若芽は蒼天を仰ぐ
「ゴブリンロードぉ?」
戦いが始まる前、あの大樹の内の広間で。
僕の話を聞いたミルクスは疑わしげに、形のいい唇を歪めた。
「ああ。一際デカいゴブリンの統率者だ。必ずいる」
「なんで分かるのよ。見てないんでしょ?」
「いなければおかしいのさ。通常のゴブリンの群れは数匹からせいぜい三十匹くらいだ。ヤツらが社会性を保てるのはその数までが限界なんだ、と言われてる。しかもホブゴブリンも何匹か見かけたからな。普通ならあんな群れ、一日たたずにボス気取りのホブ同士が勝手に仲間割れして、小さい群れに分散してるはずだよ」
ゴブリンの生態はいわば魔族学の入門である。
最も数の多く、魔族にしては戦闘能力も低いため研究する者が多い。専門家までいるほどだ。
彼らの論文を紐解いて曰く―――ゴブリンの社会形態は奥深く、おそらく彼らの魔族としての真価はそこにこそある。
社会と言っても最悪なものだ。
弱者は虐げられ、強者は驕る。驕った強者を貶めるためだけに弱者は結託し、新たな強者は何も学ばず驕り始める。力関係の上位を決める殺し合いや仲間割れなど珍しくなく、最下層のさらに下に決まってしまった者は食い物にもありつけない。
そんなだから分散や逃亡が繰り返され、繁殖能力の高さに比べて大きな群れになりにくく、その代わりに広く分布する。……つまり、群れを作る生き物のくせに、集団で生きるのが下手なのだ。
ただし、ゴブリンは築いたコミュニティが大きくなればなるほど、特異な個体が出現しやすいともされている。……その理由について、ある研究者はこう記した。
それは彼らの本質が個ではなく群であり、魔族としての魔力はゴブリン社会という群体の内で渦巻いて、中にいる個体に影響を及ぼすのだ、と。
これは検証もできない推測だが、おそらく……魔王によって纏めて連れてこられ、ここに置いていかれたゴブリンどもは森の方々に散ったが、エルフに追い立てられてもう一度合流したのだろう。
そうして一時的に大きなコミュニティになってしまったゴブリン社会は、かなりの混乱があったはずだ。収拾のつかないほどの有様にまでなったのではないか。
だから、彼らは統率者を必要とし……渦巻く魔力はゴブリンロードという解を示した。
……うん、こんな与太話してられないな。時間ないし。最後の推測間違ってたら赤っ恥だし。
「さっき婆さんも言っただろ? ヤツらはバカだから統率がとれないって。けどロードがいるなら話は別だ。ゴブリン種を支配する魔力持ってるからな。あれだけの大群がちゃんと一方向に進んでいる、という点だけで、もう完全にロードがいるって言ってるようなものなんだ」
僕は端的にして説明を急ぐ。悠長はしてられない。できればすぐにでも行動を起こしたいくらいだ。
だが、ミルクスの説得も重要事項である。
「それで、木の上に隠れてそいつ一匹狙撃しろって? それのどこが要の役なのよ。馬鹿にしてるの?」
「要さ。君が潜むのは最前線のさらに向こう。ひとたび見つかったら一巻の終わりの、敵陣の真っ只中だ」
ミルクスの目が細くなる。気の強さはそのままに、表情が真剣味を増す。
「それに、ただ見つけて殺せばいいってものでもない。タイミングが大事だ。できればロードに注目が集まってる時がいい」
「へぇ、そんな注文までつけるのね。具体的にはどんな時?」
「ヤツは必ず最後尾にいる。ゴブリンは残虐で好戦的だが、一度恐怖を感じればすぐ逃げ出す臆病者でもある。数が減って旗色が少しでも変われば、必ず逃亡しようとする個体が出てくるはずだ。……そういう者を捕まえて、縊り殺して、見せしめにするために最後尾で退路を塞いでるのさ」
その光景を想像したのか、エルフの少女の表情が一瞬だけ脅えに揺らぐ。……それを見逃さなかった僕は、見なかったことにした。
できないと言うのなら、この話はナシだ。成人前の少女に恐ろしい無茶をやらせようとしているのは、僕だって分かっている。恐怖は当然だし、それに呑まれるなと無理に送り出すのは酷な話だ。
そのときは彼女には後方の一番安全な場所で、援護に徹してもらう。敵の数は多く、矢には限りがあるが、それくらいしかやらせることがない。
……けれど、逃げる選択肢があったにもかかわらず、戦うと言ったのならば。
「一番危険な場所で、あたしにしかできないことをやれってことね。……いいわ、気に入った。特に大将首をとれるってところがね。乗ってあげるわよ、その作戦に」
ふん、と強がって。ミルクスは若葉色の髪をかき上げてから、獣の毛皮を目深に被り直す。
僕は大きく頷いた。これで準備に移れる。
「ならすぐに行ってくれ。ヤツらが来る前に隠れないと意味がない。それと……これだけは約束してほしい。始まったら、狙撃の機会が訪れるまでは決して動くな」
「ハン。そんなの、言われるまでも……」
「こちらで誰が死んでも、だ」
「…………」
そうして、今。
ゴブリンロードは咆哮をもって戦場の全ての注目を浴び、逃亡を謀った同朋の頸椎を破壊して、仲間の退路を断った。
敵も味方も、誰もが目を奪われて息を飲む、そのまたとない好機に。
樹上から飛来した矢が、ゴブリンロードの太い首を貫く。
シン、と嘘のように周囲が静まった。耳がおかしくなったのか、と疑うほどの静寂。
ぐらり、と悲鳴すら無く、緑肌の巨体が傾ぐ。
「よく我慢した」
僕は掛け値なしの称賛を口にする。
感情を激しく表に出すタイプのミルクスにとって、こういった潜伏は相性が悪いと思っていた。最悪、機を待ちきれない可能性すら考えていた。
眼下を蠢くおぞましい数に寒気を覚えながら、破れかかるこちらの最前線への焦燥に歯を食いしばり、彼女が慕うサヴェ婆さんの死にすら耐えて、ミルクスは僕が与えた役目を遂行した。
驚嘆すべき胆力。あの華奢な少女の見た目にして、鋼のごとき戦士の精神力だ。敬服するしかない。
この光景を、僕の背後で伏して死した老婆に見せたかった。安心させてやりたかった。自慢させてやりたかった。
サリストゥーヴェ。貴女がいなくとも、エルフはきっと……―――
咆哮が、静寂をぶち破る。
驚愕に目をこらす。星明かりの下、僕はそれを見る。
ゴブリンロードが倒れていない。傾ぎはしたが、踏みとどまっている。
殺せてない……!
エルフの、しかも成人前の少女の力だ。弓もあまり威力の出ない小弓。
そして相手はゴブリンロード。たとえ急所に当たっても、その生命力は獣など比ではない。
最悪だ。最大の好機を仕損じた。
マズい、僕の采配ミスだ。ゴブリンを一番舐めてたのは僕だった。このままでは……
ゴブリンロードが首に刺さる矢を掴み、力任せに引き抜いた。血が噴き出るが、動脈を傷つけた量ではない。致命傷にはなっていない。
怒りに猛り、咆哮し、ロードは振り向いて指をさす。配下たる軍勢に標的を示す。
矢が飛んできた方角を。
ミルクスが潜む樹上を。
ヤバい。ヤバいヤバいマズい。
助けに行かなければ、彼女は死ぬ。けれどそこは敵陣の真っ只中。渦中の中心だ。距離が離れすぎている。とてもじゃないが間に合わない。間に合う気がしない。
僕は駆け出す。
脳裏に浮かんだ最悪の光景を否定するために。まだ何か方策があるはずだと、縋るように。
それは、ダメだ、と。
けれど。
ゴブリンロードが己を見るのを待っていたかのように、星の光を受けて、闇夜に一筋の軌跡が瞬いた。
それは放たれた矢が描いた、仇敵の命を討ち取る死の線。
恐ろしいほど正確に。
狙い違うことなく、矢は真っ直ぐにゴブリンロードの右眼球を射貫き、絶叫と共に緑肌の巨躯を仰け反らせ―――
―――そしてさらに、もう一矢。
つがえ方によって意図的に曲線を描いたその一射は、あろうことか右眼球を貫いている矢のはずに命中し、矢柄を縦に裂きながらさらに奥へ押し込んだ。
大きく、びくりと。ゴブリンロードの身体が痙攣する。
「継ぎ矢……実戦で動く敵に、変化射ちで決めるか……」
見事と言う他にない離れ技に、僕は足も止めて魅入っていた。……そんな場合ではないことなど分かってはいたが、感動すら覚えていた。
他者を殺す技術を、こうも美しく扱うのか、と。
「さすが、エルフの射手だ……」
脱帽の気分のまま、口から漏らしたのは心底からの讃辞。
ゴブリンロードが、地に崩れ落ちる。




