最終章 8話 勝負の行方
エルフの居住区を抜ける直前、強い目眩に襲われた。
倒れ込むように、木立の一本に寄りかかる。
「レン……?」
アイサが振り返った。
これまでとは違った疲労が、押し寄せる。
直感的な、死の予兆。
まさに虫の息で、呼吸するのがやっとだ。
視界に入る全てのものが輪郭を失い、景色が歪む。
自然と目蓋が落ちる。
死神がやって来て、俺を深淵の眠りに誘う。
その甘い誘惑に、身を委ねてしまいそうになる。
〈シェヘラザード〉に続きを書きたいが、指一本も動かせる気がしない。
記憶が混濁し、頭の中が雑然とする。
現代で起きたことと、この世界で起きたこと。
現代で会った人たちと、この世界で出会った人たち。
それら全ての記憶が、まるでテレビをザッピングするように、次々に去来する。
意識が、朦朧とする。
……ここはどこだっけ?
異世界だ。エルフの里。
どうしてここに?
〈シェヘラザード〉と異世界人である俺が、〈ケイオス〉っていう魔術結社に狙われて、逃げてきたからだ。
何で逃げてる?
捕まったら、元の世界に帰れなくなるだろ。
何故、元の世界に帰りたい?
「レン!」
アイサが切実な表情で、俺の肩を揺すっている。
そうだ。俺が何故、元の世界へ帰りたいのか。
そんなの決まってる。
愛砂にもう一度会いたいからだ。
話したいことが、たくさんあるんだ。
まだ、伝えてないことがあるんだよ。
こんな状況になるまで、たった一言が言えなかった。
愛砂は俺のことなんて、待ってないかも知れない。
必要じゃないかも知れない。
初めて異世界へ来たとき、現代へ帰ろうとしたのは、俺が現代の人間で、俺が帰らないと心配する人たちがいるからだ。
もちろん、それもあった。だけど、一番は愛砂がいるからだ。
疎遠だとしても、愛砂がいるから、俺は現代を選んだ。
愛砂がいない世界で生きるのは、考えられない。
ウィルの声がした。
「思いの外、手こずりました」
俺はウィルを睨み付け、
「未古神たちをどうした」
「そんな怖い顔しないでください。別に殺したりしていません。嗜虐趣味はありませんし、無駄な殺しをすれば、帝国軍がさらにうるさくなりますからね」
淡々と言うウィルの前に、アイサが立ちはだかった。
「〈シェヘラザード〉もレンも、渡さない。――フレイム・バスター」
炎球を撃つが、
「シャドー・ハンズ」
ウィルの魔術によって、いとも簡単にかき消された。
アイサは何度も撃つが、ウィルに届く前に、漆黒の手に弾かれてしまう。
ウィルは余裕の表情をまったく崩さず、
「あなたでは無理ですよ。時間の無駄です」
ウィルが近寄ってくる。
アイサ、もういい。そう叫ぼうとしたとき、
「アイサ! これを!」
声のした方に顔を向けると、レイジさんがいた。
そして、アイサに細長い棒のようなものを放り投げた。
長さは一メートルほどで、全体が黒く、先端に小さな真紅の水晶が付いている。
「これは?」
「魔装杖だ。使用者の潜在能力を引き出せる。本当は一緒に戦えたらいいんだけど、僕には何もできないから。僕が作ったそれを使って、大事な人を守るんだ。大丈夫、アイサならできる。何と言ったって、あのアンズさんの娘だからね」
アイサは大きく頷き、魔装杖を振りかぶった。
「――フレイム・バスター!」
先端から、炎球を放たれる。
速度も威力も、格段に増している。
ウィルが爆炎に飲み込まれる。
「やった」
俺は思わず声を漏らしたが、爆煙が雲散霧消すると、酷薄な笑みが見えた。
「痛いじゃないですか」
化物だ。
俺の中に、はっきりとした諦観が広がる。
ウィルがアイサに向かって、手をかざした。
「我々は〈シェヘラザード〉とレン・レンジョウに用があるのです。別にあなたは必要ないのですよ。僕には、あなたを殺す理由もありませんが、生かさなければならない理由もありません。我々の不利益になるのなら――」
言い終わる前に、レイジさんが掴みかかろうとするが、
「邪魔をしないでいただけますか」
一蹴され、地面を転がっていく。
「お父さん!」
アイサが叫んだ。
くそっ!
アイサにだけ戦わせて、俺は何もできない足手まといだ。
それを分かっていて、俺はエゴを通していいのだろうか。
俺はゆっくりと立ち上がった。
「アイサ、もういいよ。これ以上俺のために、皆を巻き込むのは耐えられない」
「そんな……」
アイサと目が合う。
ふらふらの足取りで、ウィルの方へ歩を進める。
ウィルは満足そうに笑った。
「懸命な判断です」
一歩ずつ、近づいていく。
歩くたびに、体が左右に振れる。
ウィルの目前で、〈シェヘラザード〉を落としてしまった。
ウィルの視線が、〈シェヘラザード〉に向けられる。
ほんの一瞬の間隙。
俺は最後の力を振り絞って、ウィルに飛びかかった。
「アイサ!」
アイサが魔術杖を高くかざした。
凄まじい魔力が、その先端に収束していく。
仮に俺だけ助かっても、その後アイサたちはどうなる。
〈ケイオス〉がおとなしく撤退するとは思えない。
つまり、ウィルを倒さないといけない。
こいつの狙いは、俺と〈シェヘラザード〉だ。
だから、俺が囮になるのが、最も効果的なのだ。
そして、これが唯一、現代へ帰れる方法だ。
ウィルは俺を振り払い、
「姑息な真似を。鬱陶しいですね」
ウィルの表情に、怒気が垣間見える。
「これで終わりです」
ウィルの足元に、影の円ができる。
オーレリアとクロワールを退けた、あの魔術だ。
ウィルが叫んだ。
「――ダークネス・フィールド!」
影が世界を侵食していく。
アイサが魔術杖を向けた。真紅の宝石が煌々と輝き、
「――インフェルノ・ショット!」
紅蓮の業火が、一直線に進撃する。
アイサの炎は、ウィルの影に飲み込まれたかに見えたが――。
ウィルが驚愕の表情を浮かべる。
「まさか、相打ちになるとは」
二つの魔術は綺麗に相殺されたのだ。
アイサは力を使い果たしたのか、地面に膝をついた。
ウィルは相打ちと言ったが、俺にはそうは見えない。
ウィルが近づいて来ようとすると、
「アイサ、よく耐えたわね」
アンズさんだ。アイサの傍に、アンズさんが立っている。
ウィルが眉宇に焦燥を漂わせた。
「これは参りましたね」
化物に思われたウィルも、魔力には限りがあるようだ。
劣勢を悟り、
「今回はあなたたちの勝ちです」
音もなく姿を消した。
「レン! レン!」
アイサが、何度も俺の名前を呼び続ける。
情けないことに、俺は地面に転がっていた。
「さっきの、諦めた三文芝居だって、よく分かったな」
俺が囮になったとき、アイサはほとんど逡巡せず、魔術を発動した。
「目が合ったでしょ? レンが全然諦めるって目をしてなかったからだよ」
「そうか」
アイサはちゃんと、俺の心を見透かしてくれた。
ずっと一緒にいれば、当然か。
いつでも傍にいてくれた。
こんな俺のことを好きかも知れないと、言ってくれた。
俺の考えを尊重して、今もこうして戦ってくれた。
これだけ多くの人たちが、俺のために駆けつけてくれたのは、便利屋があったからだ。
アイサは、俺を安心させようとして、「一人でも大丈夫」と言った。
それはもう、単なる事実だ。
――まったく力の入らない手で、〈シェヘラザード〉に最後の一文を綴る。
〈シェヘラザード〉が、神秘的な光を放つ。
どうやら、無事発動したようだ。
〈シェヘラザード〉は、俺の選択を認め、俺の物語を楽しんでくれたようだ。
体が楽になっていくのを感じる。
アイサの前に立つ。
「皆に、よろしく言っといてくれないか」
「分かったよ」
口を閉ざしてしまうアイサ。
これで最後だと思うと、何を言えばいいか、何をいうべきか分からなくなる。
それは、アイサも同じなのだろう。
〈シェヘラザード〉が一際強い光を放つ。
時間だ。
俺はアイサを見据えた。
気の利いたことが、思いつかない。
だから、素直な気持ちを言うことにした。
「ありがとう。アイサに会えて良かった」
眩い光に包まれ、景色が溶けていく。
アイサの口唇が、言葉を紡いだ。
「レン。大好きだったよ」
最後に見えたのは、アイサの泣きそうな笑顔だった。