1章 3話 便利屋
もうかれこれ三十分くらい、椅子の背に体を預けている。
どうやら俺は、異世界へ飛ばされてしまったらしい。
重大な問題が横たわっている。
どうやって、元の世界へ帰るのかということだ。
空になったティーカップを見下ろす。
淹れ直された紅茶は、ちゃんと温かかった。
魔術によって着火した薪で、沸かされたのだ。
目の前には、俺の幼馴染である雨宮 愛砂と同じ外見と名前を持つ少女が座っている。
年齢を聞くと、俺と同い年で、つまりそこまで愛砂と一緒だということになる。
アイサは柔和な声音で、
「お口に合った?」
「すごくおいしかったよ」
「そう。良かった」
アイサは顔を綻ばせた。
その表情を見て、変な話だが、俺は少し感動してしまった。
愛砂の笑顔を見たのは何年ぶりだろう。
もちろん、この世界のアイサと、俺のいた世界の愛砂は別人なのだが、容姿が瓜二つだから、どうしても二人を重ねてしまう。
アイサは紅茶を一口すすってから、
「レンは魔術のことを知らなかったり、反対に私が知らないものを知っていたりするよね。今までどこに住んでいたの?」
「信じてもらえないと思うけど、俺はこの世界とは違う世界の人間なんだ」
小首を傾げるアイサ。
「違う世界っていうのは、辺境の地、みたいなところ?」
「いや、そういう比喩じゃなくて。本当にまったく別の世界って意味だ」
アイサはしばらく思案顔をしていたが、
「レンの言ってること、信じるよ」
「なんでだ? どうして今日会ったばかりの、どこの馬の骨かも分からない俺の言うことを信じてくれるんだ?」
目を瞑り、沈思した後、
「なんでだろうね? 私も分からない。だけど、私にはレンが嘘を言っているようには思えないんだよね」
アイサが紅茶のカップを見つめ、
「紅茶は他所の国では高級品なんだけど、この国は茶の葉の栽培が盛んで、手軽に手に入るんだよ。レンの世界にも、紅茶はあった?」
「あったよ。アイサが淹れてくれた紅茶ほど、おいしくはなかったけどな」
そう答えると、アイサは小さく微笑んでから、
「レンは、元いた世界へ帰りたいんだよね?」
「もちろん、そうだ」
俺は現代へ帰りたい。
俺が生まれて、育った場所へ戻りたい。
帰巣本能とでも言うべきだろうか。
両親だって心配するだろうし、学校にも行かなきゃいけないし。
誰だって、そう思うものだろう?
アイサが真面目な顔になり、
「今回のことは、何らかの魔術が発動したから、起こったんじゃないかな」
「待ってくれ。俺がいた世界には魔術なんてものはなかったぞ。俺の世界では魔術っていうのは、ファンタジーの中のものだ。現実には存在しない」
「こっちの世界に来たときのこと、詳しく教えてくれない?」
俺は首肯し、
「学校が終わって――学校はこっちの世界にもあるよな? その帰りに友達と適当に遊んで、家に帰った。そしたら、鞄の中に見覚えのない、この日記が入ってたんだ」
バイブルのことは伏せて、テーブルの上の日記に視線を向け、
「これを何気なく開いたら、いきなり光りを放ち始めたんだ。びっくりしてすぐ手を放したんだけど、その光はどんどん強くなって、一瞬で飲み込まれた。それで気付いたら、」
その先を言うのは、憚られた。
アイサにとっては、触れてほしくない記憶だろう。
それまで神妙に耳を傾けていたアイサの頬が、みるみる上気した。
「ねぇ、レン。それ日記みたいに見えるけど、魔導書じゃないかな」
「魔導書?」
俺は間抜け面で、おうむ返しした。
「レンの世界には魔導書なんてないか。魔導書は、魔術にまつわることが記述されている書物のことだよ」
「でも、これには何も書かれてないぞ。白紙の魔導書なんてあるのか?」
「魔導書の中には、魔術的な錠が施されているものもあるの。例えば、上位の魔術師や仲間だけ、みたいに特定の人しか読めないようにするためにしてるんだよ」
「アイサは、この魔導書の錠を外せるのか?」
「ごめん。私は、魔術師としての力は低いから」
「そうか……」
「でも、大丈夫。お父さんに聞いてみるから」
「アイサの親父さんって、凄い魔術師なのか?」
「ううん。お父さんは魔術が使えないよ。でも、大陸でも屈指の魔術の研究者なの」
「そうなのか。それなら現代への帰り方も分かるかも知れない。今から魔導書を見てもらえるか?」
アイサは言いづらそうに、
「えっと、お父さんは今、王城にいるの」
「王城って、すぐに会いに行けるのか?」
「今すぐに会うのは難しいかな。お城に入るのも出るのも、厳重な審査があるの。今回の場合は、手紙と一緒にその魔導書を送るのがいいと思う。直接面会するより、審査も厳しくないし、早いから」
王様がいる場所だし、セキュリティが厳重なのは当然か。
「こっちの世界に、電話ってあるか?」
「デンワ? どういうものかな?」
やっぱり無いか。
「親父さんから手紙の返事が来るのは、どれくらいかかるんだろう」
「お父さんに手紙と魔導書が届いて、それを送り返すだけなら三、四日だと思うけど、お父さんが調べる時間は、どれくらいかかるかは分からないな」
あからさまに肩を落とす俺を元気付けようと、アイサが付け加える。
「でも、お父さんならきっとすぐだよ! 返事が帰ってくるまで、うちに居ていいし」
「いいのか?」
「良いに決まってるよ」
どうして俺の幼馴染と姿と名前が同じ少女は、俺にここまでしてくれるのだろう?
「ありがとう」
俺はそれだけ言った。
アイサは早速、配送の手配をしてくれた。
こっちの世界にも郵便事業はあるようで、魔導書を梱包した小包に手紙を添えて、現代でいう郵便局のような施設に持っていってくれた。
帰ってくると、アイサは夕食を作り始めた。
人参とキャベツ、たまねぎを洋包丁で切っているアイサに話しかける。
「何か手伝おうか?」
「いいよ。レンはお客さんなんだから、座って待ってて」
「いや、さすがに居候させてもらって、何もしないのは」
「じゃあ、きのこを洗ってもらえる? そっちに水瓶があるから」
支持された通り、水瓶から水を使い、傘の小さなきのこを洗う。
水道はないらしく、他にも現代では当たり前になっているインフラは、整備されていないと思われる。
アイサは手際良く、調理を進めていく。
俺がもたもたしているあいだに、料理はほとんど完成していった。
陶器の食器に、出来上がったパスタとスープを盛り付け、ダイニングに持っていく。
アイサが手を合わせ、笑顔で言う。
「さぁ、食べよう」
スープはコンソメっぽい見た目だ。
スプーンで掬うと、野菜ときのこの他に、ヒヨコマメが入っている。
口に運ぶと、具材から染み出した味と、ブイヨン、そして塩味がする。
キッチンには、香辛料は少なかったが、最低限の調味料はあった。
パスタはペペロンチーノに似ている。
黙々と食べる俺に、アイサがおずおずと、
「どうかな?」
「おいしいよ」
「良かった」
「料理上手なんだな」
「お母さんから教えてもらったんだよ」
お母さん……、どうしても気になってしまい、アイサに尋ねる。
「お母さん、生きてるのか?」
「え? うん。普通に生きてるけど。なんで?」
「いや、なんでもない」
アイサは、愛砂とは別人だし、家族構成が違っていて当たり前だ。
俺が二人を勝手に同一視しているだけなんだ。
「実は、お母さんも王城にいるの」
「お母さんも研究者なのか?」
「ううん。お父さんは魔術の研究の成果が認められて、お城から声がかかったんだけど、お母さんは優秀な魔術師として呼ばれたんだよ。二人はお城の居住区で暮らしながら、帝国のために働いてるの」
魔術は先天的な素質だと言ってたから、アイサは母親の力を継承したのだろう。
「じゃあアイサは今、一人で暮らしてるのか?」
「うん、そうだよ。私もついていくよう言われたんだけど、ここに残ったの」
「聞きづらいんだけど、両親とうまくいってないとか?」
俺が控えめに聞くと、アイサは首を横に振った。
「そうじゃないよ。うちは家族仲良しだよ。お父さんとお母さんはお城に行く前、便利屋をやってたんだけど、私はそれを継ぐために、ここに残ることにしたんだ」
「便利屋って、なんでも屋みたいなものか?」
「そう。ご依頼主のお望みをなんでも叶える、っていうサービスを提供するんだよ。お父さんの知識と、お母さんの魔術で、二人はどんな依頼でも成功させた。そして、お客さんは笑顔になって帰っていく。私はそんな便利屋が大好きだった。だから、便利屋を継ぐことにしたの。お父さんたちについていったら、便利屋は事実上の廃業になったから」
急にアイサの表情が曇る。
「そう思って、一人でお店を続けたのはいいんだけど、やっぱりお父さんたちみたいにはいかないんだよね。どんどんお客さんは減っていって、今はお使いとか家事代行とか、そういう簡単なことがメインなの。もちろんそれでもやりがいはあるんだけど、もっと大きな仕事を受けてみたいっていうのも本音なの」
「大変そうだな。全部一人でやってるんだろ。両親のところへ行こうとは思わないのか?」
「それはないかな。確かに大変だけど、自分で決めたことだし。それにここには友達もいるし、一人ってわけじゃないよ」
俺と同い年の子が、ここまで強い意志を持って、頑張っているのか。
「親父さんから返事が来るまでの間、便利屋の手伝いをさせてくれないか?」
アイサが驚いた顔をする。
「え、そんなの悪いよ」
「元の世界へ帰るための協力してくれたり、居候させてもらったりするのに、何もしない方が悪いよ。俺には何の力もないけど、もしできることがあるなら、手伝わせてくれよ」
アイサはしばらく考えを巡らせていたが、ようやく頷いてくれた。
「そこまで言ってくれるなら、手伝ってもらおうかな」
何かのご縁で、この小説を読んでくださったあなた、ありがとうございます。
また、お会いできることを祈っています。