戦いの火蓋
ガリガリと。ガリガリガリガリと。
僕は地面に棒で魔術陣を書く。
大樹の広間から出て、月と星の明かりの下。
僕とレティリエ、そしてサヴェ婆さんとモーヴォンは湖の一本道の手前で準備にいそしんでいた。
ああいや、作業しているのは僕とモーヴォンだけなのだけど。
「ええっと、ゲイルズさん。こんな感じでいいですか?」
僕が書いた線の上に、モーヴォンがエルフ魔術の秘伝粉を落としながら聞いてくる。……なんだろうなアレ。この森で採取できるものだろうから多分植物由来で、粉状で魔術に使えて、白い。
うん、小麦粉だな。
「ああ。そいつは術式補強と潤滑油の役割だ。長丁場になったときに生死を分ける。だからその怪しい粉、ケチらずに使い切ってくれ」
こういうのは使いどころが肝心だ。それに贅沢しても僕の懐は痛まないから問題ない。どうせ婆さんのだし。
「自分はこういう人間の術式は詳しくないのですけれど、何かのトラップですか? ここを渡ってきたゴブリンを一網打尽にするような……」
「そういうのなら、道の途中か入り口に造るべきだな。こんな場所に造っても突破された後だから意味がない」
僕はガリガリと手を止めずに答える。
サヴェ婆さんは、ゴブリンはもう里の入り口まで来ていると言っていた。時間は少ない。
なんとしても、これだけは書き上げなければならない。
「いいか、湖の中心の陸地。霊穴のヌシである大樹が根ざす、ちっぽけなこの場所が僕らの陣地だ」
「……陣地、ですか」
「ああ。僕らはここで籠城する。この場所を守り切る。そして、この魔術陣こそがヤツらを辿り着かせてはならないレッドラインだ。白いけどな」
意味重ねこそしているが、基本の術式と書き慣れてる術式だ。僕の作業に淀みはない。
湖の向こう岸を見張りながらも僕らの作業をチラ見していたレティリエが、できあがりかけている魔術陣に戸惑いの声を漏らす。
「あの、この魔術陣、とてもよく似たものを知っている気がするのですが……」
「そうだろうな。効果の半分は君にいつも使っているものだよ。……存在定着の魔術陣。君の持病を抑えるためのもの。しかも霊穴の魔力を引っ張ってかなり強固になっている。この魔術陣の中に居る間、君が発作を起こすことはない」
「それと、多分ですがもう半分は魔力供給……ですかね」
モーヴォンは手を止めず、しかし眉間に皺を寄せながらも術式を睨んでいる。
すごいな。錬金術専門でもないのに、しかも僕のコードなのに、ある程度読み取ったか。
「その通り。しかも支配権を行使してるから、供給量は折り紙付きだ。……いいか、レティリエ。この魔術陣の中に居る間、君は発作を起こさないばかりか、霊穴の魔力を使いたい放題にできるということだ。―――というわけで君の役割を簡単に言おう。この中に入って、一歩も外に出るな」
今回の敵は個々の力は大したことはなくても、数が多い。どうしたって長期戦になるだろう。
屍竜戦でレティリエの弱点は見えている。カバーしなくてはならない。発作の対策は絶対の必要事項だ。
「な……そんな。それではどうやって戦うんです?」
レティリエは困惑した様子で問うてくる。まあ彼女、武器は剣しか持ってないしな。
けれど、それで十分なんだ。君には。
ガリ、と術式の最後の一文字を書き終える。魔術陣の完成。よかった、間に合った。
僕は立ち上がり、手にしていた棒を投げ捨てて宣言する。
「迷いの森でやっただろう? 魔力放出の応用だよ。さあレティリエ、準備はいいか。これより第二回、魔術の実践講義を行う」
ザァ、と森が揺れた。おぞましく、怖ろしく。
ギャアギャアと耳障りな騒ぎ声が聞こえてくる。……近いな。
「来なすったねぇ」
杖を手にし、森を向いて耳を澄ましていたサヴェ婆さんが静かに呟く。
「ゲイルズさん、こちらも終わりです」
術式を全て補強し終えたモーヴォンが秘伝粉の壺を逆さに振ってみせた。
「レティリエ、魔術陣の中に」
僕は頷いて、レティリエに魔術陣の中に入るよう促す。
「う、うあ……これ、すごいです」
レティリエがおっかなびっくり中心に立つと、魔術陣は周囲を照らすほどに強く発光して彼女を包み込んだ。
「だろうな。なにせ霊穴の支配権だ。それこそ、君がその体に転生したときに使用した以上の魔力が流れ込んでいるはずさ。あの遺跡より効率も良さそうだしな」
「……今、さらっととんでもないこと言いませんでした?」
モーヴォンが信じられないものを見る目で僕とレティリエを見る。うん、話すと長いから無視しますね。
「レティリエ。まず、屍竜を倒したときのことを思い出してくれ。君が剣を蒸発させてしまったやつだ」
「う……あのとき、ですか?」
レティリエの顔が曇る。まだあの剣のこと引きずってるのか。
あの後、めっちゃいいの貰ったのに。
「ああ、あのときのことだ。君はただの一撃であの巨体を真っ二つにしてみせた。あれは君が、剣に魔力を込めて振り抜き放った結果でね。それが魔力放出だって話はしたな?」
「はい。そのように説明を受けました」
「今回はそれを意識的にやってもらう。つまりこの場所から剣を振って剣撃を飛ばし、ゴブリンたちを遠距離から斬り伏せて……うくぅ……!」
「え、ちょ、いきなりどうしたんですかっ?」
膝を落として額を押さえた僕に、レティリエが慌てる。
……心配しないでくれ。なんでもないんだ。本当に。
「ごめん。ちょっと自分の言ってることがワケ分からなくなって、軽いめまいがしただけだ。続けよう」
いやぁしかし危なかった。自己の底に横たわってる常識ってすごいな、ガチで崩れるときは精神がヤバくなる。もう少しで気を失うところだった。
ていうか本当に、改めて言葉に出すとうさんくささが半端ない作戦だ。剣撃を飛ばして遠距離攻撃とか、前世で口にしたら二次元と現実の区別がつかない人だと思われちゃう!
「とにかく、だ。君はそうやって遠距離攻撃に専念してもらう。ただし全力のぶっぱはしないでくれ。君の本気の出力で汲み上げたら、霊穴の魔力もいつまで持つか分からない。長期戦を考えて、相手の数と勢いを削っていってほしい」
「や……やってみます」
神の腕の力のおかげか、もしくは彼女自身の才能か、レティリエは無意識に己の魔力を剣に込める技を行っている。迷いの森での探査でコツも掴んでいるはずだ。―――否。
是が非でも、やってもらわなければならない。たとえ、どれほど才に乏しくとも。
ここはすでに戦場。生きるか死ぬかの瀬戸際。現世と彼岸の境界だ。
自らの意思でこの場に足を踏み入れたならば、前に進んでくれなければ死線はくぐれない。
―――本当ならば。
こんな固定砲台みたいな戦い方を、レティリエには覚えさせたくない。だってこの先で通用するとは思えない。もっと技を、立ち回りを、状況判断の経験を磨かせてやりたい。彼女が本当に強くなるために。
けれど、今はやるしかない。
「サリストゥーヴェ、湖を泳いでくるヤツらを頼む。あと何か気づいたことがあれば、レティリエに助言もしてやってくれ。僕は教科書通りの話しかできないからな」
「あいよ。変なクセがつきそうなら直してやるくらいかね」
白髪の老婆は驚くほど落ち着いていた。
伝説の魔女だ。婆さんは心配ない。盲目だが、最初から戦うつもりだったならなんらかの方策は用意してあるだろう。
ただ……老齢だからな。正直、どこまでやれるのか分からない。あまりアテにしすぎるのも危険である。
「モーヴォン。君も湖の警戒だ。奇襲されるのが一番マズい。しっかり頼むぞ」
「分かりました。それくらいなら任せてください」
気持ちのいい返事だ。おそらくだが、彼は優秀な魔術師なのだと思う。……実戦経験はなさそうだが。
「ポンペ。……君は好きに動きたいだろ?」
「はなしがわかるぅー」
コイツは作戦に組み込むのも憚られるからなぁ。
「リッドさん。……見えました。来ます!」
レティリエの緊迫した声。
振り向くと同時、ゴブリンが七匹、奇声を上げて突っ込んでくるのが見えた。
声で笑っているのが分かる。下卑た形につり上がった口端から、黄ばんだ乱杭歯が覗いている。
弱者を見つけて喜ぶ、不潔で醜悪な小鬼。
―――ああ、嫌だな。アイツら。前世でよく知ってるヤツらを思い出す。すぐに殺してくれる分、ゴブリンの方がマシまであるが。
ヤツらはバカのように真っ直ぐ突っ込んでくる。湖に一本だけある道へ殺到してくる。
レティリエの見た目は普通の女の子だし、僕は貧弱な錬金術師。そして細っこいエルフの老婆と子供だからな。完全に舐められてるか。
「レティリエ。落ち着いて集中して、ゆっくり狙うんだ。君の力と、竜の女王が誇りに懸けて鍛造した氷雪の剣を見せてやれ」
「はい!」
しっかりした返事と共に、今代の勇者は剣を構え―――
振り抜く。
その剣撃は、雪豹が駆けるように。
湖の水面が一直線に裂かれて飛沫を上げ、そのまま凍った。その延長線上にいたゴブリンが三匹、まとめて悲鳴を上げて倒れる。
傷口は深く、三匹共が即死したようだ。凍り付いたせいで出血していないのがシュールである。
それを目にした残りの四匹の足が止まる。予想外の脅威に驚き、やっとこちらを警戒したのだ。
「素晴らしいな。その調子だレティリエ。どんどん頼む」
僕は笑ってそれだけ言って、歩き出した。
前へ。僕も、僕のポジションへ行かなければならない。
「あの、リッド……さん? どこへ?」
レティリエが僕の背中に問う。
決まってるじゃないか、そんなの。
ここにいるのはエルフの魔術師が二人と、発作持ちの勇者が一人。そして僕だ。
僕の他にできる者はおらず、他にできることもない。
「その魔術陣は土の地面に書いただけのもので、ゴブリンに肉薄されたら踏み消されてしまう。それはマズい。だからもう少し前で、壁になる者が必要だ」
仲間の奇声を聞いて寄ってきたのだろう。森からゴブリンがあふれ出てくる。
やっぱ多いな。森の中のヤツらを合わせると、全部で五百か? 千か? まさか万に届くか?
魔族の大群の前に、僕は立ちはだかる。
「いいか、レティリエ。落ち着いて集中して、ゆっくり狙え。……そして、これが一番重要だが、僕に当てるな。後ろは見ないからな」




