兆し
コツン、と杖をついて。不自由な足を引きずって。
首の後ろで纏めた白髪を夜風になびかせ、深い皺の刻まれた口の端を呆れに歪めて。
包帯を巻いた盲目を、僕に向けて。
香水の魔女サリストゥーヴェは、当たり前のように戦場に立つ。
「婆さん何しに来た! ここは―――」
僕が助けられたのも忘れて悲鳴を上げると、サヴェ婆さんは何を言っているんだとばかりに顎を上げて見下ろした。
「泳いでくるヤツは私らの管轄だろう? この歳になると、魔素感知の精度もちょっと怪しくなってきてねぇ。近寄らないとお前さんを巻き込んじまいそうだったのさ。昔はこの森全部だって見渡せたのに、難儀なものさね」
「その盲目、ファッションじゃないか!」
森全部とかどんな規格外だ。ていうか、視力が無いからってゾンビみたいな真似してんじゃねぇよ。
「やれることが少ないから勢いを止められないのさ」
その言葉は、痛いほどに僕らの現状を表していて。
「技の数がないから緩急もつけられないし、意表も突けない。つまり翻弄ができない。アイツらは数の力押しだが、お前さんたちは魔力量の力押しだ。魔族相手に単純な力比べでしか戦えないなんて、ゴブリンとどっちがバカなのかって話さね。まったく、二人揃って不器用にもほどがある。これじゃフィロークの方がいくらかマシだよ。今代は先行き不安だねぇ」
言いざまに、イラッとした。
けれど指摘通りだ。反論できない。何より、香水の魔女の知見に勝てるはずがない。
歯がみしながら、手動操作を再開する。
「悪かったな伝説の魔術師。僕は先天的に体内魔力を自分で扱えない。魔術も使えないんだ。……だから、僕の魔力を喰らって動く人工生命を開発したんだよ」
僕の悔しまぎれに、エルフの老婆は、はぁ、とこれみよがしに溜息を吐く。
「発想が貧困だねぇ」
「もっぺん言ってみろババァ!」
右手は手動操作で手一杯なので、だらんと垂らした左手で中指をおっ立てる。折られた鎖骨が痛んだが知ったことか。この婆さん、僕がどれだけの努力でコイツ造ったか分かってんのかよファック!
「声を聞くんだよ」
トン、と。
僕の右肩に、サリストゥーヴェは杖を軽く置いた。
「お前さんに、エルフ魔術の奥義を教えてやろう」
魔力が、伝う。
杖から右腕へ。右腕からスライムへ。
道が通る。
この魔女、勝手に他人のオドを掌握しやが―――
「魔素は魂より生じ、魂は魔素より産まれる。魔素と魂は根源で繋がるもの。魔素と魂は同義なのさ。ならば魔素には、それそのものに意思がある、と考えるのが自然さね」
―――待て。待ってくれ。それは全然納得できない。いろいろとすっ飛ばしている。頭がイカレてるのかと疑うほどだ。
だって、魔素に……この世界に満ちる魔力の源のすべてに、意思があるだなんて。
突拍子がなさ過ぎて震えが走る。
「そう、魔素には意思がある。だから……了承を得るのさ。対象を深く理解して、友人のように大切にして、同朋として協力してもらう。エルフが森にそうするように」
脳裏に浮かんだのは、あの空間魔術。魔術学院ですら見ることのできない魔法現象。
グニャリ、とスライムが揺れた。
魔力が吸われる。手動操作でスライムの中に張り巡らせた疑似神経群が励起する。
「そうすれば術式はより強固に根付き、魔力はしなやかに伸びて、可能性は無限に広がる。それがエルフ魔術の基礎にして奥義とされるものだ。……なんだいお前さん。この子らにずいぶん懐かれてるんじゃないか。性根が素直な証拠だよ。ヒネたふりなんてして、恥ずかしい男だね」
皮肉を言いつつも、サリストゥーヴェが柔らかく笑って。
スライムが蠢く。……それが喜んだように見えたのは、気のせいだったのだろう。
ドザザザザ、と土砂崩れのような音がした。
スライムに取り込まれて浮かんでいた者、体の一部を突っ込んで動けなくなった者、それらを足蹴にして登っていた者までもが、自由落下により地に落ちたのだ。
僕は驚きに目を見張る。
スライムは確かに、ここに在る。それは間違いない。だが手動操作で突っ込んだ手から、粘体の感覚が消えていた。
粘性を落とした……のではない。そんな程度の話ではない。物理的な抵抗が完全に消えている―――まさか肉体の非実体化? 一時的に魔力のみの存在と化し、とりつくゴブリンたちを落下させた?
「あんな小っこい結晶からこんなに大きくなるんなら、その存在のほとんどを魔素で構築しているのは明らかさね。この程度のことはできて当然だよ」
サリストゥーヴェは僕の右腕を介してスライムを操る。スライムが僕の魔力を喰らう。……このババァ、勝手に僕の魔力を使ってやがる!
色を取り戻すかのごとく、スライムが再び実体を得る。
ゴブリンどもはわけの分からぬまま、粘体の内に捕らわれる。捕縛完了だ。新しく築かれかけていた肉体のハシゴも全て沈んだ。
「けれど少しでも不可思議なことをやってのければ、相手は何が起きたか考えようとするもんさ。いかに相手が低能でもね。そしてその瞬間だけは、少しだけ動きが鈍る」
見れば、ゴブリンの後続が戸惑って止まっていた。
渋滞して、見えていなかったらしい後ろの方が止まりきれず押して、湖に落下しているのもいる。ギャアギャアと喚いている。
「そこを叩く」
婆さんが操って、僕の魔力が消費される。
スライムから無数の触手が伸びた。
僕が手動操作した時とは速度が違う。……だけではない。触手の先端に硬質の輝きがある。
あれはまさか……まさか、僕の懐にある結晶と同質のもの? ―――体積を変えぬまま、一部分を結晶化した?
結晶は刃の形を成し、即席の槍となって立ち止まったゴブリンどもに降り注ぐ。
足止めにはなっても、瘴気に侵されでもしない限り相手を傷つけないと思っていたヒーリングスライムが、凶悪な兵器となって群勢を蹴散らしていく。
ゴブリンどもの前線が、崩れる。
僕は唖然とするしかない。
なんだこれは。サリストゥーヴェはほとんど自身の魔力を使用していない。ならば、これは僕一人でも可能だったはずで……。
……いや。できたはずがない。さすがにそれはない。魔力を使えない僕には、ここまで細やかで素早い操縦はできない。これはサリストゥーヴェの技量があって初めて成せる技だ。そこは間違いない。
けれど。けれど、なぜだ。
なぜ僕は、こんな可能性を見逃していた?
「先入観だろうさ。このスライムに対してじゃないよ。お前さんは自分で自分を縛っている。自分を卑下しすぎて、劣等感でがんじ絡めになっているんさね。自分なんかに大したことなどできるはずがない、という先入観が、お前さんから視野を奪っていた。……けれど、そろそろ抜け出さないとねぇ」
今日会ったばかりのくせに、分かったような口を……!
「さあ、まだまだこんなもんじゃないよ。ポンペ、見本を見せてやりな」
「……は?」
なんで今、あの妖精の名前?
「わーい、ばれてたー」
あの間延びした声がして視線を向ければ、僕の懐からするりとポンペが飛び出した。
その腕に一つ、結晶を抱えて。
「テメッ!」
「いっくよー」
ポンペが僕の左側に回る。スライムに右手を突っ込んでいる僕は身動きがとれない。見ているしかない。
折れた鎖骨に吐き気をもよおす痛みが走った。思わずうめき、涙目になる。ポンペが僕の動かない左手に結晶を押し当てたのだ。
『結晶解凍・反転展開・ドレインスライム。オーバーリミットーぅ!』
コイツ、発音どころか声真似まで―――!
魔力が喰われる。合い言葉を受けたヒーリングスライムが起動し、一気に肥大化する。
そうか妖精。イタズラ好きのトリックスター。声色模倣の魔法!
クッソやられた。たしかにヒーリングスライムは僕じゃなくても使えるが……!
だがポンペの奇行はそれだけで終わらない。
「いやっほぅきょうだい、たのしんでるかいー? どうせぼくらはこっちとあっちをうつろうもの。あってないようなそんざいさ。おまつりくらいはぜんりょくでいこうぜー!」
盗人の蝶羽小人は新しいスライムの周りを踊るように飛び回ってから、両手を挙げて人差し指を天に向けてクルリとターン。
そして。
ドプン、と。自ら粘体に潜ったのだ。
「ちょ、お前それ……やめろ、溶けるぞ!」
思わず悲鳴に近い忠告。
反転したドレインスライムは魔力を吸い取る。魔素で存在構築している妖精がそんなものに入ったら、魔力を奪われ消滅してしまう。
「おうともー。さあ、いこうぜきょうだいー」
けれど僕の言葉を聞いても、ポンペは藻掻こうともしなかった。
蝶によく似た羽をピンと広げて、両手両足も大の字に広げて。
そのまま妖精は溶けて、消えた。
消えてしまった。
「いぃーやっほーぅ!」
スライムから頭が生えた。腕が生えて、足が生えて、蝶の羽が生える。
色合いは淡青半透明スライムのままだが、その姿はまさしく巨大化したポンペで―――待てい。
「む……無茶苦茶だな! むっちゃくちゃだなお前どうなってるそれっ?」
「おほめにあずかりきょうえつしごくー」
「褒めてねぇよ!」
ああ、なんてことだ。
僕の……僕のスライムがずいぶんファンシーなフォルムになっておられる!
「うおおーりゃー!」
そして飛んだぁっ!
巨大スライムポンペが蝶羽を羽ばたかせ、夜空に―――どうやって飛んだそれマジでありえねぇ!
「あれはちょいと私も、どうしてるのか分からないねぇ……」
伝説のエルフですら口元を歪めて戸惑う飛翔で、ポンペは敵陣のまっただ中へ降り立つ。
大きく両腕を広げて、天を仰ぎ見るようなポーズでゆっくりと……風船みたいに膨らんで。
破裂した。
もはや何が起こってるのか分からない。完全に理解不能で、僕は口を半開きにして眉間に皺を寄せ、ただただその光景を眺める。
破裂によってスライムは細かい断片となり、ボトボトと広範囲に降り注ぐ。それらは蛭のように蠢いてゴブリンどもに絡みつき、
足の自由を奪って転倒させ、
顔に張り付いて窒息させ、
何匹かをくっつけて結晶化し縛り付ける。
「分裂と……複数体の同時操作……いや、あれは自動操縦、か?」
ゴブリンどもは阿鼻叫喚だ。気持ちは分かるし、なんなら僕も混ざりたい。理解を放り投げてバカみたいに走り回りたい。なんかヤツらが無性に羨ましい。
あっはっは、と。サリストゥーヴェは快活に笑う。うーわ婆さん超楽しそう。
「いやぁ、やりたい放題だねぇ。懐かしいねぇ。若いころを思い出すってもんだよ」
「わ……分かったお前ら。二人して、この期に及んで遊んでやがるな? しかも人のスライムと魔力で!」
「ははっ、いいじゃぁないか。この子たちは妖精だ。妖精と戯れるなら、遊び気分くらいでちょうどいい」
妖精……妖精だって? ヒーリングスライムが?
僕が造った人工生命。命の消費を前提とした破綻した魔法生物。それが……妖精?
ああでも。そうだ。
ポンペは、あの蝶羽小人はさっき、ヒーリングスライムになんと呼びかけていた?
きょうだい、と呼んでいなかったか?
欠けていた何かが。理解できていなかった何かが。パズルのピースが。
ガチリと、はまったような気が―――
「さあ、千年ぶりの共闘なんだ! ケチケチしてないでもっと魔力を寄越しな、バグニスローリディオ!」
伝説の魔女が、意味不明な呼びかけを発する。聞いたこともない名。
それは欠けた歴史。記されなかった碑文。語られない英雄譚。
そうして。
まるで溜息を吐くような間があって……僕の内から、凄まじい魔力が湧き上がった。―――マジか。女王から下賜された魔力源が呼応しやがった!
「おい……そんな名前は知らな―――」
「伝えなかったからねぇ!」
千年前の勇者の仲間。
エルフ魔術の始祖。
伝説そのもの。
香水の魔女、サリストゥーヴェ。
知っていた。分かっていた。けれど改めて実感する。
この女、本気でホンモノだ。
「この魔術をよく見ておきな、今代の。境界の森に陣取る魔術師が、コイツを研究してなかったら嘘ってもんさね」
不敵に笑んだその言葉にゾクリとして、己が腕を通してスライムへ伝わる術式に背筋が凍った。
ゴブリンの魔力を吸って濁り始めていた黒が、粘体の内で渦巻くように。
集まっていく。凝縮していく。
僕はもはや、頬を引きつらせることしかできない。
「婆さんそれは……それは、人族の魔術の枠を超えてるぞ」
「そんなだから発想が貧困だって言ってるんだよ。まったく」
スライムが大口を開けるように蠢き。
バチバチと黒い稲妻を纏う瘴気の塊を、大砲のように撃ち出した。




