ターレウィムの魔女 1
聖属性の魔素が、周囲の森を柔らかに覆い包む。
僕はゆっくりと深呼吸した。涼やかな空気が肺に行き渡ると、驚くほど頭をクリアになっていく。
静謐な神殿の中のようだ。あるいは、あの山頂のような。
「魔力の流れを、感じます……あちらへ押し流されるような」
戸惑いがちにレティリエが指をさす。
来た方向だな。ならこのまま進めば大丈夫そうだ。
早めに気づいたからだろう。どうやらまだ僕らは、迷いの森に惑わされてはいなかったようだ。
……あれ? ていうか、僕らの魔力耐性ならごり押しできない? 真っ直ぐエルフの里目指せない?
あー……うん。いや気のせいだな。それにほら、道はちゃんと確認して進んだ方が良いし。
「上出来だよ。行こうか」
思いついてしまった可能性を脳の片隅に追いやって、レティリエに呼びかける。
「…………」
彼女からの応答はなかった。
訝しげに思って見やると、黒髪の少女は自分の胸元に両手を当て、うつむいたまま黙している。
嫌な予感と共に、森の木々が不気味にざわめく。様子が変だ。
「レティリエ? あ……まさか発作かっ?」
しまった―――その可能性は考えるべきだった。
僕は慌てて駆け寄る。わけあって、彼女の身体は一度僕が錬金術で造り直している。
その術式はもちろん成功したのだが、魔力で編んだその肉体はいまだ世界に存在を定着しておらず、何かのきっかけですぐにほどけかけてしまうのだ。
彼女は以前、魔力の使いすぎで発作を起こしたことがある。今回も広範囲を探査するため、相当量の魔力を要した。
初めての試みだから効率も悪かったろうし、もし魔力切れならすぐに処置した方がいい。
けれど。
「あ……いえ。大丈夫ですよ」
振り向いたレティリエは、けろりとした顔をしていた。
「ごめんなさい。少し、初めての感覚に戸惑いました。ぼうっとしてしまいましたね」
「……大丈夫ならいいが」
はにかむようにして謝るレティリエに、発作の症状は診てとれない。顔色も悪くないし、本当に呆けていただけのようだ。
「行きましょう。多分、そこまで遠くはありません」
そう笑顔で言うレティリエはいつも通りで。
なんで遠くないって分かったんだろう、と後になって不思議に思った。
レティリエの言うとおり、エルフの里はそう遠くなかった。
ただしこの場合の遠くないは、この世界の基準のそれである。どこどこの街まで歩いて何日、って世界の話だ。急ぐレティリエについて足場の悪い森の中を二時間も早足で歩いたころには、僕はヘトヘトだった。
いやホント、そろそろマジメに体力どうにかすべきだな。そういう薬造るか。
まあ、迷いの森の効果範囲から逆算してもこれくらいだろう。
この辺りになると木々の間隔が少し開いて、枝葉の間から空が見えるようになってきた。日が傾いて、空色がグラデーションを描いてきているのが分かる。
もう夕暮れ時だ。じきに自分の手すら見えない暗闇が訪れるだろう。
「これは……凄いですね」
そんなおりに見つけたエルフの住処を前に、レティリエは呆気にとられて立ち止まった。
僕も同じ気分だ。なにせすぐ横を通るまで、そこに家があることに気づかなかった。
板状に大きく張り出した大樹の根の間に、蔦に覆われたドアが隠されていた。
注意して周囲を見れば、大きなうろに草を編んだ蓋がついている。高いところにある太い枝に、葉っぱで屋根をつくっているところもある。
あれは……そう、例えるなら……。
「獣の巣みたいだ」
「もう少し言い方がないものでしょうか……」
率直な僕の感想に、レティリエがこめかみを揉む。いやだって、そう思うじゃん。
「思った以上に原始的だな。里と森に境界も無いとは思わなかった。……エルフは木々を傷つけない生活をするっていうけど、それでも家くらいは普通に建てるはずなんだが」
エルフが家を建てるときは、丁寧に捧げ物やお祈りをしてから木の太枝をもらい、建材を確保すると聞いたことがある。そのときは木にとって不要な、剪定した方がいい枝を選ぶのだとか。
この辺の大樹の枝なら、僕の胴より一回りも二回りも太いのがたくさんある。申し分なく、良質な板がとれそうなものだが。
「その、リッドさん。家があったのは良いんですけど」
僕が違和感に思考を巡らせていると、レティリエが遠慮がちに声をかけてくる。彼女は不安げに周囲を見回していた。
ああ、そうだよな。それもおかしい。
「人気がなさ過ぎるね。迷いの森に対探査術式までかけておく術士なら、当然僕らの侵入には気づいてるだろうし」
うーん、と。僕は顎に手を当てて考える。
ゴブリンが先に到着したにしては、荒らされた痕がない。僕らが先につけたと思って間違いないだろう。
すでに逃げているか、あるいは警戒されているか。後者だとしたら監視はついてるよな。
よし。声をかけてみよう。
「そこにいるのは分かっている! 僕らに敵対の意思はない。どうか顔を見せてくれないか?」
僕は目を瞑って、さも気配を探る達人ですよという雰囲気で大きめに声をはってみた。うん、これ小っ恥ずかしいな。あと誰も出てきてくれなかったら赤っ恥だな。
はたして。
しばらく待っても、葉が風のざわめく音くらいしかせず。誰も出てきてくれはしなかった。静かだ。
……おおーい。やっぱ凄まじく恥ずいぞこれ。
「ん、んー……やっぱいないのかな。とすると避難したあとかもしれない。一応、もう少し奥まで行ってみようか?」
「いえ……その。リッドさん」
「どうした?」
「います。あそこの木の上に隠れてます」
レティリエが指さし、僕が振り向く。
言われて注視すればたしかに、そこには獣の皮を被ったエルフがいて。
目にも止まらぬ早業で弓に矢をつがえ、僕に向かって放ったのだ。




