参りました」
「お母さんが? どんな要件?」
「レン様の件です。アイサ様が送られた手紙について、旦那様からお話があります」
「もう分かったの?」
「えぇ、そのようですよ」
親父さんからの返事が、もう来たようだ。
「俺は嬉しいんだけど、もう少し時間がかかるって話だったよな。何でこんなに早く」
「そうだよ。そんな簡単に、お城から使い魔を出せないはずだけど。よく許可が出たね」
「出ていませんよ。審査官や門番の方には内緒で参りました」
アイサが眉をひそめた。
「どういうこと? それって、大丈夫なの?」
「その辺りのことはマスターたちにお聞きください。鏡を用意していただけますか?」
言われた通り、アイサは三十センチくらいの鏡を持ってきた。
「どこかに立てかけてください」
アイサは、ソファに立てかけた。
アダムのガラスのような真ん丸の目から、光が放たれた。
その光は鏡に反射することなく、表面で広がった。
鏡に眼鏡をかけた、痩身の優しそうな男が映し出された。
何かの魔術のようだ。
アイサが叫んだ。
「お父さん!」
「この人、アイサの親父さんか」
「アイサ元気にしてるかい? はじめまして、レンくん。アイサの父のレイジです」
「はじめまして。居候させてもらっています、蓮城です」
「アイサ、ちょっと待ってて。アンズさんを呼んでくるから」
アンズ……いや、まさか。
間もなく、一人の女性が映った。
「アイサ、久しぶりね。元気でやってる? 困ってることない?」
「大丈夫だよ。一人でも何とかやってるから。まったく、お母さんは心配性だな~」
アイサがお母さんと呼ぶ、アンズという名のその女性は、愛砂の亡くなったお母さんである、杏さんとそっくりだった。
俺が何か悪いことをしたら、自分の子供のように叱ってくれた杏さん。
俺の知っている杏さんとは別人だと分かっていても、動揺してしまう。
レイジさんが話し出す。
「レンくんは異世界から、君からすればこちらの世界が異世界になるが、ともかくこことは別の世界からやって来たということらしいね。アイサの考えの通り、魔術が関わっているね。いや、とても驚いたよ。君のような例は、文献でしか読んだことがないよ」
「文献に載ってるんですか。じゃあ、帰る方法があるってことですか?」
「あぁ、あるよ。レンくんは、元いた世界へ帰れる」
俺は心の底から、安堵のため息を吐いた。
これで現代へ帰れる。
「こういうケースには、転移と転生があるそうなんだけど、レンくんの場合は前者だ」
「どう違うんですか?」
「転移というのは、君自身のまま異世界へ移動することで、転生というのは、こちら異世界で生まれ変わることだよ。そして、君を異世界へ転移させたのは、これだよ」
レイジさんは、送ったあの魔導書を見せた。
「その魔導書を解読したってことですか」
「これは魔導書じゃないよ。魔導具だ。魔導具は特定の魔術を使用するのに、必要な道具のことだよ。どうやらこれは〈シェヘラザード〉というらしい。過去にこの〈シェヘラザード〉と一緒にこの世界へやって来て、元の世界へ帰っていったという事例があると、古い文献に載っていたんだ。君がこれを開いたとき、魔術的に繋がったようだよ」
レイジさんの唇が滑らかに動き続ける。
「これにはもう一つ、素晴らしい機能が備わっているようなんだ。それが〈順応〉だよ。例えば、こちらの世界へ来て、普通に言葉が通じることを不思議に思わなかったかい? あるいは、こちらの食べ物の味はどうだったかな?」
言われてみれば、確かにそうだ。
アイサたちと普通に喋れているし、料理だっておいしかった。
「それは〈順応〉によって、調整されているからなんだよ」
実感はなかったが、それなら、異世界で普通に生活できているのも合点がいく。
「それで具体的には、どうすれば元の世界へ帰れるんですか?」
「とても簡単だよ。〈シェヘラザード〉に、君の言動を記すだけだよ。物語のようにね」
「物語、ですか?」
「そう。それを〈シェヘラザード〉が求めているから。〈シェへレザード〉は魔術的に繋がった者の物語を欲し続ける。君だけじゃなく、出会った者全ての物語を。今回は君だったということだね。具体的には、こんなことがあった、こんなことをした、そしてそのときどう感じて、どう思い、どう行動したか。そういうのを書き記していくんだ。書き終わって本を閉じたとき、元の世界へ戻る、帰還の魔術が発動するだろう」
多少拍子抜けしたが、これは何とかなりそうだ。
「分かりました。じゃあ、〈シェへラザード〉を送り返してもらうのを待ちます」
「その必要はないわよ」
アンズさんが、〈シェヘラザード〉をこちらに向かって差し出した。
すると、鏡からアンズさんが持っていたはずの〈シェヘラザード〉が出てきた。
魔術を使うと、こんなこともできるのか。
「早速試してみます。でも、まさかこんなに早く連絡をもらえるなんて思ってませんでした。アイサの話だと、最低でも一週間弱かかると聞いていたので。さっきアイサが、使い魔を許可なく城の外へ出したことを心配していたんですけど、大丈夫なんですか?」
アンズさんは肩を竦め、
「本来は望ましくないんだけど、レンくんは一刻も早く元の世界へ帰りたいでしょ。アイサの手紙に、同い年くらいの男の子と書いてたから、娘と同年代の少年が一人で異世界へ飛ばされたら、さぞ心細いだろうなと思って。旦那と相談してこういう手段を取ったの。旦那は研究者として〈シェヘラザード〉にすごく興味があるようだけど、それはこっちの都合。君には関係ないからね」
「ありがとうございます」
俺は深々と頭を下げた。
「さて、そろそろ終わりにしましょうか。お城の人に気づかれるのはまずいからね。アイサ、何かあったら連絡するのよ。それと今夜はアダムを泊めてあげてね。この通信魔術で、アダムの魔力も相当消費しているから」
「うん。お父さんもお母さんも、体に気をつけてね」
そうして、アダムの目から放たれていた光が消えた。
鏡にはレイジさんとアンズさんではなく、俺とアイサが映っている。
「アイサ、ありがとう。これで何とかなりそうだよ」
「いえいえ、どういたしまして。私は何にもしてないけどね」
「アイサの言った通り、親父さんもアンズさんも、凄い人みたいだな」
「えへへ。そうなんだよね~」
アイサは嬉しそうに微笑んだ。
〈シェヘラザード〉をテーブルに置き、最初のページを開いた。
アイサが羽根ペンとインクを用意してくれる。
物語といっても、どう書けばいいのだろう。
いざ取り組む段になると、何から書くべきか、難しいものだ。
レイジさんはなんて言ってたっけ。
こんなことがあった、あるいはこんなことをした、そしてそのときどう感じて、どう思い、どう行動したか。
ペンを握り、異世界に来た最初の記憶から書き起こしていく。
アイサの裸の描写をするのは気が引けるが、現代へ帰れるかどうかがかかっている。
アイサが悲鳴を上げたところまで書いて、ペンを止める。
〈シェヘラザード〉を見つけた日の、朝から始めた方がいいのか?
明確なルールが分からないし、手を抜いて、帰還の魔術が発動しませんでした、じゃあどうしようもない。
答えの出ない不安を抱えるくらいなら、多少手間でも万全を期そう。
俺は必死に記憶を手繰り寄せる。
全てのことを思い出すのは不可能なので、印象に残っていることを書いていく。
書き始めてすぐ、アイサが紅茶を淹れてくれた。
時間はどんどん過ぎていく。
執筆がこれほど時間を要し、そして、疲労することだとは思わなかった。
文才なんて無いし、長い文章を書くのは、夏休みの宿題の読書感想文くらいだ。
それでも、これを書き上げないと現代へは帰れない。
筆が止まると、呻き声を上げながら、ときに頭を抱え、ときにページを睨みつけ、少しずつ進めていった。
ふとアイサを見ると、アダムを抱き締めて、ソファで眠っていた。
もう夜も遅いし、部屋で寝た方がいいと思うが、アイサもアダムも気持ちよさそうに眠っているので、そのままにしておく。
ペンを置き、部屋からブランケットを取ってきて、アイサたちにそっと掛けた。
〈シェヘラザード〉を書き終われば、この世界を去ることになる。
アイサたちともお別れだ。
でも、それは仕方のないことだ。
それから、夜が更けても、俺はペンを握り続けた。
――目を覚ますと、俺はテーブルに突っ伏していた。
窓から朝陽が差し込んでいる。
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
対面のソファで横になっていたアイサたちの姿がない。
背中にブランケットが掛けてある。
そうだ、〈シェヘラザード〉は――。
開かれたままのページに視線を落とすと、レイジさんから現代へ帰る方法を教えてもらい、通信を切ったところまで書かれていた。
どうやら、俺は最後まで書き切って、眠りに落ちたようだ。
「おはよう。書き終わった?」
アイサが事務所に入ってきた。
「あぁ、何とかな」
「じゃあ、もう帰るんだね」
思い上がりでなければ、寂しさが滲んでいる気がする。
悲しい別れになるのが嫌で、俺はわざと明るく言う。
「もうちょっとこっちの世界にいようかな。アイサの紅茶はおいしいし、リオの家の料理食べてないしな」
アイサは可笑しそうに微笑んでくれた後、静かな口調で、
「レンを待ってる人たちがいるでしょ。その人たちは、すごく心配してると思うよ」
「そうだな。長居すると、アイサにも迷惑かけるしな」
「迷惑なんかじゃないよ。短い間だったけど、楽しかった。おうちに誰かいるって、やっぱり安心するね。それと、便利屋を手伝うって言ってくれたの、すごく嬉しかったよ」
両親の前では気丈に振る舞ってたけど、アイサはやっぱり一人暮らしが心細いのだ。
そして、便利屋を続けていくことに、不安を感じているのではないだろうか。
「レンの服、持ってくるね。洗濯しておいたの」
それから俺は、アイサから高校の制服を受け取り、着替えを済ませた。
「アイサ、ありがとう。頑張れよ。応援してるからな」
「ありがとう。お父さんとお母さん、リオたちには、私からよろしく言っとくから」
そして、いよいよ俺は〈シェヘラザード〉を閉じた。
〈シェヘラザード〉に神秘的な光が宿り始める。
あのときと一緒だ。
これを俺の部屋で、開いたときと同じ現象が発生している。
強い光に包まれ、次第に景色が白く染まる。
アイサを見ると、俺に向かって微笑みかけている。
アイサの輪郭が、消えていく。
唇が、わずかに動いたが、声は聞こえない。
「アイサ、今なんて――」
俺の声が届く前に、視界が光で満たされ、まもなく意識が暗転した。
何かのご縁で、この小説を読んでくださったあなた、ありがとうございます。
また、お会いできることを祈っています。