リッド・ゲイルズの論文 1
蒸留器で分離した薬品を、今度は別の器具にかける。蒸溜で純度を上げたら次は抽出、それから精製だ。この工程には時間がかかるが、器具任せで放っておけばいい。
なので僕も一度仮眠を取ることにした。
他者を治療するなら自分の体調管理も重要だ。寝不足の頭では薬品の配分だって間違える。休めるときに休んでおいた方がいい。
僕は水と保存食を軽く口にして、部屋の隅で毛布にくるまった。板張りの床は堅いが、寝室のベッドはレティリエが使っているので仕方ない。
思えば、かなり疲れていた。昨夜の事件後、徹夜で看病してたからな。さすがに疲労困憊だ。目を閉じるとすぐに眠気が襲ってきた。抗う気もなく睡魔に身を任せる。
「起きているか、リッド・ゲイルズ!」
寝てるよボケ。
玄関の方から聞こえた声にガチでキレそうになる。なんの用だ睡眠妨害ヤロウ。
「起きてるよ、少し待ってくれ」
一瞬本気で居留守を決め込もうか迷ったが、ズカズカ上がり込まれて寝室に突貫されるとマズイ。気力を振り絞って毛布を払いのけ、立ち上がる。棚に並んだ瓶から一つを引っ掴み、中身の刺激物を口に投げ入れた。
脳天を突き抜ける強烈な衝撃。目に涙を浮かべ悶える。チクショウ、でも眠気は覚めたぞ。あいつの前で欠伸なんかしたら、何言われるか分かったもんじゃないからな。
「おはよう、ディーノ・セル。こんなところに出向くなんて珍しいじゃないか。どんな風の吹き回しだい?」
玄関まで赴くと、昨夜会ったばかりの顔が偉そうに腕を組んで待っていた。
昨日と違って漆黒のローブに刺繍入りマントを着こなし、上級位を示す黒のとんがり帽子を被っている。
魔術学院における正装……いってみれば制服みたいなものだが、彼がこういう格好をするのは珍しい。色合いが地味すぎて、貴族然とした金髪碧眼の美形に似合わないからな。
「髪を整えて正装に着替えろ」
ディーノは露骨に嫌そうにこちらを睨めつけてから、つっけんどんにそう言ってきた。よく分からないが、どうやら挨拶も返してくれないらしい。よほどご機嫌ナナメだなこれ。イジッたら範囲攻撃魔術飛んできそうだ。
しかし……正装ね。
それが必要な場所や状況は学院でも少ない。特にセレモニー的な何かが開催される予定もなかったはずだし、考えられるのは偉いさんからの召喚か。
やーいパシリにされてやんのコイツ。
「……いいだろう。師匠の課題が一段落したところで良かったよ。他ならぬ君のお誘いだ。徹夜明けだが付き合おうじゃないか」
まじめくさった顔で髪をかき上げ、一旦部屋へ戻る。クローゼットから黒のローブを引っ張り出して着替え、吊しっぱなしのマントを纏って完了。裾を直しながら玄関に戻る。
「待たせたね。それで行き先はどこだい?」
「正装と言っただろう。帽子を忘れるな」
「イヤミか? 才能に満ちあふれた魔術師殿よ」
学院には事務や売店の店員、魔術を扱わない研究者などもいるが、とんがり帽子は魔術師にしか与えられない。当然、僕も帽子は持っていない。
しかし彼は本当にそれを忘れていたようで、一瞬だけ年相応の少年のように目をぱちくりさせる。
「……ふん。錬金術師はその姿で十分だったか」
舌打ちして、ディーノ・セルは歩き出した。
大きな組織はどこも同じく下水の腐臭のような面を持つもので、もちろん我らが魔術学院も派閥争いは絶賛開催中である。早く偉い奴ら全員共倒れで失脚しないかな。そのときはできるだけ派手に破産してほしい。
勢力はざっくり分ければ、保守、革新、ノンポリの三つ。
体制を維持したい老害と、新進気鋭の身の程知らず、政治なんか知らねーよバーカな馬鹿の三つどもえでお送りしている。ちなみにアノレ教室は一応ノンポリだけどノンポリのみんなからも相手にされていないぞ。やったね師匠の人徳だ。
「ようこそ、ゲイルズ君。わざわざ呼び出したりしてすまないね」
深い皺が幾重にも刻み込まれた顔を柔和にほころばせ、その老爺は応接室で僕を迎えた。
彼の名はブラウノート・フィル・ドロッド。ハルティルク魔術学院で最も優秀な人材が集まるドロッド教室の講師で、存在すらも怪しまれるほど姿を現さない学長に次ぐ権力の持ち主であり、保守派の長。
つまるところ、実質のトップである。
「お会いできて光栄です、ドロッド副学長。まさか、魔術師でもない僕にこのような機会が訪れるとは思いませんでした」
僕は深く礼をして挨拶する。遠目で見たことならあるが、こうして会話するのは初めてだ。雲の上の存在といっていい相手なので、正直緊張する。
ここに案内したディーノは、今は口を閉ざして入り口脇に立っている。どうやら本当にただのパシリだったらしい。まあ副学長の命令なら仕方ないよね。君の師匠だもんね。
「それで、このたびはどういうご用件でしょうか。アノレ師匠からは何も通達を受けていないのですが」
「ははは。そう、かしこまらなくてもよろしいですよ。そこまで重大ごとではありませんからね。アノレ君を通すまでもない」
もちろん僕はさっぱりあなたの言葉を信じていません。好々爺然としたしゃべりも表情も全部仮面だろ。人がいいだけの爺さんがこんな魔窟の首魁やってるはずない。
なにより、今はワケあり女の子を一人かくまっている最中だ。そんなときにこのレア状況、ただの偶然だなんて楽観視するほど能天気ではない。
「実は君の論文について、興味を持ちまして。いくつか質問したいのです」
「論文、ですか?」
ドロッドの話にいぶかしむ。僕が過去に出した論文はすべて失敗作のデータである。
当たり前だ。ヒーリングスライムのレポートなんて誰が出すか。成果の公表は特許申請してからが基本だ。
だから学院の実質トップの目にとまるような論文、書いた覚えもないのだが。
「はい。自意識と臓器を備えたホムンクルス試作についてです」
……あれか。
「二年ほど昔のですね。細かな数字を記憶できているとは言いがたいのですが」
「ええ、問題ありません。それでこの論文の冒頭ですが……」
「待ってください」
公開資料館からわざわざ持ってきたのか、羊皮紙の束を取り出すドロッドを制止する。
「その前に、そちらにいらっしゃる御方はどちら様ですか?」
僕は壁際に佇む男を見やって、そう聞いた。
この部屋にいる最後の一人。開いているのかどうか分からないほど細い目が印象的な、白髪の長身痩躯。
「わきまえろゲイルズ」
ディーノが口を挟む。彼が自分の師に会うのにわざわざ正装を選んだのは、この客人がいることを知っていたからだろう。
無視して、ドロッド副学長に再度視線で問う。
僕は副学長の弟子ではないから、盲目的に従う理由はゼロだ。そして正体不明の第三者がいる状態で、自分の研究内容をぺらぺらしゃべるほど間抜けではない。
答えなければそれでいい。帰る理由ができるだけだ。……そう考えていたのだが、白髪の男はドロッドと目配せし合ってから、一歩前に出る。
「挨拶が遅れ失礼しました。私はフロヴェルスの神学者で、イルズ・アラインと申します」
ぞわり、と背筋が総毛立った。敵は神聖王国フロヴェルスだ、という師匠の言葉が脳裏に走る。
マズイ。もうこんな偶然は認められない。
「……もしや、僕の研究が異端審問官の目に止まりましたか?」
「そのように身構えられたくなかったので、彼のことは伏せたかったのですがね」
ほっほっほ、と可笑しそうにドロッド爺さん。こっちからすれば全然笑い事じゃないんだが? なんならその顔に一発蹴り入れたい。
「イルズ君は我が友人の教え子です。そして最初に君の論文に目を付けた張本人ですね。実はゲイルズ君を呼ばせてもらったのは、彼がどうしても君に会いたいと希望したからなのですよ。……心配しなくとも、学院は基本的に生徒を守ります。よほど危うくない限りは、ですが」
うん、最後の一言正直だよね。完全アウトなのは学院ぐるみで闇に葬るよね。
「副学長様の説明に付け足しますが、私は異端審問官の権限を持ちません。むしろ彼らには睨まれる立場でして。……ほら、神学者なんてやってると、新しい発見や仮説を得るたびに彼らがやってくるのですよ」
「ああ……なるほど。フロヴェルスの神学者は生きにくそうですね」
あり得る話ではある。神聖王国は宗教国家だ。きっと向こうの神学者は、政治的にアウトなのを握りつぶされたりしてるんだろう。
「……分かりました。では僕の身の安全と権利を保障していただいたうえでなら、お答えしましょう」




