古木は倒れ、
濃い瘴気属性の魔素は、それだけで人族の身体を蝕む。そのため集中的な調査が難しく、瘴気はあまり研究の進んでいない分野である。
……ただしもちろん、瘴気について誰も研究しなかったわけではない。
むしろ多くの者が挑戦した。古今、瘴気は数えきれぬほどの術士が挑み、研究の対象にしてきた題材なのである。
つまりは、それだけ魅力的なテーマなのだ。
理由は簡単。瘴気は、強い魔素、だから。
在るだけで周囲に影響を及ぼす。
亡骸を不死族として動かす。
強力な魔族ほど濃い瘴気を纏っている。
なんと怖ろしく、素晴らしい力か。こんなもの、すぐさま解明すべきである。手にするべきである。
誰よりも先んじて。
そうして過去、多くの術士が命を落とし、発狂し、行方知れずとなった。不死族に成り果てた者の記録もある。
得られたデータは、複合属性であるらしいこと。
よって、様々な条件下でその性質が変化すること。
ただし瘴気属性の魔素である、ということは変わらないこと。即ち条件が戻れば性質も戻るということ。
そして、人族が関わればただでは済まぬということ。
解明は急務。しかし覗いた目は腐れ落ち、伸ばした手は捻れ曲がる。
やがて術士たちは誰もが知る暗黙の規則として、瘴気の単独研究を自ら禁じた。破る者は忌み者として告発されるほどに。
そうして、現在―――人族はいまだ、瘴気属性の魔素を扱う技術を獲得していない。
けれど。
伝説の魔女に。千年以上生きるエルフの術士に。他ならぬサリストゥーヴェに。
境界の森でずっと、それと向き合ってきた研究者に。
そんな事情、関係あるはずがない―――
「―――婆さん! 後で聞きたいことが山ほどある!」
僕は叫ぶ。凝縮された黒の塊が、瘴気の砲弾が、敵勢のど真ん中に着弾した。
凄まじい衝撃が駆け抜ける。
「そいつは諦めな」
返答は無情だった。
着弾地点のゴブリンが跡形も残らず飲み込まれる。その周囲は微塵となって分解された。
衝撃は暗色の刃となって縦横に肉を刻み、趨る黒の稲妻は魂を刈り取るがごとく触れた者を絶命至らしめ、余波ですら歪みと腐敗をまき散らす旋風と化す。
狂躁は狂奔に。ここに戦場は崩壊寸前と相成った。
ゴブリンどもは混乱し、逃げ惑い、もはや戦う意思を持って向かってくる者はない。
あと一息。あと一押し。それが叶えば、ヤツらは戦場からの敗走を全力で選ぶだろう。
けれど、ゲボ、と。血を吐く音が聞こえて。
魔女は僕の背後で、激しく咳き込み膝をつく。
「―――……術式の反動か?」
僕は振り向かなかった。
いまだ肩に置かれたままの杖先が、頑なにそれを拒否していた。
戦の最中であると。
前を向いていろと。
かつての勇者の仲間だった彼女に、叱咤されている。
「いいや、寿命さね」
ヒゥヒゥと掠れた息をしながら、老婆の声は笑っていた。
「ここまでの歳になると、魂から魔素がほとんど湧いてくれないんだねぇ。実は立って歩くことすら強がりさ。仕方がないから、残り少ない余命にまで手ぇ出しちまったよ。……アテにしてた霊脈との繋がりも渡しちまったしね」
ああ、だからか。
だから彼女は、僕が持つ女王からの賜り物と、僕のスライムを使用していたのだ。彼女自身には、もはや消費できるリソースがほとんど無かったから。
「なんだよ。言ってくれりゃ、支配権は取り上げなかったかもしれないのに」
「ハン。お前さん、言ったじゃないか。私にはもう資格が無いって。その通りだよ。今の私じゃ、森の協力は得られない。ゴブリンどもを前に愕然として、嘆きながら死ぬ絵が見えたね」
そうか。じゃあ、仕方ないな。……ああ、仕方がない。
これが最良だったし、これ以上は望めなかった。
ここは戦場。それも最も死に近い最前線。
最善を尽くしてたところで、どうしようもないことはあるのだろう。
「悪い、婆さん」
落ち度はたった一つ。
あれだけの可能性を見せつけられたのだ。
ここまでの未熟を突きつけられたのだ。
おこがましいと笑われようと、胸に刻もう。
僕が弱かったからだ、と。
「なんてぇ顔だい。湿っぽいのは嫌いなんだ。別れはちゃんと、笑顔でしな」
あっはっは、と老婆は笑って。それから血と咳を吐き出して。
盲目のくせに、表情にまで注文つけやがって。
けど。ああ、そうだよな。らしくはなかったさ。
僕は悪党なんだから。
今日会ったばかりの他人の亡骸くらい、あっさりと踏み越えなければ。
弱いままで、いたくないから。
「―――ハッ。こんな地獄のような戦場で、クソッタレな馬鹿騒ぎで、あろうことか暴れ疲れて寿命で死ぬなんざ、なんてゴキゲンな婆さんだ!」
だから、僕は、無理やりにも笑わなければ。
「じゃあな。さらば、おさらばだサリストゥーヴェ! 香水の小瓶と共に描かれる術士。麗しき香気の錬成者―――最初の錬金術師! 貴女は僕の憧れだった!」
もはや返ってくる言葉は無く、肩に置かれていた杖もずり落ちて。
戦場を揺るがすような咆哮が轟く。
ゴブリンどもの狂奔がぴたっと止まる。びくりと、恐怖の震えに竦む。
大音量の発生源は、魔族の群勢の遙か後方。最後尾。
それは散見されるホブゴブリンよりなお大きい。小鬼、などとはもはや呼べぬ、巨躯の緑肌人鬼。
僕は一目でその正体を理解する。
アレこそはゴブリンの大群を統べる者。
多様性を獲得したゴブリン種においても稀少。特に大きな群れにのみ確認される統率者。
並外れて大きく、力剛く、残忍な暴君。
ゴブリンロード。
「ああ……いるだろうさ。ここまでの群勢だ。いなきゃおかしい」
睨みつける。距離が遠く、それくらいしかできない。レティリエの剣撃もおそらく有効射程範囲外だろう。
戦場の視線の全てを一身に受け、そいつは右手に掴んだモノを高く掲げる。
それは一匹のゴブリンだった。首を後ろから掴まれ、手足をバタバタと動かし必死に暴れている。
統率者はその同朋の姿を晒すように見せつけ、
ごぎり、とその首をへし折った。
緑肌の矮躯が痙攣し、血の泡を吐きながら絶命する。
ゴブリンどもが震え上がりながら、自分たちの君主を見上げる。
―――かくして。敵方の雑兵どもは、さらなる恐怖に退路を断たれた。
進め。でなければ殺す。―――暴君は怒りに吼える。
その声には統率者としての魔力が宿り、先ほどの光景も相まって戦場のゴブリン種すべてに恐怖の屈従を余儀なくさせる。
残虐非道であるとか、誹ることすら馬鹿馬鹿しい。これこそが邪悪なる魔族の在り方。ゴブリンロードの統率。
使い捨ての駒ごときが、命などを惜しんで止まるな。……そう、彼の王は命令を下す。
暗君の一喝を得て、大群は大軍へ。
嗜虐と高揚のままに突撃するだけだった悪鬼どもは、次にこちらを向いた時、死を賭して行進する玉砕の兵となるだろう。
先ほどまでとは比にならぬほど苛烈に。文字通り、必死に向かってくる。
そうなれば……―――
「殺れ、ミルクス」
僕は静かに呟く。
風が凪いだ戦場の、誰もが注目する中で。
敵方の総大将の首を、飛来した矢が射貫いた。




