それは、どす黒い炎のように
「秋の始まり頃かねぇ。魔族の軍が境界を越えてきて、ボルドナ砦を襲撃したのさ」
意外なことにサリストゥーヴェ婆さんは、そこから話し始めた。今代の始まりの話だ。
時間はあまりないと言っていたが、もはやこの婆さんが迷いの森の術者であることを疑う必要はないだろう。この人が敷いた術式ならゴブリンがどれほど迫っているかくらい、当然分かるようになっているはずだ。
「私もこの足と目だから、様子を見てきた子の話を聞いただけだけどね。どうやら防壁の一部が破壊されて、そこからゴブリンやオークどもが雪崩れ込んだみたいだよ。兵たちもそれなりに応戦したようだけど、数の差が酷かったみたいでねぇ。ほとんど壊滅状態で逃げ出したみたいさ」
「ゴブリンやオーク……ですか? 魔族軍には上級魔族も多くいると聞いていますが」
違和感を覚えて口を挟む。ゴブリンやオークは群れるのが厄介だが、単体での戦闘力は低い下級魔族だ。
確認のためレティリエに視線を向けると、彼女は真剣な面持ちで頷いた。彼女はロムタヒマ戦線にいたから、魔族の情報をある程度持っている。
間違いなく、魔族軍には中級や上級の魔族も参加しているはずだ。
「斥候の子も戦闘そのものを見たわけじゃないからね。あまり詳しいことは分からないよ。戦場跡にはゴブリンとオークと、人間の死体があったって話さ。……ただ、足跡がね。荒々しいのとゆっくり行ったのと、二種類を確認したみたいさね」
なるほど。下位魔族を突っ込ませて、中級以上の精鋭の消耗を嫌ったか。
「まあ、そこまではいいさ。私たちエルフとしてはね。あの兵士たちは森への敬意を知らなかったから、そこまで同情はしないよ。木を切り倒して馬鹿でかい砦なんて建てて、しかも道までつくって馬車なんか転がすとかね。境界の見張り役だったから渋々見逃してたけど、そうじゃなかったら私たちが追い返してたところだよ」
あー……だいぶん摩擦があったんだろうな、これ。
生来の狩人たるエルフほど人間は森に適応できないから、森林に拠点を構えるなら環境破壊するしかない。けれどエルフは森を同胞として見るので、そう簡単に許容できない。
エルフは旧ロムタヒマ兵の足を散々引っ張っただろうし、逆に旧ロムタヒマ兵が武力でエルフを黙らせたこともあっただろう。
いがみ合う様子が容易に想像できるな。
「問題はね、そのときに大量のゴブリンやオークが森にばらまかれたことさ」
「……ばらまいた? なんで?」
想定外の話に思わず敬語が抜けてしまった。だって意味が分からない。
下位魔族でも戦力には違いないはずだ。個々の戦闘能力は武装した兵より劣るが、数さえ揃えば十分脅威となる。現に、ボルドナ砦を落としたのは下位魔族が主体のようだし。
戦略的な意味が何かあるのか……とも思って考えてみても、理由が見つからない。魔族軍の目標がロムタヒマ王都だったなら、こんな国土の端の僻地で展開するような作戦などないだろう。
サヴェ婆さんは呆れ混じりの息を大きく吐いて、答えを口にする。
「アイツら馬鹿だからね。どうせ統制がとれないのさ」
ああ……単純。
魔族軍と一口に言っても、下級から上級までいるなら実態は様々な種族の寄せ集めだろう。しかも下位魔族は知能が高いと言えない者が多いから、そりゃあ軍隊らしい行動なんかできるはずはない。
そうだな……仮に軍隊行動をするとしたら、できるのはせいぜい移動くらいか。
戦闘はもう、行ってこいと言うしかない。終わったら戻るかどうかも怪しい。
「魔族軍は破竹の勢いで奇襲を続け、ロムタヒマの奥深くまで攻略していった。最初から一気に駆け抜けるつもりで、最初の要所であるボルドナ砦では精鋭を温存し、不安要素が多く速度的にも足枷となる下級魔族を使い捨てにした……か」
僕は親指の爪を噛み、魔族軍がとった戦略を推測する。
確かに理はあるだろう。数の多い下級魔族を置いていけば兵站の節約にもなる。……だが、いくらなんでも思い切りが良すぎる。
軍の運用があまりにも雑だ。まさかこんな調子でロムタヒマ王都まで行ったのか?
将棋なら、散々駒損をしながら敵陣を食い破る奇襲だろうか。王さえとれればいいと、後のことを考えず突貫するような。
高らかに笑いながら、突っ込んでくるような。
―――魔王め。お前は僕と同郷のはずだろう?
なんでそんなにも好戦的で暴走的で、魔族的なんだ。
軍事面で最高のプレイヤーではなくとも、魔族軍の長としてなら最悪の首領かもしれないぞコイツ……厄介すぎる。
「魔族軍は通り過ぎて、ばらまかれて残された下級魔族は森を荒らしたわ。それに怒った里のみんなは、ほとんど総出でヤツらを狩っていったの」
ミルクスの声で、僕は思考の底から戻る。……そうだ、今は魔王のことは考えなくていい。
現時点ではそれよりも優先度が高い、差し迫った危機がある。
「総出って、女性もですか?」
レティリエの問いに、ミルクスはつまらないことを聞くなと、見下した視線を向ける。
「ここはターレウィム森林。魔界と人界を隔つ境界の森よ。この里に戦う術を持たない者はいないわ」
「つまり子供と年寄りだけ置いて魔族と戦った結果が、この里の現状か」
まだ姿を見ていないモーヴォンは、ミルクスが弟だと言っていた。子供だろう。
ギロリ、と。殺気すらも混じらせて、エルフの少女が僕を睨む。どうやら当たりだな。
僕はミルクスを無視し、サヴェ婆さんに向き直る。見えていないはずなのに、彼女は僕の視線に答えるように頷いた。
「半月前のことさね。少しずつ仲間がやられていって、あの子たちも焦れたんだろうさ。魔族どもが拠点にしているボルドナ砦を襲撃するって全員で出ていって、それっきりだよ。止めたんだけどねぇ」
半月前か……それで音沙汰がないなら全滅だな。
相手は魔族だ。生存者はいないと思っていいだろう。
状況は理解した。
この里はもはや壊滅しており、生存者は子供が二人と身体の不自由な婆さん一人だけ。森からゴブリンの大群が迫っていて、今にも蹂躙されようとしている。
「それで、貴女はどうするんですか?」
僕が聞くと、千年前の伝説は口の端をつり上げる。凄惨に。
「戦うよ」
「無茶言うなよ婆さん。ガキと一緒に死ぬだけだぞ」
僕はあまりに呆れ果て、敬語を使う気もなくなってしまった。これだから老人は。
昔取った杵柄がどれだけ凄かろうが、その体では満足に振れまいに。
「二人には逃げるよう言ったんだけどね。行き場がないって言われちゃねぇ。……森の外を知らない子たちだ。逃げても待ってるのは人間の奴隷にでもなる運命か、他の森の里に身を寄せても余所者として疎ましがられるか、だからね」
あり得る未来に舌打ちする。
エルフは見た目がいいから奴隷として人気が高い。世間知らずの子供なんか速攻で狙われる。奴隷制を廃止した国でも、裏ではバッチリ残ってる世界だからな。騙されるか攫われるかは知らないが。
同族を頼ろうにも、排他意識が高い彼らのことだから打ち解けるのにはそうとうな時間が必要となるだろう……エルフの寿命的に百年はかかるかな。
「弔い戦で死ぬのと、後悔しながら酷い人生やるのとどっちがいいかって話さ。私に言わせればね、残酷でも好きにやって死んだ方がいいって時はあるんだよ。戦うときに戦わなかった者は、生きながら不死族になるものだしね」
ハ……さすが、勇者の仲間だった魔女の言うことは違うな。
千年以上、清濁の全てをその盲目で見てきた境地の精神は、人間の僕に計り知れるはずがない。
はぁ、と溜息を吐く。どうやら僕が一肌脱ぐしかないようだ。祖国に裏切られたレティリエには、そういうアテはないだろうしな。
「だからって無謀な戦いなら犬死にだ。けれど生きてりゃ、いずれ復讐しに戻ってこれる。―――少し遠いが、逃げるんならルトゥオメレンにいる師匠に頼んでやるよ。その……人格破綻者だが……信用、はできる人だ。悪いようには……するが、悪人ではない……よな?」
ダメだ全然説得できる気がしない!
「お前さん、よっぽどろくな知り合いがいないんだねぇ」
「……あー、いや待ってくれ。母さんに頼む。元冒険者で魔術師で、今は子供に読み書きを教えてる人だ。生き方くらいなら叩き込んでくれる」
「へぇ、いいね。そりゃあおあつらえだよ」
「待ちなさいよ」
乗り気になりかけたサヴェ婆さんを見て、たまらずにミルクスが割って入る。
「言っておくけどあたし、あんたたちを魔族じゃないとは言ったけど、完全に信用したわけじゃないからね。……それにサヴェ婆を置いていくなんて絶対に無いから」
「だそうだ。婆さん、一緒に逃げろよ。レティリエが背負ってくれるってさ」
「はい、町まで背負います。大丈夫です」
「だから! あんたが悪人じゃないなんて保証がどこにあるのよ!」
ねぇよ。レティリエはともかく、僕はそもそも悪人だし。
今は百パーセント善意で話してるけど、本来の僕は人としてはゴミクズの類だ。保証なんてできるはずがない。
「私は逃げられないねぇ」
落ち着いた、静かな声で。サヴェ婆さんは声を落とす。
「老い先短い身だ。逃げたところで死ぬくらいなら戦って死ぬよ。……それにね、エルフの子供は、あまり動けない怪我人や老人が面倒を見るって話は知ってるかい?」
「……ええまあ、そういう話は聞いたことがあります。それが?」
「私は千年前の戦いで両目を失って以来、この里の子守役だった。……無駄に長生きしたからね。この里の者は全員、あたしの子供みたいなものさね」
レティリエが息を飲む。僕は下唇を噛んだ。
「今、ゴブリンがここに大挙してやってきてるのはね、何人か捕まって拷問された結果だろうさ」
サリストゥーヴェのしわがれた声に、背筋の毛がよだつ。
内容も、その裏に秘められた怒りにも。
そうか。やっと分かった。
僕がエルフの三人の名前を出したとき、なぜミルクスが怒りの矢を向けたのか。
里の場所と、彼女らの名前を知っている―――それだけで、彼女は想像してしまったのだろう。最悪の光景を。
「分かるかい? 私は、やつらを許すことはできないのさね」
ああ、これは無理だ。説得なんてできっこない。
この老婆は、かつての伝説は、ここにやってくる魔族を一匹でも多く殺そうとしている。己の育てた子供らの仇を討とうとしている。―――それだけなのだ。里の子供二人を道連れにすることすら、辞さないほどに。
逃げて生きながらえるなんて微塵も考えていない。
あの皮肉気な笑顔の裏には、おぞましいほどの憎悪が燃えている。
「ダメだ婆ちゃん! 迷いの森の効き目が薄い! あいつら、もうすぐ抜けてくるよ!」
出入り口の空間が歪み、悲鳴のような報告と共に、ミルクスと同年代くらいの少年エルフが転がり込むように入ってきた。




