勇者と魔王
不意に、スン、と魔王が鼻をひくつかせた。
スン、スン、とさらに臭いを確認する。
「……なんだ急に。犬みたいに」
「ああいや、ちっと嬉しくってな」
人差し指で鼻をおさえ、魔王は笑む。
嬉しいって……意味が分からないんだが。別に異臭なんてしないし。試しに真似して嗅いでみても、もう慣れて意識もしなくなってしまった、土と樹の匂い……森林の香りしかしない。
「レティとはさ、前に三度だけ会ったんだがよ」
魔王が唐突に話題を変える。
ラーメンの話とのギャップが酷いな。というか、結局愛称で呼ぶことにしたのか。
しかし、魔王から見たレティリエの話ね……興味がないと言ったら嘘だが。
彼女からは実は、その時の話はあまり聞いたことがない。ほんの概要くらいだ。目の前で姫さんを連れ去られたわけだし、完全に失敗談になるからな。あまり話したくないだろう。
たしか、魔王が瘴気をなんとかする方法を聞きに来て、取引としてロムタヒマを滅ぼさせた後、約束を反故にして深傷を負わせたんだったか。
「アイツ、最初は動けもしねぇでずっと固まったままで、二度目は話してる最中に気絶したんだぜ。ただのビビリな侍女だったよ」
「そりゃまあ、一般人の前に魔王が現れたらそうなるだろ」
「だよな」
魔王はウンウンと頷いて、それから懐かしそうに、宝物のような思い出を振り返る目をする。
「けれど、三度目でマジに殺されかけた。不意をうたれたとはいえ、あれはヤバかったぜ」
……声が超嬉しそうなんだけど、マゾかお前。
「なあリッド。お前さ、さっきレティをかばったろ?」
魔王がからかうように聞いてきて、その意味を理解するのに少し時間がかかった。……僕を攫ったときか。
たしかに僕はあのとき、三人よりも前に出た。エルフの里でもそうだったが、守備が僕の役目だ。急造とはいえごく自然なフォーメーション。
この男には通用しなかったが、それでも最善の動きだった。
「僕は足止めくらいしかできないからな。前に出るのは当然だろう?」
「あんまり甘やかしてるんじゃねぇよ。アイツは勇者だぞ」
僕の言葉を鼻で笑って、魔王は親指で自分の腹部を押す。
「おしとやかでお優しくて、人一倍ビビリなただの侍女だったくせに、大した剣の腕もないくせに、あの女は勇気を振り絞って魔王の腹を刺したんだ。人族のために、王国のために、姫様のために、ってガタガタ震えながらな。スゲぇだろ。なかなかできることじゃないぜ。正直惚れそうだった。ありゃいい女だ」
自分を殺そうとした相手に惚れそうになるとか、マジでマゾなのコイツ……?
「いいか、勇気を振り絞って前に踏み出せるヤツは、誰だってその時点で勇者だ。その中でもアイツの奥には、ピッカピカに輝く宝石が眠ってる。―――お前はレティをナメすぎなんだよ」
魔王の言葉に、バハンの山脈が脳裏に浮かんだ。
肥大化し瘴気に侵されたヒーリングスライムを凍らせ、僕の前に現れた少女を。
失礼します、だなんてわざわざ断わってから、僕の頬を叩いた彼女を。
あの場所で僕は、たしかにそれを思い知った。見くびっていた、と痛感した。
けれど……―――
『ま、惚れた女にいいカッコしたいってことなら、仕方ねーけどな』
なぜか日本語でそう言って、肩をすくめながら魔王は一歩下がる。
そして僕が何かを言い返すより早く、
ザンッ、と。僕と魔王の間を、氷結を纏う剣撃が通り抜けたのだ。
森が驚くようにざわめいた。僕が剣撃が放たれた方を振り向くのと、ほぼ同時だった。
「うあああああああああっ!」
剣撃を追って弾丸のように突撃してきた少女が、叫びながら僕の横を通り過ぎる。
振り上げた剣を、渾身の力で振り下ろす。
魔王へ。
「ヒュゥ、あの時とは雲泥だな」
横っ飛びに躱した魔王は、空振りの勢い余って樹に激突した少女を称賛する。
余裕は崩さず、冷静に、値踏みするように。
「魔力量が全然違う。扱い方もだいぶん慣れてる。持ってる剣もヤベぇ。……何より、心が戦う者になりつつある。順調に強くなってやがるな」
レティリエが激突したのは、止まるためだった。殺しきれない慣性を手放し、幹に肩からぶち当たって、樹を折りながら魔王を睨めつける。
人間離れした脚力で、再度の突撃。
「けれど、体術はまだまだだ」
その突撃に、魔王は構えを見せた。ガルラ戦でもやっていた天地上下の構え。ただしあんなわざとらしい大仰なモノではなく、もっと洗練された―――
勇者と魔王の姿が交差する、その攻防は刹那で。
レティリエの身体が空高くに跳ね上がった。
何をしたのかも見えなかったが、あの構えはたしか受けの型。
推測するならばおそらく、前に出した両手で突撃の勢いを捌いて、軌道を真上にズラした―――。
ちくしょう。コイツにとって格ゲーキャラのモーションなんて、本当にただのお遊びだ。だって技の一つ一つは似通っていて、ちょっとスタイルをマネするだけでできるのだから。
コイツの前世、格闘家かよ。
「ま、油断さえしなきゃこんなもんだ。奇襲するなら魔素感知は雑すぎたな。聖属性が匂う」
さっき鼻をひくつかせてたそれか。嗅覚で魔素を感じ取るのか。
転移魔法で居なくなった僕らを、レティリエは魔素感知で捜して追ってきた。距離はかなり離れていただろうから、驚くべき感知範囲だ。
かつてのサリストゥーヴェは森全部を見通したらしいが、それも霊穴の支配権あっての技だろう。己の魔力量だけで僕らを捜し出したのならまさしく勇者……いや、神の腕の力と呼ぶにふさわしい。
けれど、ダメだ。それが最悪だ。
この相手は強い。今の彼女では勝てない。
僕は懐から結晶を取り出す。
『結晶解凍―――』
「じゃ、またな。ラーメンのレシピよろしく」
『―――帰るのかよ!』
あまりのことに日本語でツッコんでいた。ていうか十年やるつもりなのかお前。
「そりゃまあ。俺は魔王、つまり王様だからして、言葉には責任を持たにゃならんわけでさ。……王女さん攫ったとき、レティには倒しに来るまで待ってるぞーって言ったんだよな。言ったからにはこんな偶然で遭ってもノーカンだ。魔王として相対はしねぇ」
肩をすくめて、魔王はそうのたまう。そんな話は初耳だけど、なんでいきなり律儀なこと言い始めてるんだお前。
あとそれ、今回は最初から一ミリもやる気無かったってことか。
「それに俺は、アイツに期待してる。だからまだ早い」
魔王の肌に黒い紋様が浮かび上がる。転移の前に見た、あの術式。
彼は空を仰いで―――空中で体勢を立て直し、剣を構えて降ってくるレティリエを見上げた。
大声で、言葉を投げかける。
「歴代で最も弱く、それ故に最も足掻くだろう勇者よ。これまで以上に多くの真実を見ろ。そしていつか教えてくれ。俺が、俺たちがここに居る意味を!」
……ふざ、けるな。
胸の奥の棘が燃えて暴れ回った。憤怒に顔が歪む。奥歯が軋む。
馬鹿げている。そこまで馬鹿かこの魔王。
僕らが来たせいで、レティリエは平和な日常から遠ざかった。
ただの侍女だったのに、勇者なんてものにさせられ、それで結果を出せなかったから国に捨てられて。
己の死すら受け入れるほどの絶望を味わって―――それを越えた今もまだ、この世の地獄のような道を歩もうとしている。
全部僕らのせいだというのに。
何も考えてないクソ野郎め、よりによってその彼女に問うとほざくか。
「玉座で待つ」
レティリエの落下速度に魔力放出が乗る。
引き絞るように剣を構え、真っ直ぐに魔王に迫る。
その剣撃は大地を抉り―――しかし僕らの敵の姿は、霞のように消失していた。




