5章 5話 こんなに苦しいなら
一学期、最後の日。
終業式はつつがなく進行し、生徒たちは教室へ入っていく。
教壇に立つ先生が、長期休暇の注意事項を淡々と説明し、解散となった。
翔が快哉を叫ぶ。
「よっしゃー、夏休みだぜ!」
クラスメートたちも、口々に歓喜の声を上げる。
俺たちは学校から解放され、つかの間の自由を手に入れた。
前の席の翔が振り向き、
「恋、この後どっか行くだろ」
「あー、そうだな」
気の抜けた返事をすると、翔は眉をひそめた。
「何だよ、テンション低いな」
「悪かったな」
俺は席を立ち、教室を出た。翔が追ってきて、俺の隣に並んだ。
「雨宮と池内のことか」
答えずにいると、
「最近あの二人よく一緒にいるよな。昼休みとか飯食ってるし」
学内でも二人の姿を見るし、よほど勘が悪くなければ、察しが付く。
「別に関係ねぇよ」
「それ本気で言ってるのか? 全然そうは見えないけど」
俺が押し黙ると、翔は明るい調子で、
「雨宮のことは忘れて、次に行こうぜ。女の子は雨宮だけじゃないだろ」
「軽々しく言うな!」
自分でも驚くほど、強い口調だった。
すぐに謝ろうとしたが、それより先に翔が言った。
「それだけ本気なら、何でもっと積極的にならないんだよ。雨宮のためにプールの授業誘ったり、勉強したりするくせに、肝心なことは何一つ伝えてないだろ。それで雨宮に男ができたからって、グチグチ言いやがって。お前は不満を言う資格もないんだよ」
一瞬で、頭に血が上った。
「何も知らないくせに、好き放題言ってんじゃねぇよ!」
怒鳴った俺とは対称的に、翔は静かな声色で、
「あぁ、俺は何も知らないよ。だから、教えろよ。お前らに何があったのか」
この馬鹿野郎、わざと俺の癪に触る言い方をしたのか。
その意図に気付くと、俺は途端に冷静さを取り戻した。
「俺はあいつに何もしてやれなかった」
「どういうことだよ」
「雨宮が母親と死別したとき、俺は落ち込むあいつとどう接すればいいか分からなかった。どんな言葉をかければいいのか見当もつかなくて、雨宮と距離を取ってしまった。そんな俺が、今更横に並んで歩きたいなんて言えるわけないだろ」
「じゃあ、このままでいいのか」
「雨宮が幸せなら、それでいい。今は正直苦しいけど、徐々に慣れていくと思う」
「恋。お前、それで後悔しないって言い切れるか?」
翔が俺をじっと見る。
「何年先か、何十年先か後、今日のことを思い出して、あのときこうしておけば良かったと後悔したって、どうにもできないんだぞ。それが、今ならできるんだ。この世界はすぐには終わらないけど、俺たちはいつか死ぬぞ。傲慢かも知れねぇけど、それは俺たちにとっては、世界が終わるのと同じことだろ」
頭がぶん殴られた気分だ。
考えがまとまらない。
「そんな先のことは分からない」
「考えてないだけだ。今、想像してみろ」
翔から視線を逸らすと、俯きながら、走ってくる池内が視界に入った。
俺たちを横切るとき、その目に涙が浮かんでいるのが見えた。
彼が来た方から、愛砂が歩いてくる。
二人に何かあったのか?
翔が、俺の肩を叩いて、
「先に下駄箱行ってるから」
愛砂が少しずつ近づいてくる。
未来の俺は、後悔しないって言い切れるか?
通り過ぎる愛砂。衝動が、思考を凌駕する。
「池内と何かあったのか?」
愛砂は立ち止まった。
「何も」
「でも、池内泣いてたぞ」
愛砂は振り返り、観念したように、
「少し前に彼から告白されたの。それでさっき、あなたとは付き合えません、と伝えただけよ」
「その……二人は付き合ってなかったのか? よく一緒にいるのを見かけたけど」
「告白されたときに断ったのだけど、チャンスが欲しいって泣きつかれたのよ。一学期の終業式の日まで、時間を共有して判断してくれって」
情けないことに、俺は安堵のため息を吐いた。
愛砂が幸せなら、それでいいと言ったのに。
「少しでも、付き合おうと思わなかったのか?」
「私は誰とも付き合わない」
それを聞いて、わずかな安寧の気持ちが芽生えた。
しかし、その安寧よりも確実に大きな苦しみが訪れる。
愛砂が、冷ややかな表情になる。
そして、次の一言が、俺を絶望の底に叩き落とした。
「私は誰とも付き合わない。特に――あなたとだけは、絶対に」
愛砂が去っていく。
俺はどこかで、愛砂は俺を許してくれたのかも知れないと思っていた。
プールの授業に出てくれた。
屋上でお礼を言ってくれた。
期末テストの途中で倒れた俺の看病をしてくれた。
一縷の期待をしていなかったか?
もしかしたら、本当にもしかしたら、やり直せるかも知れない。
でも、それはとんでもない勘違いだった。
愛砂は俺のことを、まったく許していない。
無かったことにしたかった願望が、完全に絶たれた。
容赦のない、拒絶。こんなに苦しいなら――。
こんなに苦しいなら、「好き」なんて感情、消えてなくなってしまえばいい。
初めから、愛砂と出会わなければ良かった。
一度も顔を合わせないまま、別の時代、別の土地で、それぞれ違う人生を送れれば、どんなに良かったか。
自宅に戻るやいなや、俺は〈シェヘラザード〉に手記を綴る。
まるで、この世界から逃げるように。




