船は揺れません
「シオリーン、早く食べないと、麺、伸びちゃうよ」
ねぎまが食べ物のことを持ち出しても、ももしおの投資話は止まらない。
「でもね、ちょっと後悔してるの。円高のときに母に内緒でドルを余分に買っておけばよかったって。そうしたら、日本経済が超減速しても―――減速じゃないよね。衰退だよね―――アメリカ株でがっぽりじゃん? いくら消費を促そうって言ったって、90歳が70歳に遺産相続する国で市場にお金が出回るわけないと思わない? それがいいとか悪いとかじゃなくて事実なの。情報が入ってくるんだったら、インド市場とか興味あるんだけどなー」
そんな平和なBGMで食べるラーメンは美味くって、オレは汁を全部飲み干した。
みんなの器を重ねて、オレが返却口へ運ぶ。
車の中から30代と思われるの店主が手を伸ばしてくれた。黒のジャンパーにエプロン姿。サラリーマンにもいそうな1000円でカットしたかのような髪、日本人的な目、どこかで出会っても3歩歩いたら忘れそうな顔。ただ、長めのサイドの髪が揺れたとき、ちらっと餃子みたいに潰れた耳が見えた。柔道してる人の耳。
「パピコ横浜へ行ったって?」
と店主。その声、口調に背中、肩、腕の毛がばっと逆立つ。
「はい」
ぞくっとした緊張に喉がからからになる。
店主は器を下げると、車から降りてきた。中肉中背。デニムを穿いた足元は、グレーのナイキ。
!
どこで聞いた声か思い出した。
パンダを見つけたトラックに来た男だ。「人しかやらない」男。
脚ががくがくと震えた。
男がぽつりと言った。
「オレがやったことになってんだけど」
「何、を、です、か?」
オレは声を絞り出した。掠れてる。
「ま、いい。オレに箔がついた。
ラーメン、うまかったか?」
「はい。ご、ごちそうさまでしたっ」
返事の後、脱兎のごとくオレはねぎまの腕を掴んで走リ出した。背中でラケットバッグがばさばさ揺れる。
「宗哲、待てって」
「宗哲君」
ももしおとミナトがオレを追いかけて来る。
角を曲がってラーメン屋が見えなくなったところで走るのをやめた。膝に手をついて肩で息をする。
「どーしたの? 宗哲クン、顔、真っ青」
ねぎまが荒い息で、オレを心配する。
「ん? あ、えと」
背中に冷たい汗を感じながら、オレは3人に幻のラーメン屋の正体を告げたのだった。
「そっかぁ、副業で忙しいから、ラーメン屋さんが幻ってくらいしかやってないんだねー」
は? ももしお、どんだけ能天気な感想だよ。
でさ、副業で忙しいって具体的にどーゆーこと? 人をばんばん殺めちゃってるって?
ってか、ラーメン屋の方が副業なんじゃねーの?
ラーメン屋はもう幻のままでいい。
横浜から去ってくれ。
ミナトと分かれ、ももしおを見送った。
ねぎまと2人。
左手を繋ぎながら、右手にはーっと息を吹きかけて、こっそり口臭チェック。キシリトールガムの効果も虚しく、がんがんに豚骨臭⤵⤵
「やっと二人っきりになれたね」
微笑む君は、その笑顔で誘っているなんて露ほども思っちゃいない。季節外れのマリーナで過ごそうか。波の音に紛れて2人で愛を囁き合おう。
もうちょっと肉食っぽくがるるるっていきたいよな。
全てを脱ぎ捨てればいい。男は思った。人間の品性なんてここでは糞の蓋にもならないと。細部まで美に拘る女は、男の視姦に耐えながらも、ゆっくりと白い指を動かした。一枚、また一枚と布が床に舞う。女は布と共に何か別のものが剥がれていく気がした。
おおー。
「あのさ、船の片付けしたいんだけど。いい?」
とりあえず、マリーナまで行かないと、いいシチュエーションに持ち込めない。
クルージングになるとさ、ライフジャケット着なきゃいけねーじゃん? 船の片付けってくらいなら、ライフジャケット着なくてもいーんじゃね? (注:乗船するならライフジャケット着用です)
マリーナ近くの停留所でバスを降り、コンビニでコーヒーを2つ買った。もちろんオレの奢り。
キスの前に、豚骨臭をなんとかしたいから。
カップに入ったコーヒーを1つずつ持ってマリーナへ歩いて行く。
とん
ねぎまが肩でオレにわざとぶつかって来てオレのコーヒーを揺らす。
「こぼれねーし。蓋あるから」
とん
お返しに、ねぎまの肩にわざとぶつかる。
「うふっ。ありがとっ」
とん
またねぎまがぶつかってくる。
「どーいたしまして」
とん
「いっぱいいっぱい、ありがとっ」
とん
「いっぱい? コーヒーじゃなくて?」
「あー。ぶつかってくる用意してたのにー」
がきんちょのようなねぎま。かわいー。
どんっ
「はは」
不意打ちでぶつかってやった。
「きゃっ。あのね、スイカもことも、パンダのことも」
「ん? オレがしたかっただけ」
こて
ねぎまがオレの肩に頭をもたせかけた。
「大好きだよ」
「オレも」
よっしゃ。この調子なら行ける。
カップを持つ手にぐっと力が入った。
劣情は情熱の一種である。
遂にこれが真であることを証明するときが来た。
緊張混じりにマリーナの桟橋を歩いていくと、船から祖父が降りてきた。
このタイミングかよ⤵⤵
ヤバい。まだゴミ片付けてねーじゃん。怒られる。
「お、宗哲」
「お祖父ちゃん」
「こんばんは」
「今晩は。根岸さん」
ねぎまと祖父は面識がある。
「あ、今、片付けに来たんだって。ごめん。ゴミ置きっぱにしてて。お祖父ちゃんは釣り?」
「帰るとこ」
あ、嘘だ。
なぜなら祖父から魚の臭いがしない。本当はこれから夜釣りの予定だったのかも。
「オレら、ゴミ持って帰るから。まだ船にある?」
「いいって。宗哲が使え。コーヒーゆっくり飲んでけ。
根岸さん、また家にも遊びに来てください」
「ぜひ。ありがとうございます」
ぺこりとねぎまがコ-ヒーを守りながらお辞儀をした。
祖父は狭い桟橋ですれ違いざまにオレの耳元で言った。
「あんまり船を揺らすなよ」
変な想像するんじゃねーよ、エロジジイ。
なんか。気分、削がれた。
船で2人、コーヒータイム。
オレの視界に入ったのは、ドラッグストアのビニール袋にまとめられたゴミ、開封したてのティッシュボックス、そして、バウバースからちらりとはみ出た毛布。
祖父がおかしな想像をしたのも納得。
だけどさ、仮に万が一そーゆーことになったとしてもだ、絶対にオレは痕跡を残さねーから。やめて、変な想像。
声を大にして言いたい。周りが思ってる以上に、オレは身も心も潔癖なんだぁぁぁ。
不本意だけど。
カップに残ったコーヒーがすっかり冷めたとき、キャビンの中でキスした。
おわり




