エルフの森 1
レティリエの膂力、体力はその細い身体には明らかに不釣り合いで、僕を抱えながらも凄まじい速度で森を駆けていく。荷物もあるし、足場も悪いってのにすごいなほんと。
背後でしていた耳障りなゴブリンの声は、もう聞こえない。だが念のためもう少し離れておいた方が良い。臭いとかで追跡されても面倒だ。
ただ、逃げてるうちもレティリエは意識的に何度か方向転換していた。その意図は推測できたが、そうなると気をつけないといけないのは……。
「レティリエ、ストップ。これ以上行くな」
僕は兆候を発見して、制止をかける。
少女は言うとおりに立ち止まってくれて、僕を地面に下ろした。
「リッド、さんは……もう少し、体力を付けるべきです」
さすがに息が切れた様子で、自分の膝に手を置いて喘いでいる。
まあ僕、人間だし。ピアッタみたいに軽くないからな。バランスも悪くなるし、抱えて走るのはさすがに大変だっただろう。
「今後の課題だな。と言うか一応、最近はかなり運動してる方だと思ってるんだが」
ルトゥオメレンからここまでほぼ歩きだしな。山にも登ったし。
おかげで最近、だいぶん疲労回復薬の作り方がこなれてきた。……ずっと薬漬けだけど大丈夫かな僕。
僕は革の水筒を手にすると、蓋を開けてレティリエに差し出す。
「それより、この先はマズい。行っちゃダメだ」
水筒を受け取って革の臭いの移ったぬるい水を一口飲んでから、レティリエは理由を問う。
「どうしてです?」
「ここはもう入り口かもしれない」
僕は目視できる兆候を指さす。
木の枝がいくつか、妙な形に捻れていた。その先にはくしゃりと握りつぶしたような葉がぶら下がっている。地面に生した苔は斑点状に枯れて色を失い、かすかにすえたような臭いがした。
瘴気に侵された証。
「魔界……」
レティリエが生唾を飲み込む。
邪悪な魔族や魔物の蔓延る、瘴気が満ちた地続きの異界。人間では生きられない世界が、その先にある。
「ああ。……しかし、少し変だ。侵食がまばらで、魔界特有種と思われる植生もない。ただ少しだけ瘴気に侵されてる程度。これじゃまるで……」
「はい。まるで、つい最近まで普通の森だったような」
同じことを感じたのだろう。レティリエはその光景に寒気を覚えるように、両腕をかき抱く。
「そもそも地図では、ボルドナ砦はまだ奥にあるはずなんだよな。まああれもだいぶん怪しい地図だけど、さすがに現在地はまだ森の深部じゃないだろうし……うーん」
僕はしゃがみ込んで、枯れた部分の苔をつまみ上げようとする。だが脆くて触れただけで崩れてしまった。
「強い瘴気を放つ魔族か魔物が滞在した痕跡かもしれない。あるいは風か何かで瘴気が打ち寄せたか。……もしくは」
魔界が広がっているか。
「ま、考えてもしかたないな」
僕は最悪の可能性を口に出すこと無く、思考を打ち切った。
どうせレティリエも思い至っているだろう。だがどうせ何もできない。というか思いつくどんな可能性にも、僕らにはどうしようもないことばかりだ。
それより、今は目下の問題を優先すべきだろう。
「ところでレティリエ。なんで来た道を戻って逃げてたのに、いつの間にか見覚えのない景色に?」
「……それは」
「君、エルフの村の方角に向かってたろ?」
僕の直接的な問いに、少女は躊躇しつつも頷く。
「助けに行かなければなりません」
予想していたけどやっぱりこうなるか。
「行く義理がゼロどころかマイナスなんだが?」
「それでも、行かなければなりません」
「妖精がまるっきりの嘘でからかってただけかもしれないのに?」
「真実の可能性があるならば」
やれやれだ。お人好しにもほどがある。
まあでも、勇者だからな。そういうものなのだろう。
たとえこの世界に勇者なんて存在がいなくとも、彼女はそうするのだろう。
「行ってどうする?」
「避難を促し、手伝います。先ほどのリッドさんをそうしたように、なんらかの理由で動けない方がいた場合、運ぶくらいなら役立てるかと」
無理する気はない、か。あんな大群相手でできることはそれくらいだが、できることがあるなら行く意味はある。
しかたない。これはもう、しかたないな。
僕だって人心くらいはあるし。寝覚めが悪くて嬉しいはずがない。
「じゃあ、行くか」
「いいんですか?」
「道が分かるんならな」
レティリエが言葉に詰まって、僕は大きく溜息を吐いた。
「妖精の嘘にしては、エルフって種族名や個人名が出るのが不自然だったな。そもそも人型で喋れる妖精である以上、人里近くに発生した妖精なのは間違いない」
だからまあ、エルフがいるのは間違いないだろう。
まったく、とんだ予定外だ。まさか魔族の押し寄せたターレウィム森林に、いまだ人族の集落が残っているとは思わなかった。
「あの……先ほどから何をしていらっしゃるんですか?」
レティリエは訝しげに、僕が木の棒で地面に描く魔術陣をのぞき込む。
そこまで難しい式じゃないけど、範囲を広めに取るとどうしても大きくなるな。
「エルフってのは生来の狩人で、竜種信仰のヤツらよりも自然に溶け込んで暮らす。僕らでは、エルフの痕跡や足跡なんかを見つけるのは不可能だろう」
僕は魔術陣の中心に小皿を置いて、水筒の水を注いでから試薬を垂らす。
フォン、という音と共に、小皿の水の色合いが変化した。
「けどまあ、妖精が発生する場所ってのは霊脈……特に霊穴が多いんだ。あのハルティルクの遺跡があったような場所だね。人族ではエルフの魔法適性は非常に高いから、そういう場所を好む。……そしてマナの濃い場所を探す術式なら、そこまで難しくはないのさ。ん、細かい距離は分からないが、北西方面だな」
「……よく思いつきますよね、そういうの」
「裏の道も外の道も歩き慣れてるからさ」
ハッキングはいかに穴を見つけるかが勝負だ。正面から突破することの方が稀少である。
だからまず、裏技を探す思考方法が身についてるんだよな。我ながら卑しいことに。
僕は小皿を回収して、地面に描いた魔術陣を足で消してから、立ち上がる。
「レティリエ。ここからは注意して進もう」
「はい。ゴブリンと鉢合わせるかもしれませんから」
「それもあるが、なるべく森を傷つけないように」
軽く受け取られないよう真剣な口調で、僕は忠告する。
「枝一本折れば腕一本折られる……ってのは、さすがに過大表現だけどさ。彼らは森の木々を友や祖霊として大切にする。無駄に荒らすと、それだけで殺されかねないぞ」
レティリエはハッとして、なるほどと頷いた。
「聞いたことがあります。勇者の伝説にもそんなくだりがありますね」
「ああ。二代目の勇者の話だ。エルフの掟を破って囚われた。あのときは、勇者が自ら自分の左腕を折って事を治めたが」
「……気をつけましょう」
少し青ざめた顔で、少女はコクコクと頷く。腕は折りたくないもんな。
ただエルフは森深くに集落を作って独自の文化を築いているイメージが根強いが、あいつらはわりと森の外にも出てくる。……僕もルトゥオメレンで知り合いがいるくらいだ。
近年では街との交流を持つエルフの里も多くなったため、そう厳しい掟だのを遵守している里の方が珍しいと聞く。
だから、よほどのことをしない限りは大丈夫だと思うが……。
「あの、リッドさん」
「なんだ?」
「……あのゴブリンの大群は、森を荒らしてないと思いますか?」
愚問すぎる。
「ま、エルフたちは激おこだろうな」




