最終章 1話 あの頃に帰れたらいいのに
私は誰とも付き合わない。特に――あなたとだけは、絶対に。
私ね、レンのこと、好きかも知れない。
脳裏に焼き付き、頭の中で何度も繰り返される。
ジリリリ――と目覚ましが鳴り、ベッドから這い出る。
寝不足で重たい目蓋を開け、カレンダーを見る。
八月の第二週の月曜日。
今日は登校日で、約二週間ぶりの学校だ。
今日までの宿題の提出、体育館やプールも含めた、校内の一斉掃除がある。
あれ以来、アイサには会っていない。
どんな顔をすればいいのか分からない。
俺はアイサをどう思っているのだろう。
嫌い、ではないよな。じゃあ、好きなのか?
現代の人間である俺と、異世界の人間であるアイサが付き合うことなんて、できるのだろうか。
とてつもない遠距離恋愛になるのか?
そんなことを考えながら、教室に入ると、春子が騒いでいた。
「遊びに行こうよ! そうだ、お祭り! お祭り行きたい!」
「宿題は進んでるの?」
理緒が嗜めると、
「大丈夫、大丈夫! 夏休みはまだいっぱいあるんだから」
夏休みの最終日に、理緒に泣きついている春子の姿が目に浮かぶ。
理緒も同じように思ったらしく、
「そんなこと言って、後で泣きついてきても知らないわよ」
「お祭り行きたい! お祭り、お祭り、お祭り!」
地団駄を踏む春子を宥めるように、音羽がスマホを見せた。
「近くで花火大会があるよ」
「それって、出店ある?」
春子が聞いたところで、俺は会話に入った。
「花火大会は花火がメインだろ。出店があるのは、夏祭りとは縁日じゃないのか」
「えー、花火も出店もあるお祭りがいいよ。何を隠そう、私は生粋のお祭り女だからね」
胸を張る春子に、理緒は肩を竦めた。
「お祭り女なら、花火も出店もあるお祭りの情報持ってなさいよ」
「ふふん、私は刹那を生きる女よ。一瞬先のことだって分かりゃしねぇよ」
「意味が分からないわ」
理緒は眉をひそめてそう言い、俺に水を向ける。
「蓮城くんは知ってる?」
「実家の方の祭りは、花火も出店も両方あったけどな」
春子が目を輝かせ、
「本当?」
「毎年八月の最初の方にやってるんだ。まだ終わってないかな」
スマホで調べてみる。
「明日みたいだな」
春子はぐっと体を寄せ、
「蓮城くんの実家って、ここから遠い?」
「隣街。電車で一時間半くらい」
春子が俺の両手を取って、上下に激しく振る。
「教えてくれて、ありがとう!」
「皆で行きましょうか」
理緒がそう言うと、春子が抱きついた。音羽も賛成する。
「私もいいよ。楽しそうだし」
話を聞いていた翔が、やって来た。
「俺も混ぜろよ。当然、恋も行くだろ」
「え? 俺も?」
「案内役が必要だろ?」
翔に続き、音羽が尋ねる。
「何か予定があるの?」
「いや、ないけど」
翔が肩を組んで来た。
「じゃあ、決まりだな」
正直な話、今はそれどころじゃないんだが、考えすぎても憂鬱になる。
良い気晴らしになるかも知れないし、何より楽しそうだ。
今住んでいる街で、一番大きな駅に集合する。
俺と翔が待っていると、理緒たちは少し遅れて、浴衣姿で現れた。
場が途端に華やかになったようだ。翔はからかうように、
「馬子にも衣装だな」
理緒が眉をひそめる。
「わざわざ着付けて来たのに、他に言うことないの?」
春子は照れた様子で、
「おじいちゃんもおばあちゃんも、よく似合ってるって褒めてくれたよ」
春子はたぶん、「馬子」と「孫」を混同している。
「ごほっ、ごほっ」
俺は大きく咳き込んだ。
「なんだよ、夏風邪か?」
翔が聞くので、
「そうかも。最近咳が止まらないときがあるんだ」
理緒が、俺の顔を覗き込む。
「クーラー付けっぱなしで寝てない? アイスの食べ過ぎはダメよ。お腹冷やすから」
「お前は俺の母親か」
音羽が心配そうに、
「本当に大丈夫? お薬ちょっとだけ持ってるよ」
そして、巾着を開け、
「風邪薬、酔い止め、下痢止め、鎮痛剤、絆創膏と消毒液、包帯もあるよ」
「薬局かよ」
「ただ、お水がないの」
「いいよ、別に」
遠慮するが、音羽にしては珍しく強引に言う。
「そこのコンビニに行こう。皆、ちょっと待ってて」
理緒が手を振って、
「いってらっしゃい、お願いね」
コンビニで水を買い、皆のところへ戻る途中、音羽が呟いた。
「雨宮さんと隣のクラスの池内君、上手く行かなかったみたいだね」
「そうだな」
「やっぱり、安心した?」
「安心も何も、俺には関係ないし」
音羽は俺の方を見ずに、
「雨宮さんと何かあった?」
俺がどう答えるか迷っていると、待ちきれなくなった春子が駆け寄ってきて、結局有耶無耶になってしまった。
電車を乗り継ぎ、地元の駅で降りる。
こっちに帰ってくるのは、約五ヶ月ぶりだ。
東西を隔てるように大きな河川があって、それを跨ぐ長大な橋がかかっている。
河川沿いの土手に、出店が延々と立ち並ぶ。
街の東側の住人は東の土手に、西側の住人は西の土手に店を構えるルールがある。
すでに多くの人々で賑わっていた。
春子が喜色満面で、大声で叫んだ。
「出店全部回るぞ!」
俺と理緒が、春子の口を塞ぐ。
「そんな金ないだろ」
「そんなに食べられないでしょ」
とりあえず歩き出すと、人混みの中に見知った顔を見かけた。
愛砂? 浴衣を着た愛砂が、一人で歩いている。
直立する俺に、翔が声をかけた。
「何やってるんだ? 置いていくぞ」
「あー、悪い」
愛砂は登校日にちゃんと現れたが、俺はまともに顔を見られなかった。
愛砂の拒絶の言葉が、頭の中で聞こえるからだ。
皆で出店を回っていると、辺りが薄暗くなくなってきた。
花火は夜七時から。後少しで始まる。
「そろそろ始まるし、どこかで座ろうぜ」
場所を探そうとすると、春子が慌てて、
「まだ射的やってない。実は私、スナイパーの家系なのよね」
駆けていってしまった。理緒が叫ぶ。
「ちょっと春子! もうすぐ花火始まるわよ」
「俺が連れ戻してくるよ」
春子の後を追う。的屋で玩具の銃を構える春子を見つける。
春子は顔をしかめ、
「全然当たらないよ」
「スナイパーの家系じゃなかったのか」
「お金なくなったー」
落胆の表情を浮かべる春子。
「どれが欲しいんだ?」
「でも、」
「いいから。花火始まるし、急いで戻るぞ」
春子は、謎の動物のぬいぐるみを指さした。
俺は金を払い、銃を持って、狙いを定める。
俺が放ったコルクの弾は、見事にぬいぐるみに直撃した。
春子が俺の腕を揺すり、
「凄い! 射的、上手いんだね」
「まぁな。小さいとき、よくやったんだよ」
幼い頃、景品が欲しいと泣きじゃくる愛砂のために、何度も取ってやったからな。
俺たちは毎年、杏さんに連れられて、この祭りに来ていたのだ。
春子は満足そうにぬいぐるみを抱え、
「蓮城くん、ありがとう。これ」
春子は箱のキャラメルを差し出した。
「くれるのか?」
「うん。キャラメル嫌い?」
「いや、食べれるけど。別にお返しなんかいらないぞ」
春子は首を振った。
「昨日から、ずっと元気ないから」
無邪気なようで、いろいろ見てるんだな。
キャラメルを受け取ると、春子は小首を傾げ、
「私バカだからさ、難しいことはよく分からないんだけど、最近楽しくない?」
「楽しくない、ってことはないかな。ただ、いろいろなことが同時起こってさ」
春子が大きな声で言う。
「私は、お祭りが好き! 過去も未来も大事だけど、今、楽しい! っていう気持ちが一番だから」
それは、この子の精一杯の激励。
「そうだな。春子の言う通りだよ」
今を楽しまないと勿体無い。そんな当たり前のことも忘れていた。
翔が俺たちを見つけると、
「おせーよ」
「悪い、悪い」
皆揃って、今か今かとそのときを待つ。
そして、時間ちょうどに、花火が打ち上がった。
人々は、一斉に空を見上げる。
夜空に大輪の花が咲く。
それから三十分に渡り、間断なく花火は打ち上げられた。
充分に楽しんだ後、理緒が時計を見た。
「電車も混むでしょうし、そろそろ帰りましょうか」
春子と翔が不満そうに、
「えー、出店まだ終わってないのに」
「まだ女の子とライン交換してないぞ」
理緒は二人を見て、あっさりと、
「じゃあ、あんまり遅くならないようにね」
春子が理緒に泣きつく。
「私を見捨てないで~」
「電車が混むのが嫌なの。春子はまだここに居たいんでしょ」
「皆が帰るなら、私も帰る!」
翔も不承不承といった様子で、
「じゃあ、俺も帰るか。さすがに一人じゃつまらないし」
駅に戻ると、改札の前に愛砂がいた。
翔がめざとくその姿を見つけ、
「あれ、雨宮じゃね?」
理緒も視線を向け、
「本当だ。そっか。雨宮さんも地元だもんね」
改札を通ろうとしたとき、愛砂が話しかけてきた。
「ちょっといい?」
俺は驚きつつ、
「なんだ?」
「付いてきて」
どういうことだ?
聞き返す前に、愛砂はもう歩き出している。
翔に「先に帰っていい」と言おうとすると、
「行って来い」
俺は頷き、愛砂の後を追った。
電車には乗らず、駅を出る。
前を歩く愛砂の、白いうなじや、細い首筋が気になってしまう。
しばらく繁華街に向かって歩いていると、あることに気がついた。
そうか、確かこの辺りは――。
そして、俺達の前に廃ビルが現れた。
「まだ、あったのか……」
暗がりで細部は確認できないが、壁は剥落し、窓ガラスはほとんど割れている。
入り口は、暗闇が口を開けているように見える。
日が落ちているせいもあり、異様な雰囲気が漂う。
俺が小学生の頃から、すでにこの状態だった。
依然として取り壊されていないようだ。
当時から不良も溜まり場に選ばないほど荒廃していたが、さらに悪化している。
おそらく元々賃貸ビルだったのだが、不況の影響によりテナントが次々に潰れていったのだろう。
このビル自体を提供していた企業も同じ末路を辿り、解体すらされないまま放置したのではないだろうか。
愛砂が何も言わず、ビルに入っていく。
「おい、危なくないか?」
愛砂は足を止めず、仕方なく俺も付いていく。
正面の右手に階段がある。
手すりは錆つき、一段上る度に呻き声のような軋む音がする。
二階に上がるとすぐ、ガラスのドアが見える。
以前はその上にファミレスの看板がかかっていたが、今はドアの傍で横たわっている。
ドアノブをゆっくりと引き、中に足を踏み入れる。
かなり薄暗いが、ほとんどの窓のガラスが割れているおかげで、そこから差し込む月明かりを頼りに進む。
埃っぽく、俺たちの足音だけが不気味に響く。
この階の最奥に辿り着いた。
四人がけのテーブルと、ボロボロの二人がけのシート。
テーブルの上には、少年漫画雑誌や、元々ベージュだった毛布、乾電池式のスタンドライトと真四角の置き時計。そして、おもちゃの剣。
シートには当時の俺が家から持ってきた、薄汚れたバスタオルが敷いてある。
ここは俺と愛砂の秘密基地だった。
廃墟に探検だと言って、愛砂を連れて、この廃ビルに侵入したのだ。
遠足の自由時間、二人で抜け出したときもそうだが、俺は愛砂と二人だけの世界を探していたのかも知れない。
何も発見できなかったが、それから何となくここに来て、時間を潰すようになった。
不思議なことに、ビルの外観は時間の経過に相応しい経年劣化に見舞われているのに、ここだけあの頃のままのように見える。
まるで時間が止まってしまっているようだ。
愛砂が唐突に呟く。
「ここね、もうすぐ解体工事が始まるのよ」
愛砂は淡々と言う。
「このビルを所有している企業が、ブライダル事業で成功したから、取り壊して、新たに大きなビルを建設するそうよ」
この場所が取り壊されるから、俺を連れてきたのか。
俺を拒絶するようなことを言ったり、二人が共有した場所に連れてきたり、愛砂は一体何を考えているのだろう。
真意が分からないまま、愛砂に視線を向けると、俺に向き直った。
愛砂が顔をしかめて、消え入りそうな声で言った。
「あの頃に帰れたらいいのにね」
俺は何も言えなかった。




