勇者の行く道など、ことごとく
ゴギン、と。
錆びた小剣を叩きつけられ、左鎖骨の折れる音が肉を伝わり耳朶へ届いた。
「リッドさん!」
レティリエの悲鳴が聞こえる。
おかげで歯を食いしばれた。
脳天に突き抜けた痛みを耐え、倒れそうになるのを堪える。
剣の一撃だが、斬られたのではない。力任せのなまくらなど棍棒と同じだ。
血は出たが、せいぜい肉に食い込んで裂けただけ。
骨は折れたが、たかが左手一本使えなくなった程度。
こちとら、前世で一度殺されてるんだ。
右手の内の結晶を握りしめる。目の前にニタリと笑ったクソ魔族の顔があった。
僕に一撃入れて喜色満面に奇声を上げているそのツラが、前世のゴミどもに重なって。
「―――ダラァッ!」
心底イラッとして、その鼻っ柱を結晶を握る拳でぶち折った。
右拳が痺れるように痛む。小柄なゴブリンの体躯がたたらを踏んで倒れる。
ああ、今のはちょっとスカッとしたぞ。
やられたのが左で良かった。利き手じゃなかったら思いっきりぶん殴れなかった。
初めて前世に感謝だ。ヤツらのせいで痛みを怒りに、怒りを闘志に変えられる。
僕はまだ戦える。
『結晶解凍・反転展開・ドレインスライム。オーバーリミット』
新しいスライムを展開する。悪鬼の形相で起き上がろうとしたゴブリンを飲み込み、さらに降ってきていた後続も巻き込んで肥大化する。
恐怖に縛られぬよう、この怒りを絶やすな。けれど冷静になれ。
想定外の事態が起こるなんて当然だ。さっさと作戦を組み立て直せ。
スライムの残りは八。無駄遣いはできない。瘴気に侵されるスライムをギリギリまで手動操作し応戦していくしかない。
『マニュアルオペレー……』
不意に―――ざわ、と身の毛がよだった。
周囲の魔力が悪意に蠢くような、嫌な感覚。ほとんど直感で、動く右腕で顔をかばう。
体中に痛撃が来た。地面の小石がハジけるように、無数の飛礫となって僕を襲ったのだ。
ああクソ。そういえばコイツらはゴブリン種。魔族の中でも特に多様性を獲得した種族。中には魔法適性がある個体も―――!
「ゴブリン魔術……鬱陶しい!」
痛みを無視してスライムに手を突っ込み、今度こそ手動操作を起動する。
ゴブリンの魔法なんて、僕に効くのはどうせ石つぶてくらいだ。普通に手で投げた方が威力が出る程度の低級魔術にすぎない。他の直でかけてくるやつなど、全部抵抗してやる。
スライムを操る。さっきと同じ方法でよじ登ろうとしているゴブリンを妨害する。
慣れてきたのか、レティリエの剣撃が威力を強め、間隔も短くなっている。もはやほとんど間断なく敵を屠り続けている。
けれど止まらない。止められない。
戦力の差が酷い。数だけなら百倍じゃきかない。
奇声を上げながら暴走する大群は災禍に他ならず。
その様相は……地を覆い尽くし全てを喰らい尽くしながら進む、蟻の大移動に似ていた。
「ハ―――……ひっでぇな、これは」
思わず愚痴る。そして笑ってやった。
不思議と諦める気にはなれない。むしろどこか、得心した気分がある。
伝説に語られる勇者とは、皆が一騎当千の戦士だという。先代のソルリディアなど、万の軍にすら価すると謳われたほどだ。
それほどの力が必要なほどに、その称号が導く運命は悲惨なのである。
ならばこの光景こそが勇者と、その仲間の視界。
彼女が翻弄されるままに踏み出して、僕が自ら踏み込んだ世界。
ああ。やっぱり。分かっていたさ。
「そうとも。そうだろうとも! 勇者の行く道なんて、ことごとくこの世の地獄に相違ない!」
その称号が呪いに等しいことくらい、最初っから知っていた。
だから僕はあのとき、彼女が望むままに殺してやろうとして―――
今は。
……そうして。
前方の対処に気を取られ、側面が手遅れになる。
ザプン、と。水音がした。しかもほとんど同時にいくつも。
「あ……」
間抜けな声が漏れる。ゴブリンどもが湖から這い出ていた―――水中を潜ってきた?
夜闇で水面は黒く波打ち、潜水してくる者を見通すことなどできない。けれど予想できたはずだ。完全に無警戒だったなんてバカにもほどがある。息継ぎなしで対岸まで泳ぎ切ることはできなくとも、スライムが封鎖する場所を抜けるくらいなら……。
ギヒィ、と笑い声を聞いた。
跳びかかってくる。寄ってたかってくる。泳ぐために捨てたのか武器は持っていないが、汚らわしいかぎ爪を突き立てんと向かってくる。
なんの対策もできていない。慌てて手動操作を行おうとするが、スライムの反応がじれったい。
一匹に組み付かれる。負傷した左肩に深々と爪が食い込む。痛みで脳が真っ白になる。
そいつは乱杭歯をむき出しにして、目の前で猛り咆吼してきた。僕の顔に口臭と唾液を吹き付けてくる。
マズい……新しい結晶を使う間が無い。こうなったら自分ごとスライムの中に沈むか。あの粘体の中なら動きも鈍るし、魔力を吸われて先に気絶するのはゴブリンだ。
けどそれだと、僕もしばらく動けなくなる。
その間に、このデッドラインを抜けられてしまう。
鋭く息を吸った。臭気に吐き気がしたが、そんな場合じゃない。
威嚇で大きく開け放った口腔―――鋭い乱杭歯が並ぶ下顎めがけ、額を叩きつける。
噴き出した血は、はたしてどちらのものか。
ギャヒィ、と醜い悲鳴と共に、ソイツが仰け反る。
僕はその僅かな隙に懐の結晶を掴む。
やり直しだ。次は水中にも警戒を怠らな―――
湖から這い出てきたゴブリンは複数だった。次だなんて、そんな機会を与えてくれるはずもなく。
四方から、突撃してきて。
間に合わないと、悟った。
―――ちくしょう。まだ、こんなところで終われやしないってのに……!
「不器用だねぇ」
そんな、戦場には似つかわしくない落ち着いた声がして。
今まさに僕を殺そうとしていた緑肌の小鬼たちが、泡を吹いて倒れ伏す。




