1章 2話 愛砂とアイサ
俺は裸の愛砂に背を向け、
「ご、ごめん」
と慌てて、その場から離れた。
近くにあの日記が落ちていたので、一応拾っておく。
しかし、一体どういうことだ?
突然、どこか知らない場所へ移動し、そこに愛砂がいた。
しばらくすると、質素な服を着た愛砂が、恐る恐る現れた。
どう謝ればいいのか分からない。
部屋にいたのに、気づいたらここにいたって?
信じてもらえるわけがない。
だけど、正直に言うしかないだろう。
「えっと、本当悪かった。信じてもらえないと思うけど、気づいたら風呂にいたんだ」
愛砂はびくっと肩を震わせた。
「もしかして、泥棒さんですか? お金ならお渡ししますから、どうか命までは取らないでください」
どうも様子がおかしい。
今の俺たちの関係性で、愛砂がこんな態度を取るわけがない。
それに、何故か知らない人として接してくる。
皮肉だろうか。
「いやいや、泥棒するつもりなんてないから! 俺を疑ってるのか?」
「じゃあ、変態さん?」
「だから、裸を見たのは不可抗力なんだって! 雨宮は俺がそんなことすると思うのか?」
「あの、人違いをされていませんか? 私の名前はアマミヤではありませんよ?」
「人違い?」
どこからどう見ても、愛砂なのに?
凝視すると、愛砂は顔を赤らめ、目を伏せた。
「あまり見られると恥ずかしいです」
どうしても、この子が嘘を吐いているとは思えない。
他人の空似なのか?
「本当に俺は、泥棒に入ったわけじゃないんだ。危ないものは持ってないし、気の済むまで調べてくれて
いい」
誠意が伝わったのか、少女は落ち着きを取り戻した。
「私こそごめんなさい。気が動転してしまって」
いきなり知らない男が風呂に現れて、びっくりしない方がおかしい。
「泥棒さんじゃないなら、どうしてここに?」
「さっき言った通りだよ。嘘みたいな話なんだが、さっきまで別の場所にいたのに、気が付いたら風呂場にいたんだ」
「何かの魔術を使ったってことですか?」
「マジュツ? マジュツって、あの魔術?」
俺は一瞬、混乱した。
少女は平然とした顔で、
「高位の魔術師は、空間移動の魔術を使えるじゃないですか」
おいおい、まさかこの子、ちょっとイタイ人なのか?
いや、相手からすれば、気付いたらここにいた、って言ってる俺の方がヤバイやつか。
「ごめん。冗談とかじゃなく、俺は本当のことを話してるんだ」
「私もそのつもりですけど」
「いや、でも魔術とか魔術師とかって言われても」
「この世界に魔術を知らない人なんていないと思っていました」
少女は心底驚愕した様子で、俺を見ている。
俺は魔術を知らないのではなく、魔術は実在しないものという認識なのだ。
「ここはどこなんだ?」
「ここは、クロノス帝国の帝都、クロックシティですよ」
何を言っているのか分からなかった。
厳密には、受け入れることができないのだ。
嘘や冗談には思えないが、鵜呑みにもできないからだ。
固まってしまった俺に、少女は心配そうに言う。
「もし良かったら、気持ちが落ち着くまで休みますか?」
思考がまとまらない俺は、茫然と頷く。
突然風呂に現れた不審な男に、ここまで気を遣ってくれるのか。
長く伸びる廊下を進んでいく。
その先の部屋に入ると、中央に木製のテーブルと椅子があった。
照明は蛍光灯でなくランプで、アナログの掛け時計が掛かっている。
「今、飲み物用意しますね」
少女が奥に消えていった。
何か手伝おうと、日記をテーブルの上に置き、後を追った。
奥の部屋には、かまどのようなものがあり、それでお湯を沸かし始めた。
「コンロとかIHのクッキングヒーターとかないの?」
「こんろ? くっきんぐひーたー? えっと、それはどういったものですか?」
通された部屋に入ったときから、違和感を抱いていたのだが、その正体に気付いた。
この家には電化製品がないのだ。
たぶん、ここはダイニングなのだが、冷蔵庫や電子レンジ、トースターや炊飯器が見当たらない。
おそらく、テレビや洗濯機もないはずだ。
いくらなんでも、最低限の家電すらないのは奇妙だ。
「紅茶はお嫌いですか?」
お茶の用意をし、ダイニングに戻ると、少女が尋ねた。
「外に出てみてもいい?」
せっかくの淹れたてのお茶を、もったいなく思いながら聞くと、
「いいですけど、もう落ち着いたんですか?」
「ちょっと確かめたいことがあるんだ」
「それじゃ、私付き添いますよ」
本当に至れり尽くせりだ。
少女と一緒に、家の外に出た。
建造物は全て、木と石と煉瓦で出来ている。
石畳の通りを行き交う、
笑いさざめく人々は、中世を連想させる衣服に身を包んでいる。
シンプルなシャツと、どこか野暮ったいパンツ。
色合いも決して鮮やかではない。
デザインに個性というものがなく、画一化されている。
少なくとも、うちの近所では見ない光景だ。
極めつけに、鎧を纏い、剣を携える男の人もいる。
まるで、街全体が芝居の中にあるようだ。
はるか遠くには、絵本に出てくるような、巨大な城が見える。
城はその半分を夕日にあぶられ、その存在感を際立たせている。
俺がいた世界とは、別の世界なのではないかという考えが、頭をもたげる。
茫然と立ち尽くす俺に、少女が心配そうに、
「あの、大丈夫ですか?」
「さっき魔術って言ってたよね。それって、誰でも使えるの?」
「いえ、皆が皆使えるわけじゃないです。例外もありますけど、ほとんどは先天的な素質に依存します」
「じゃあ、知り合いに魔術を使える人っている? いるなら会って、目の前で魔術を見せてもらいたいんだけど」
「私が使えますよ」
「本当?」
「はい。下級の魔術でしたら、見せられますよ。ただその前に、家の中に入りませんか?」
少女が、きょろきょろしながら言った。
行き交う人々が、俺に視線を浴びせていくのだ。
おそらく俺の格好が、彼らからすれば珍しいせいだろう。
家の中へ舞い戻ると、
「こちらへ来てもらえますか」
そう言われて連れて行かれたのは、かまどのある場所だった。
かまどが二つ並んでいて、そこには薪がくべられている。
片方には、陶器のやかんのようなものが乗っている。
俺に出す紅茶のために、使っていたのだろう。
少女はその前へ立った。
「じゃあ、見ていてくださいね」
「どんな魔術を使うんだ?」
「薪に火をつけます。私は火の精霊の加護を受けているので、火を出現させることができるんです」
俺は固唾を飲んで、見守る。
少女は人差し指を立て、
「偉大なる火の精霊よ、我にその力を宿したまえ」
人差し指に火が宿った。
その指を薪へ向かって振ると、薪が炎に包まれた。
確かに道具を使わず、呪文のようなものを唱え、炎を出現させた。
半信半疑だったが、そろそろ認めざるを得ないのかも知れない。
ここは俺がいた世界とは異なる世界、つまり異世界なのだ。
少女曰く、――クロノス帝国の帝都、クロックシティ。
「何か分かりました?」
「あぁ、ありがとう」
俺はそう答えながら、じわじわと焦燥が這い上がってくるのを感じた。
おいおい、とんでもないことになってきたぞ。
一体、どうやって帰ればいいんだ?
パニックに陥りそうになったとき、あることに思い当たった。
そうだ、あの日記。
あれを開いて異世界へ飛ばされたのだから、同じことをすれば、現代へ帰れるんじゃないか。
ダイニングに戻り、テーブルの上に置きっぱなしにしていた本を開いてみる。
……しかし、待てど暮らせど、あの神秘的な光は発生しない。
「ダメか……」
落胆を通り越して、渇いた笑いがこみ上げてくる。
片道切符って、そりゃないぜ。
「急に走って行ったからびっくりしました。大丈夫ですか?」
少女が奥の部屋から出てきた。
「驚かせてごめん。でも、もうどうしたらいいか」
「お湯が湧いたら、紅茶を淹れ直しますから、しばらくゆっくりしてください」
「ありがとう」
ここまで優しくしてもらって、俺はまだ彼女の名前も知らない。
「名前、聞いてなかったな。俺は蓮城 恋だ」
「レンジョウ・レン? ファーストネームはレンジョウでいいですか?」
「いや、レンだよ。それと、敬語じゃなくていい」
「レンね。分かったよ。私は――」
少女の唇が、滑らかに動く。
「私はアイサ・レイニーだよ」
アイサ――その名前を聞いて、俺は動けなくなった。
少女は愛砂と同じ外見というだけでなく、名前まで一緒だった。
現代の愛砂と、異世界のアイサ。
「私のことは、アイサって呼んでね」
「……アイサ」
愛砂のことを、昔は「雨宮」ではなく、「愛砂」と呼んでいた。
もうその呼び名を口から発することはないと思っていた。
何かのご縁で、この小説を読んでくださったあなた、ありがとうございます。
またお会いできることを祈っています。