1章 1話 現代からの消失
景色が変わり、疎遠になっている幼馴染、雨宮 愛砂の裸が飛び込んできた。
透き通るような白い肌が、惜しげもなく晒されている。
レンガに囲まれた空間で、湯の張った大きな樽に、今まさに足を入れようとしている。
ここは、日本の一般的なものとは異なるが、おそらく浴室だ。
一糸まとわぬ愛砂の体は、無駄な肉がほとんどなく、しかし出るべきところはしっかり出るという、女性らしさを主張したラインを描いている。
ふいに目が合う。
愛砂は咄嗟に、肌を隠すようにしゃがんだ。
そして、大きな瞳を白黒させ、その直後、
「きゃあああああああああああああああああああああああ――」
耳を劈くような悲鳴が、響き渡った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
愛砂の裸を見た、その日の朝。
また同じ夢を見た。
小さい頃、愛砂と遊んでいる記憶が、映像として再生される。
お互い泥だらけになって、笑い合っている。
あの頃の愛砂は感情が豊かで、泣いていたかと思うと笑っていたり、怒っていたかと思うと驚いていたりしていた。
高校生になった俺からすれば、見ていて飽きないと微笑ましくも感じるが、当時の俺は結構振り回されたものだ。
しかしながら、俺はそれを楽しんでいた気がする。
やがて、世界から色が消えていく。
愛砂の輪郭が、ゆっくりと滲む。
愛砂が何か言っている。
よく聞こえない。
ジリリリリリ――。
目覚ましの音が、愛砂の声をかき消して、俺は目を覚ます。
いつもこうだ。
愛砂は何を言っていたのだろう?
「学校行かないと」
考えるのをやめ、身支度を始めた。
俺はこの春、地元から出て、時計台市にある玻璃高校の一年生になった。
六畳の学生アパートで、一人暮らしをしている。
学校に着き、下駄箱で上履きに履き替えようとすると、視線の先に愛砂がいた。
反射的に、緊張で体が強張った。
愛砂のセミロングの黒髪が揺れる。
意志の強さを感じる大きな瞳が、他人を寄せ付けないと言外に語っている。
凛とした佇まいの中に、物憂げな雰囲気が漂う。
「おはよう」の一言が言えない。
愛砂は俺を一瞥したが、すっと視線を逸し、教室へ向かっていった。
俺と愛砂は、同じ小、中学校に通っていたが、まさか地元ではないこの高校でもクラスメートになるとは思わなかった。
窓際の席を引き当てた愛砂は、授業中以外は憂鬱そうに頬杖をついて、窓の外を眺めている。
クラスメートたちが笑いさざめく教室で、愛砂の周辺だけ、空気が張り詰めている。
孤立している者は、大抵風景の一部になるのだが、愛砂の場合は別だ。
それはおそらく、愛砂の美貌のせいだろう。
刺々しい美人は、近寄りがたい。
クラスに馴染もうと、努力しても上手くいかないということではなく、本人がそれを望んでいないように見える。
教室に入ると、理緒が愛砂に話しかけていた。
竜胆 理緒はクラスのまとめ役で、いわゆるムードメーカーだ。
性別問わず、友達が多い。
同じクラスだけでなく、他のクラスとも交流がある。
髪型はショートカットで、快活な性格とよく合っている。
前髪がピンで留められていて、形の良い額と、気の強そうな眉が顕になっている。
「雨宮さんもこっちに来て喋ろうよ」
愛砂は顔を理緒の方へ向けたが、すぐに興味を失ったように、視線を戻した。
「私はいいわ」
理緒は食い下がる。
「ゴールデンウィーク何してたの? 良かったら今度一緒に」
「ごめんなさい。お手洗いに行くから」
愛砂が突然席を立ち、教室から出て行った。
初めての光景ではない。
理緒以外にも、何人も愛砂に声を掛けていたが、冷たくあしらわれた。
そして、時が過ぎるにつれ、その数が減っていき、今では理緒だけになった。
理緒は、使命でも背負っているのだろうか。
どうしても、愛砂をクラスに馴染ませたいらしい。
クラスメートは、愛砂のことを気難しいやつだと思っているだろう。
白鷺 翔が、俺の隣の席に座った。
「恋、おはよう。あー、眠い」
「遅くまでエロ動画見てるからだよ」
軽口を叩くと、翔は「うるせー」と小さく笑った。
やんちゃそうな顔つきで、理緒がムードメーカーなら、こいつはトラブルメーカーだ。
翔は金髪を弄びながら、
「雨宮って美人だけど、付き合い悪いよな。お前ら幼馴染なんだろ? 昔からあんな感じだったの?」
「さぁ、どうだったかな」
「その話、混ぜてよ」
気がつくと、理緒が傍に来ていた。
「蓮城くんと雨宮さんが幼馴染だっていうのは、あなたたちと同じ小学校だった子から聞いてるわ。雨宮さんのこと教えてくれない?」
「雨宮とは確かに仲良くしてた時期はあるけど、それは昔の話だ。今は喋らないし」
「雨宮さんって、小さいときは明るかったんでしょ?」
翔が口を挟む。
「ガキの頃と今じゃ、性格なんか変わるだろ」
「それはそうだけど、別人みたいになったとしたら、何か理由があると思うでしょ。誰に聞いても知らないって言うし」
「悪い、俺もよく知らないんだ」
「そう」
理緒は短く答えて、友達のところへ行った。
愛砂は始業の直前に戻ってきた。
放課後、翔を含む数人とファーストフード店で駄弁り、誰か一人がそろそろ帰るわと言ったのをきっかけに、解散となった。
翔と二人で歩いていると、翔がナンパしたいと言い出した。
遅くまで繁華街をうろうろしている子は、口説きやすいだろうという安易な考えだ。
これまでも何回かあったが、以前翔が声をかけた子が男連れで、喧嘩に発展したことがあった。
だから、気は進まなかったが、仕方なく付き合うことにした。
小一時間粘ったが、結局釣果を得られなかった。
翔は悔しがっているが、厄介事にならなくて、俺は胸を撫で下ろした。
「あ、そうだ。恋、これ」
翔が鞄からビニール袋を取り出し、俺の鞄に突っ込んだ。
「何入れたんだよ」
「俺たちのバイブルだよ。借りものだから、汚すなよ」
「最高かよ」
翔はにやにや笑いながら、
「雨宮に似てる子がいるぞ」
脇腹に軽く、一発打ち込んでやると、
「へへっ、じゃあな」
翔と別れ、黄昏の中、帰途につく。
愛砂が今みたいになったのは、愛砂の母親が亡くなってからだ。
俺たちが十歳のとき、杏さんは、信号無視のトラックに轢かれた。
愛砂は塞ぎ込み、しばらく学校を休んだ。
その後、学校に現れた愛砂は、それまでとは違っていた。
極端に口数が減り、笑顔は消え、孤立していった。
そして、俺たちも疎遠になった。
自宅に到着し、鞄とスマホを勉強机に置き、ベッドに体を放り投げる。
窓からオレンジの日差しが差し込み、室内が蜂蜜色に染まっている。
晩御飯は、さっきのファーストフードでいいか。
今日はもう何もしたくない。
このまま寝てしまおうか。
「……バイブル」
鞄を開け、ビニール袋から、エロ本という名のバイブルを引っ張り出す。
制服美少女コレクション――表紙でセーラー服の女の子が、笑顔を振りまいている。
適当にぱらぱら見ようしたとき、鞄の中に、見覚えのないものが入っているのが見えた。
それは本だった。
装丁は黒一色で、教科書と同じくらいのサイズ。
タイトルが英語の筆記体で書かれているが、読めない。
「なんだ、これ。俺のじゃない。誰が入れたんだ?」
翔か?
いや、あのときビニール袋しか入れていなかった。
興味本位で、その本を開いた。
適当にページをめくるが、何も書かれていない。
日記だろうか。
閉じようとしたその瞬間、その日記が神秘的な光を放ち始めた。
「なんだよ、これ」
慌てて手を離した。
日記は煌々と輝き、あっという間にその光に包まれる。
たまらず、目を眇める。
視界が白色に塗り潰されていく。
――そうして、俺は現代から消失した。
何かのご縁で、この小説を読んでくださったあなた、ありがとうございます。
またお会いできることを祈っています。