戦の後の
地べたに座り、星空を見上げていた。ゆっくり、ゆっくりと雲が流れていくのを見ていた。
ぬるい風が泥と血に汚れた頬をくすぐる。木々が梢を揺らす音が届く。
仮にも星詠みの弟子が夜空を視界に収めているのに、天体の情報がまったく頭に入ってこない。星座や星の名前すら思い浮かばない。
前世では見たこともない美しい星辰を、呆けながらただ眺める。
汗が冷えて体温を奪っていって、そろそろ風邪ひきかねないな、なんて思ったりもしたが、なかなか立ち上がる気にはなれなかった。
周囲は死屍累々。ゴブリンの亡骸が折り重なるほどに大地を覆い、体臭と死臭と血の臭いで酷いことになっている。
身体はあちこちが痛むし、疲労困憊。処置して固定しないとヒーリングスライムも使えないので、左鎖骨は未だ折れたまま、簡単な止血しかしていない。
地上は本当に酷い惨状で。
けれど星はあんなにも綺麗で。
視線を巡らせれば、レティリエも僕と同じように座り込んでいる。
慣れない魔力放出をあれだけ使ったのだ。酷使した腕は痺れて感覚もないだろうし、精神的にもとっくに限界だっただろう。
それでも例の持病が発症していないあたり、魔術陣はちゃんと機能してくれたらしい。
彼女の後方では、モーヴォンが魔力枯渇で気絶していた。……気絶だよな? 外傷なさそうだし。
彼が倒れたのはいつごろだろう。ロードが絶命した後、恐怖心の範囲魔術でダメ押ししたのは、彼で間違いないだろうけど。
そして、僕のすぐ近くには……。
「なんとか終わったよ、婆さん」
まだ立てる気力がなかったので、ずりずりと座ったまま向き直ってから、僕は戦闘の終了を告げる。
最後のゴブリンが逃げてからもう結構な時間がたっていて、もしかしたら報告が遅いって文句つけてこないかな、なんて期待したけれど。
サリストゥーヴェは伏して倒れたまま、なんの反応もしなかった。
なんだか心の奥がもやっとする。上手く言語化できない感情だ。
自分の弱さに対する悔しさはあるが、悲しさはそこまでない。我ながら薄情なものだが、ほとんど他人だしな。
けれど言葉にできないのは頭が回ってないだけで、この感情がなんというものであるのか、僕はちゃんと知っている気がする。
なんとなく自分に向き合うような気分で、倒れたままの婆さんを眺める。
土を踏む音がした。軽く、それでいて堂々とした響き。
「あんたにお礼を言っておくわ。……サヴェ婆は満足して逝ったと思う」
背後からかけられた声は、エルフの少女のもの。
最後まで警戒を続けていたミルクスがやっと戻ってきて、僕の後ろに立っていた。
……そうか、礼なんて言われるんだな、などと。少しだけ居心地が悪くなる。
僕は知っていた。この戦いが、なんの意味もなかったことを。
戦利品は何も無く、消耗は激しく、戦死者まで出た。こんな馬鹿馬鹿しい戦いはない。
「満足なもんかよ。弔い戦で得られる慰みなんか、虚しいくらい小さいもんだ。失ったものの方が遙かに大きいのに」
自分の子のような里の皆を魔族に殺され、復讐に我を忘れて無謀な戦いにガキどもを巻き込み、勝利を見ることなく寿命が尽きた。
サリストゥーヴェの最期は、どう取り繕っても無念だったはずだ。世界を救った勇者の仲間の終わりがこれだなんて、あんまりだと嘆くしかない。
僕は大きく溜息を吐く。憂鬱だな。人ごとではないし。
「逃げれば良かった。無理やりにでも、それこそ婆さんを気絶させてでも。そうすりゃ、婆さんはこんなとこでくたばらずにすんだ」
「そしたら、まずあんたが殺されてたわね。逃げた先で」
「違いないな……」
あっさり認める。
婆さん、あれで完全にキレてただろうからな。たぶんそのときは瞬殺だった。骨が残るかも怪しい。
「……正直言えばね、申し訳ないと思ってるわ。あたし、魔族を舐めてたもの」
ミルクスの告白には、だろうな、という感想しかない。
あれだけの弓の腕があるなら、当然自信があっただろう。自分は戦える、という自負があったはずだ。
そして、それはあの大群を前にして砕けただろう。
「あんたたちは勇者パーティだから、ゴブリンくらい楽勝に勝てるはず、なんて思ってた。だから一緒に戦ってくれるだろう、って。勇者は人族の味方だから当然ともね」
「勇者がとんでもない貧乏くじだって分かったか?」
「あははっ。そうね、サヴェ婆がどれだけ凄い人だったのか、ちょっと分かったわ」
……まったく。これだから伝説の身内は。
そっちが悪いってのに、こっちの未熟を突きつけてくるんじゃねぇよ。
「あんたと、勇者様が生き残ってくれて良かった。こんな戦いに巻き込んで死なせてたら、それこそ天国のみんなに顔向けできなかったもの」
「恐さが分かったなら、もうこういう無謀はやめとけ。普通に死ぬぞ」
善意で忠告してやる。
まあこんなのを体験すれば誰にでも分かるだろうし、いまさら言う必要もないだろうが。
よっぽどの馬鹿じゃなきゃ、二度と同じような真似はすまい。
「そっくりそのままお返しするわ。あんたたぶん、無謀は初めてじゃないでしょ? あと学習能力とかないでしょう?」
「おう、よく分かったな。さてはお前超能力者だな?」
ミルクスは歩いて僕の横を通り過ぎ、倒れた老婆の隣に膝をつく。
彼女は少し躊躇してから、サヴェ婆さんの首筋に指でそっと触れた。
指を離したとき、その横顔は意外なほど穏やかで。
「聞いてたのよ」
「……聞いていた? 何を?」
「魔術。明かりと聞き耳は使えるって言ったわよね?」
ああ、そういえば確かに、なんか聞いた覚えあるぞ。
え、もしかして全部聞いてたの?
「隠れてるとき、少しでも詳しく状況が知りたくてね。ま、知ったところでそっちのためにできることなんてないって分かってたけど。……あんた、左腕やられた後でちょっとハイになってたでしょ? あれ普通に恐かったわよ。ドン引き」
「恥ずかしくて身悶えそうだが鎖骨が痛くて動けん。勘弁してくれ」
盗み聞きとか卑劣だろ。マジで体温上昇するんだが。
「でもあれ聞いて、あんたは今までもやらかしてきたんだろうなって分かったわ。戦うの、初めてじゃないんだろうな、って」
「そこまで戦闘経験が多いわけじゃないんだけどな」
むしろまだまだ新兵だろう。
僕なんてちょっと神聖王国の裏国家組織に喧嘩売ったり、屍竜のブレス受け止めたり、竜種信仰の戦士とガチンコしたり、勇者が受ける試練で竜人族と一騎打ちしたりしただけだ。……うん。よく全勝してきたよな、って一瞬思ったけど、なんか全部インチキしてきた気がするな。
「勇者の行く道なんて、ことごとくこの世の地獄に相違ない……ね。あんたもあの勇者様も、全然向いてそうにないのによくやるわ」
「お前マジやめろ恥ずかしい」
「あとあんた、サヴェ婆のファンだったのね」
「勘弁してくれ……」
僕は右手で額を押さえる。ツラい。とてもツラい。なんで命がけの戦いの後でこんな思いをしなければならないのか。
推しが婆さんだったとこまでは耐えた(むしろ生きてるとは思ってなかった)が、告別の言葉を横聞きされるとか酷くない?
「サヴェ婆もね、多分そういうのに向いてない人だった」
本人を前にして懐かしむように、彼女は伝説の素顔を語る。
「優しくて、あたたかくて、いつも笑ってる人。勇者の仲間で英雄だったなんて、忘れちゃうくらいに。だから、あれほど怒ってるのは……いいえ、憎悪に振り回されてるところは、見たことがなかった。想像もできなかったわ。けど―――」
死者の顔を覗き込むミルクスの表情は、どこか安堵しているようにすら見えて。
「今は、いつものサヴェ婆の顔してる」
そして。
エルフの少女は、僕へと振り向く。
「ねえ、サヴェ婆ともっと話したかった?」
「……まあ、な」
僕は素直に頷く。
サリストゥーヴェとはもっと、もっと話したかった。聞きたいことがあったし、聞いておかなければならないことがあったし、術士としても教えを請いたかった。
けれどこんな益の無い戦いのせいで、彼女は死んでしまった。
それが、僕には……―――
「惜しんでくれるのね」
ミルクスは手櫛で老婆の白髪を梳く。サリストゥーヴェの末期の表情は、笑っていた。
「惜しまれて死ぬなら、そういう人に看取られて笑って死ねたなら。勇者も、勇者の仲間もきっと、貧乏くじだけじゃないのよ」
……そういうもんかね、と。僕は老婆を見る。
彼女の歩んだ道は。僕らが行く道は。
決して、ただの地獄なだけではないのかと。
本当かと聞いてみたくとも、彼女にもう息はない。死者は喋らないから、推測するしかない。けれど実際に世界を救った人の、千年以上を生きたこの人の精神を推測するのは、僕には荷が勝ちすぎてる。
しかたない。いつか僕が死んだら、今度こそあの世に逝ったら、そのときに聞いてみよう。
僕はまだ死ねないが、命がある保証なんてない旅だ。死んだ後の楽しみくらいは持ってていいだろうさ。
さすがにもう、転生なんてしないだろうしな。
僕の腰くらいの背丈のずんぐりした泥人形が、せっせとゴブリンの死体を運んでいた。
全部で十体。動きは鈍いし単純な行動しかできないし、泥だから脆いが、力はある。ゴブリンくらいなら二体纏めて運んでしまうくらいに。
「なあモーヴォン。ゴーレムってエルフ魔術由来だったか?」
僕は真剣な表情で折れた鎖骨の固定処置をしてくれてる少年へと、違うと知ってる問いを投げる。
太陽が高く昇っている。時刻はもう昼過ぎ。暖かな日差しと、鳥の鳴く声と、ゴブリンの死臭が満ちるさわやかとはほど遠い陽気だ。
あれから僕らは大樹の内の広間にサヴェ婆さんを安置し、そのまま泥のように寝てしまった。
起きたのは僕が最後で、目をこすりながら外に出たらモーヴォンが泥人形を捏ねて、戦いの後始末をしていたのである。
聞けば、レティリエとミルクスは食事の準備で、川に綺麗な水を汲みに行ったらしい。
まあこの湖の水、死体が浮いてて使いたくないからな。周辺には間違いなく生き残りのゴブリンがうろついているだろうが、大群はもうとっくにバラバラになってるだろう。あの二人なら大丈夫だ。
「ゴーレムは付与魔術という人間の魔術由来だと聞いていますが、詳しくは知りません。でも、エルフ魔術とはかすりもしませんよ」
モーヴォンの痛み止めの魔術は完璧で、弄くられている鎖骨はまったく痛覚を訴えてこない。それが逆に気持ち悪くてうげーってなるこの感じも、どうにかしてくれないかな……。
「じゃあなんで使えるんだ?」
「いえ、そもそも自分は使えません。あれは種を埋め込んで起動してるだけで。サヴェ婆ちゃんはいろんな魔術を研究してましたから、遺品から使えるものを引っ張り出してきたわけでして、彼らも二日もすれば崩れ去るでしょう」
ま、瘴気の研究までしてた術士なら、そうとう幅広くやってたんだろう。
しかし、香水の魔女の研究室があるのか。そりゃあるよな。
「遺品は他にもあるのか?」
「検分しますか? なんでも進呈しますよ。そのくらいのお礼しかできませんし」
「後でな」
話が分かる相手で何よりだ。まあここに置いておいても腐らせるだけだしな。
金目の物か、素材になりそうなものか……あるいはもっと欲を出して、手記の類か。
すぐにでも検めたいところだが、さすがに部屋主の墓づくりが先だろう。―――恥ずかしいポエム帳が出てきても這い出てこられないよう、婆さんの亡骸は地中深くに埋めておく必要がある。
モーヴォンが樫の小枝を取り出して僕の鎖骨にあてがい、呪文を唱えた。
魔術が発動し枝が急激に成長して、左肩から首回りを固定するように縛り付ける。
すごいな、ギプスだこれ。完璧じゃん。
「これはエルフ魔術です。不便でしょうが、骨がくっつくまで辛抱してくださいね」
「ああ、一日くらいな」
僕はヒーリングスライムを起動し、枝の隙間へ潜り込ませる。
「それ、生命力を分けるんですよね。人間の魔術は面白い。そう使うこともできる、というよりは、それが本来の使い方ですか」
「錬金術だよ。僕自身は魔術を使えない」
「ははぁ、なるほど。どうりで効率が悪い」
グサッとくるなぁ。しかも悪気なさそうだ。
術士なんてだいたいこういうものだけど。
「けれど、ゲイルズさんの魔力はささいな効率など意に介さない。明らかに人族が自力で得られる容量を超えています。その魔力、どこで手に入れました?」
「バハンでな。竜の女王に貰ったんだ」
「竜の女王? 竜に会ったことがあるんですか? 詳しく聞いていいですか?」
身を乗り出してくるエルフの少年。うん、この年齢の男なら、竜なんて聞いたら我慢できないよな。分かる。
けれど、順序は守ってもらおう。
「話すのはいいが、その前にこっちも聞きたいことがある」
「はい? なんでしょう」
「この村について、まだ僕らに話してないことがあるだろう?」
あー、とモーヴォンは気まずそうに人差し指で頬を掻く。やっぱか。
視界の端に少女二人が映る。二人は僕らに気づいたようで、水の入った鍋を抱えながらも小走りになった。こぼさないように駆けてくる姿がちょっと可愛いな。
僕は右手で髪を掻き上げながら、モーヴォンに宣告する。
「あの二人も交えて、朝メシを食べながらでいいだろ。正直に答えるように」
「まあ、隠す気はないですよ」




