3章 1話 人魚のバニラと魔水晶
うちの高校には、プールの授業がある。
例年、六月の上旬にプール開きをするそうだ。
雨天の場合、代わりに体育が行われるが、本日は絵に描いたような快晴で、プールの授業は予定通り行われている。
照りつける陽光が、水面とプールサイドに反射し、思わず目を眇めてしまう。
すっかり梅雨は明けたが、俺の心は晴れなかった。
静かな雨音の中に、浮かび上がるような声。
――もう大切なものを失くしたくないの。
あれは単に、ペットとの別れを憂いたわけではないだろう。
愛砂は、他人と親密になることを強く拒絶している。
それは自己防衛本能のようなものかも知れない。
二度と傷つかないために、自らに課せた戒め。
更衣室の方から、学校指定のスクール水着を着用した女子たちが現れた。
先頭に理緒がいて、その隣に春子と音羽がいる。
白い肌が惜しげもなく晒され、水面よりもプールサイドよりも眩しい。
理緒が、プールの隅に座っている愛砂のところへ歩いていく。
愛砂の体調を心配しているのだろう。
愛砂はずっと、体調不良でプールの授業だけ休んでいる。
そのせいで、ズル休みだと悪い噂が立ち始めた。
理緒は愛砂に、「体調良くならないね」「一緒に泳ぎたいね」と言っている。
先生が遅れていて、クラスメートたちは思い思いに騒ぎ始めた。
未古神が俺のところへやって来た。
大人びた雰囲気と、すらりと長い四肢を持つ未古神がスクール水着を着ると、どこかコスプレ感があって、見てはいけないようなものを見ている気分になる。
「いやぁ、今日も眩しいねぇ」
未古神の視線は、プールの水面にもプールサイドにも向けられていない。
未古神は、きゃっきゃっとはしゃぐ女子たちに熱い眼差しを送っている。
「夏というのは素晴らしい季節だね。こんな合法的に女神たちの素肌を拝めるのだから」
「またオジサンみたいなこと言ってるよ。そう言う未古神も、男たちからすれば欲情の対象になってると思うけどな」
「私が? いやいや、そんな物好きはいないだろう」
やっぱりズレてるんだよな。
「そんなことよりも、女神たちの戯れを、君も存分に目に焼き付け給えよ」
「俺はいいよ」
「それは、もったいないね」
未古神が唐突に、話し始めた。
「私は幼少期、港町に住んでいたことがあってね。家も海から近くて、時間があれば海を見に行っていた。その町は漁業が生活の基盤で、港は魚の匂いでいっぱいだった。海辺には漁船がいくつも並んで静かに揺れていた。海は様々な表情を私に見せた。季節によって、時間帯によって、天候によって、まったく異なる様相を呈していた。それはまるで、小さな女の子のようだった。見ていて飽きなかった」
翔は俺を詩人だと揶揄したが、未古神の方がよっぽど詩人だ。
「その町での生活は一年ほどで終わりを迎え、私は他の土地へ移った。そこでの生活は短かったが、幼少期のおぼろげな記憶の中で、あの町の風景だけは、今でも鮮明に思い出すことができる。もしも、タイムマシンがあったなら、私はあの頃に戻りたいと思う」
未古神が俺の顔を見た。
「君にはあるかい? 戻りたいと思う時間が」
俺が戻りたい時間? そんなの決まってる。
だけど、例え戻れたとしても、何か変わるだろうか。
何年も経った今だって、あのときの愛砂に何をしてやればいいのか分からないのに。
「すまない。もしもタイムマシンがあったら、なんて子供っぽすぎたかな」
未古神はそう言い残し、女子のグループの中に入っていった。
代わりに、女子たちと喋っていた翔が、こちらに向かってきた。
「恋もこっちに来いよ。先生来るまで、皆で遊ぼうぜ」
「そんな気分じゃない」
「なんだよ。雨宮の水着姿が見られないからって、拗ねてんのか?」
「はぁ? 違うわ」
「一緒に泳ごうって、誘えばいいじゃん」
「だから違うって」
翔が隣で、愛砂に視線を向けた。
「雨宮はなんでずっとプールの授業休んでんの?」
「俺が知るかよ」
「もしかして、泳げないとか? それがバレるのが嫌なんじゃねーの」
「…………」
「あれ、心当たりあんの?」
確かに小さい頃の愛砂は、泳げなかった。
「いや、さすがに高校生になって、泳げないってことはないと思うけど」
「泳げないなら、恋が教えてやればいいじゃん。泳げるようになれば、授業にも参加できて、悪い噂がなくなるだろ」
「それはそうだけど」
俺は口を閉ざした。
傘を差す愛砂の姿が思い浮かぶ。
とてもじゃないが、声をかけられる気がしない。
突然、翔が俺の腕を強引に引っ張り、プールの方へ連れて行く。
水際まで近づくと、俺の腰を抱え、背中からプールに向かって放り投げた。
プロレスの技の一つである、バックドロップだ。
無防備だった俺の体は、見事な弧を描きながら、水中に沈んでいった。
無数の気泡が、激しく揺れる水面に向かって浮上していく。
投げた翔もプールに落ち、二人分の大きな水しぶきが上がった。
俺が落とされたのは浅いところで、立つと上半身がほとんどプールから出る。
思いっきり水面に打ち付けた背中に、痛みを感じる。
「なにすんだよ!」
いくらか水を飲んでしまい、大きく咳き込む。
クラスメートたちが一様にこちらを見て、驚いたり、笑ったりしている。
理緒が「こら!」と叫びながら、駆け寄ってくる。
その後ろで音羽が「蓮城くん、大丈夫?」と心配そうにしている。
春子は、なぜか楽しそうに飛び跳ねている。
翔が金髪をかき上げながら、白い歯を見せて笑っている。
「てめぇが辛気臭い顔してるからだ」
こいつなりに俺を元気づけようとしたのか。
他にもやり方があるだろうが。
このバカのせいで、楽しくなってきた。
バカは感染するのだ。
「決着をつけてやるよ、覚悟しろ」
俺は水中に潜ると、翔の両足を抱え、勢い良く持ち上げて、後ろへ倒れ込んだ。
これで、したたか背中を打ち付けるだろう。
翔が水面から出てきて、
「今日こそ、どっちが上からはっきりさせてやるぜ」
いつの間にか、クラスメートがプールサイドに集まっていて、「いいぞ」「もっとやれ」と歓声を上げている。
理緒が「やめなさい!」と大声を張り上げた直後、鬼軍曹と呼ばれる体育教師の怒声が響き渡った。
「お前ら、何やってる! またお前らか。蓮城、白鷺、さっさとプールから出ろ!」
アイサと、夕食の買い物の帰り道を並んで歩く。
異世界にも四季はあるらしく、現代と同じく夏を迎えようとしていた。
夕方で陽は落ちかけているが、石畳の道路に残った熱が俺たちの体を炙る。
額にじんわりと汗が浮かび、次々に頬を這っていく。
「アイサって、泳ぎ得意?」
「私泳げないんだよね。火の精霊の加護を受けた人は、比較的に泳ぎが苦手になるんだって。あくまでそういった傾向があるだけで、皆が皆、泳げないわけじゃないけど」
こっちのアイサも、泳げないのか。
「小さい頃からお母さんに、水には気をつけなさいって言われてたの」
「アイサは水が怖い?」
「うーん、苦手意識はあるかな。でも、いつかは自由に泳いでみたいな」
「良かったら、今度泳ぎ教えようか?」
「本当? 絶対ね」
俺は頷きながら、罪悪感のようなものを覚えた。
後少しでアイサの家に着くというところで、前方に何か横たわっているのが見えた。
「レン、大変。人が倒れてる」
アイサが駆けていく。
俺も倒れている人に近づいていくと、不自然な部分を見つけた。
その人には二本の脚がなく、下半身が魚だったのだ。
愕然としている俺に、アイサが言った。
「この子、人魚だね」
こっちの世界には、人魚もいるのか。
アイサがうつ伏せになっている人魚を抱き起こした。
長くゆるやかな髪が地面に落ち、顔が顕になる。
俺たちと同い年くらいの少女だった。
「大丈夫ですか?」
俺が問いかけると、人魚の少女の目がうっすらと開いた。
「すみません、水分がきれてしまって」
「どうすればいいんだ?」
「お水を持ってませんか?」
アイサが「家から持ってくる」と走っていった。
俺は人魚の少女を抱きかかえ、アイサを待つことにした。
人魚は苦しそうに顔をしかめ、ぐったりとしている。
アイサは手に桶を持って、すぐに戻ってきた。
コップ一杯の水を想像していたので、少し驚いた。
「水、持ってきたよ」
アイサが呼びかけると、人魚は桶を受け取り、それをひっくり返して、いっぱいに張っていた水を自身の体に浴びせた。
浴びるように飲んだ、のではなく、浴びたのだ。
俺はその様子を愕然と眺めた。
てっきり飲むために、水を要求したのだと思い込んでいたからだ。
人魚はみるみる元気になっていった。
顔色が良くなり、表情も穏やかになった。
そして、人魚の下半身が二本の脚に変化した。
俺は仰天し、人魚の脚をじっと見ると、人間の脚と遜色ない、綺麗な脚が伸びている。
「ありがとう。助かったよ」
落ち着きを取り戻した人魚に、アイサが答える。
「どういたしまして。それより人魚族がこんな街中にいるなんて珍しいですね。何か用事があって来たんですか?」
「そうなの。この辺りに便利屋さんがあるって聞いて来たんだ」
それってもしかして――俺が尋ねるより先に、アイサが言った。
「それって、うちのことじゃない?」
「二人が便利屋さん?」
事務所のソファに座る人魚――バニラは眉に苦労を滲ませ、
「途中で猛獣に追われたりして、大変だったよ。あいつらの爪は鋭くて、とんでもない跳躍力とスピードで襲ってくるんだもん」
「それは、本当に大変だったな」
「もう少し助けてもらうのが遅かったら、干乾びて魚の干物になるところだったよ」
笑いながら言うバニラ。
いや、まったく笑えないんだが。
アイサが紅茶の代わりに、水を出すと、バニラがごくごくと飲んだ。
「この水とってもおいしいね。さっきのと一緒だよね」
「そう。近くの川の水だよ」
異世界では水道がないため、川から水を汲んできて、水瓶にためる。
コップに注がれた水を嬉しそうに見るバニラ。
「まろやかで、不純物がない。体に染み渡る感じ。良い水っていうのは、淀みなく体と調和するの」
水については、一家言あるようだ。
「水の話もいいんだが、早速依頼について聞いていいか」
「仲間の一人が、言ったの。少し前に旅人の人から、クロックシティに腕利きの便利屋さんがいるって」
答えつつ、バニラは俺とアイサをまじまじと見つめた。
「でも、思ったよりも若いね。仲間の話を聞いた感じだと、もっと大人だと思ってた」
俺はすぐに、バニラがある勘違いをしていると気付いた。
「俺たちは、バニラの仲間が言ってる腕利きの便利屋じゃないよ」
「でも、ここは便利屋なんだよね?」
「旅人が便利屋の話をしたのって、少し前なんだろ。そのときはアイサの両親が便利屋をやってたんだ。今は城に招かれて、研究者と魔術師として働いてる。俺とアイサは、二代目なんだ」
アイサが申し訳なさそうに、
「私の両親を目当てに訪ねてきたんだよね。ごめんなさい。無駄足にさせちゃったね」
「ううん。ここに来て間違いはなかった。道端で倒れてた、見ず知らずの私を助けてくれた。是非、二人にお願いしたいな」
バニラはにっこり微笑んだ後、
「私たち人魚が棲んでる泉があるんだけど、最近汚れてきて、棲みにくくなってきたの。長年堆積したヘドロとか、悲しいことだけど、心無い旅人たちのゴミとかが原因でね」
「俺たちにその泉の掃除をしてくれってことか?」
「そうじゃないの。私たちは泉のことで問題が起こると、泉の女神様をお呼びして皆で相談することになっている。お話を聞くと、女神様の力が弱まってるらしいんだよね。女神様の力が回復すれば、泉を浄化して、元の綺麗な泉に戻すことができる」
バニラが俺たちをじっと見た。
「女神様は、魔水晶があれば大丈夫だとおっしゃっています。だから、二人には、私と一緒に魔水晶を探しにいってほしいの」
「魔水晶?」
「魔力を宿した水晶のことです。すごく希少なもので、市場に出れば相当な価格をつけられの」
「魔水晶っていうのは、どこにあるんだ?」
「泉の女神様からちゃんと伺っています。東の森の端、そこにあるの」
「そこって、モンスターとかいる場所じゃないのか」
「ご心配なく。オークの生息地から離れてるから」
「俺が言うべきじゃないけど、場所が分かってるなら、自分たちで何とかできるんじゃないのか? その泉に棲む人魚って、バニラだけじゃないんだろ」
「仲間はいっぱいいるんだけど、魔水晶を取りにいけるのは、私しかいないんだよね。さすがに一人じゃ危ないし。さっきみたいなことになるから」
「どうして他の人魚たちは取りにいけないんだよ?」
尋ねると、ずっと銅像のようにソファに座っていたアダムが答えた。
「それは人魚族が、長時間人間の脚を維持するのが困難だからでしょう。彼らは体内の水分を一定以上消費すると、本来の姿に戻ってしまうのです」
さっき小路で、バニラが下半身を魚の状態にして、倒れていたのを思い出す。
バニラが自分の足を見て、
「他の人魚たちは私ほど長い時間、人間に擬態できないの。だから、二足歩行での長距離の移動はできないんだよね。擬態はすごくエネルギーを消費してしまう。人間の足を維持るすには、大量の水分を補給しないといけないけど、それを持ち歩くのは不可能だし。他の人魚たちは、私みたいに桶一杯分じゃ全然足りない。私以外の人魚じゃ、ここに来ることもできないんじゃないかな」
「じゃあ、なんでバニラは大丈夫なの?」
アイサが、俺とまったく同じ疑問を口にした。
「私、ハーフなの。人魚族と人間のね。だから、他の人魚たちより長い時間人間の姿でいられるし、消費するエネルギーも、補給するエネルギーも少なくて済むんだよ」
人魚と人間のハーフ――そういう存在もいるのか。
「それでどうかな? 依頼、引き受けてくれる?」
バニラが聞くと、アイサが大きく頷いた。
「もちろんだよ。バニラたちが安心して泉で過ごせるように、頑張るから」
「ありがとう。もちろん、報酬も用意してるよ。本来、魔水晶の場所は女神様しか知らない。魔水晶が手に入って、女神様の力が戻ったら、余った魔水晶はそのまま報酬として、二人にあげるよ」
魔水晶は市場で相当高価なものだから、報酬としてはかなり期待できそうだ。
事務所のドアが開き、鍋を持ったリオが現れた。
「アイサ、もうご飯食べた?」
「ううん、まだだよ。いつもありがとう、リオ」
アイサに鍋を渡したリオが、バニラを見やった。
「お客さんも来てるんだ。そうだ。皆で食べようよ」
アイサが鍋を持ち上げ、
「いいね。そうしよう」
と嬉しそうに同意すると、ドンッという大きな音がした。
視線を向けると、バニラがソファから転げ落ちていた。
「なにやってるんだ?」
バニラは体をガクガクと大きく震わせ、瞳に大粒の涙を浮かべている。
「わたしを、た、たべないでくだしゃい……」
「どうしたんだよ」
「だ、だって、今、皆で食べようって、そこの猛獣が」
「猛獣がどこにいるんだよ。食べるって、鍋の料理のことだろ。一体何を言って――」
リオの猫耳が目に止まった。
猫耳、人魚……猫、魚――そういうことか。
猛獣って、猫のことだったんだな。
アダムに耳打ちした。
「聞き辛いんだが、人獣族は人魚を、その……食べるのか?」
「いえ、そんな話は寡聞にして聞いたことがありませんね」
そりゃそうだよな。
初めてリオと会ったとき、アイサが人獣族は、人間とほとんど変わらないと言ってた。
「リオ、その子は人魚で、どうやらお前の猫耳を見て、戦々恐々としているみたいだ」
「はぁ? 私に食べられると思ってるってこと? そんなことしないわよ」
バニラはソファの後ろから顔だけ出し、涙目でこちらを窺いながら、
「ホント? ホントに食べない?」
「食べないわよ」
「そっか、良かった~。その耳と尻尾を見ると、反射的にびくびくしちゃうんだよね」
人魚としての、というか魚としての性なのだろうか。
「誤解も解けたところで、皆でご飯にしよう」
アイサが鍋の蓋を開けると、白身魚の煮付けのような料理だった。
バニラが泣きながら、叫ぶ。
「やっぱり食べる気なんだ~!」
人魚に魚料理は、不謹慎だろう。
何かのご縁で、この小説を読んでくださったあなた、ありがとうございます。
また、お会いできることを祈っています。




