勇者の事情
しばらく間があった。逡巡の時間。少女はうつむいて、唇を引き締めている。
僕はただ待つ。
師匠は、彼女をめぐる未来に収束点はないと言った。ならば目の前の人物は、運命の災害に等しい。
慎重さが必要だ。一つずつ最善と思われる道を選び取るしかない。
「……わたしは、レティリエ・オルエン。信じられないかもしれませんが……あるいは、知っているのかもしれませんが、勇者です」
正直、意外ではあった。勇者は名乗らないと思っていたからだ。
謎の黒装束に追われる勇者、なんて。そんなの、どう考えても普通の事情じゃないからな。重要なところははぐらかすと予想していたが。
「レティリエ・オルエンだね。ではレティリエと呼ばせてもらおう。勇者であることは、師匠から聞いている。半信半疑だったけど、これで言質が取れたわけだ」
僕はうんうんと頷いて、そして気になっていた疑問を投げかける。
「しかし、だとすると分からない。世情に疎い僕でも知っているけれど、魔王軍に占拠された大国ロムタヒマ……いや、元大国ロムタヒマで、勇者は人族のために戦っているって聞いている。なら魔術大国ルトゥオメレンに君がいるはずがない」
「それは……」
「逃げてきた?」
「違います!」
レティリエは声を荒らげるが、すぐに肩を落とす。
「……いえ、逃げてきた……のでしょうね……」
あ、やっぱり逃げてきたんだ。
「君を追っていたのは魔族ではなく人間だった。君は魔族との戦いから逃げたのではなく、人間から逃げた。それで合っているかな?」
ある程度時間があったので、僕だってこれくらいは推測できている。……魔族より人間の方が邪悪だしな。状況が芳しくなければ、やがて人は責任の所在を探し始めるものだ。当然、一番目立つやつが槍玉に挙げられるだろう。勇者なんて格好の的だ。
案の定なのか、レティリエは言葉もなくうつむいてしまった。なので僕はさらに言葉を続ける。
「けれど、勇者は貴重な戦力のはずだ。そして象徴でもあるはずだ。戦場において君の存在は大きい。それなのに暗殺の憂き目にまで遭うとなると、そうだな。神聖王国の戦争指揮者に政敵がいて、勇者を失わせることで戦争を大敗に導き、失脚させようと画策……なんて脳に蛆のわいた馬鹿でもいたとか? それともあまりに戦況が悪くて、魔族側に寝返る裏切り者が出たとかかな?」
「……よく、さらっとそんな思考に辿り着きますね」
あれ? レティリエさん若干引いてる? わりといいセンいってると思ったんだけど。
「おそらく、勘違いなのだと思います」
むう、と僕は唸る。それは考えてなかった。
この世界の文明レベルでは、戦場での完全な情報共有は困難だ。魔術での交信はあるが、そもそも魔術師は絶対数が少ないしな。
戦線がキツいときに情報の混乱が起きるとかなりヤバいだろう。
「現在、ロムタヒマはほとんど魔界と化しています。都を囲う壁は瘴気に覆われ、人族は近づくだけで衰弱します。神聖魔法の加護があれば大丈夫なのですが……使い手が少ないせいで大部隊を動かせず、攻略の決め手に欠ける状態です」
瘴気。それはこの世界において、魔界と呼ばれる地を覆う邪悪な魔素だ。
逆に言えば、瘴気に覆われた地をざっくりと魔界と呼んでいるのだが、これがなかなか謎が多い。何しろ濃い瘴気はそれだけで人体に悪影響を与えるため、非常に研究しにくいのだ。
おそらくは複合属性だろうが、構成は不明。正式名も定まらず、瘴気属性の魔素と仮で呼ばれている。
「正常な土地の魔界化、か。伝説にいくつかそんな話があったけど、魔族が意図的に起こしたってのは聞いたことがないな」
魔族が長く棲み着いた場所は局地的に瘴気が濃くなるが、あくまで局地的にだ。都の外壁が覆われるなんてこと、自然に発生するとは思えない。なんらかの結界が張られていると考えた方がいいだろう。
「フロヴェルス軍は有力な攻め手がなく、また魔王軍も不気味な籠城を続けています。状況はほぼ膠着。焦燥する軍は不満が積もり、不和の暗雲がたちこめ……わたしに、不信の目が集まりました」
なるほど、そこまでは予想通りの展開なのか。
「そんな状態を憂慮した上層部は、わたしに軍とは別動の任務を命じました。状況を打破するため、一旦戦線を離脱。国境付近にある勇者の遺跡を探索し、遺物を手に入れて帰還せよ、というものです」
「国境付近の勇者の遺跡?」
思いがけない言葉に聞き返す。つい昨日、ワナがそんな話をしたばっかりだ。……まあ、といっても同一の遺跡かどうかは分からないけどな。
勇者の遺跡は多い。なんなら勇者がゴブリン退治したってだけの洞穴を、遺跡として飾り立てて観光地にしてる村もある。それこそ、偽物も含めれば相当な数があるだろう。
……でも多分、偶然じゃなかったら師匠の布石だなこれ。
あの人の占いはチートだからな。
迂遠に、間接的に、人知れず、因果律の揺り返しに注意しながら、役に立つかどうか分からない潤滑油を仕込んでおくとか、いかにも占星術師のやりそうなことだ。
「はい。その遺跡に、戦況を覆す遺物の伝説があるとお聞きしました」
あちゃぁ。今、覆すって言ったよ。やっぱ劣勢なのか。
「うーん、戦況を覆す遺物か……。瘴気対策系アイテムの伝説ならいくつか聞いたことがあるけど。でも、たいがいは個人かせいぜい複数人規模の力だったはずだ。戦争を左右できるようなものはないと思うんだけど」
勇者って基本少数精鋭で動くしな。大軍と動くときも、勇者パーティだけは特別な役割を任されることが多い。
それだけ、勇者ってのは突出した戦力なのだ。
「そうなのですか?」
「僕の記憶の限りではね。あとは、大量殲滅兵器のセンが考えられるか。ただそういうのって使い切りの消耗品が多いんだよな。……そもそも、伝説に残ってるってことは探索済みの遺跡なんだよな。そんなとこにある遺物っていうと、たぶん自動生成系くらい? 霊脈からマナを吸い上げて造る高濃度魔石とか。でも、そんなの国が知ってたら押さえてないはずがないし……」
勇者伝説の記憶を掘り起こして考えるが、いまいち該当するアイテムに心当たりがない。剣とか鎧でどうにかなる状況じゃないだろうしな。
「まあ僕も勇者伝説を網羅してるわけじゃないし、とりあえずそれは置いておくか。それで、君は遺跡を目指したんだね?」
「そうです。ですが……」
レティリエは下を向いて、瞼を伏せる。
「その前に、報告で神聖王国に戻りました。しかしそこで、勇者にもかかわらず戦線から逃げ出した、と言う者がいたのです。もちろん事情は説明しましたが、遠巻きに白い目で見てくる方も多く……思えば、遺跡探索の準備が夜逃げの算段に見えたのかもしれません。そして都から出立した後、あの黒装束の者たちが現れ、逃亡者へ制裁を、と襲われました」
「あーあーあー。だいぶ納得した」
いや納得できてない部分はあるけど、まあ納得した。そんな事情か。
「でも君は勇者なんだろ? 戦って倒せなかった?」
傍目には全然そんなふうには見えないけれど、体液サンプルから得たデータが彼女の魔素量を証明している。レティリエの出力は間違いなく、並の人間のそれを大きく上回る。
「人族と戦闘なんてしたくありませんから……。ですが仮に戦っていたとしても、勝てていたかどうか。彼らは二十人ほどの集団で、全員がかなりの手練れのようでした」
酷い、違和感があった。
勇者の伝説は数多く残されているが、そのどれもが勇者を超人として語っている。歴代最強と謳われた二百年前の勇者など、一騎当千などという言葉ではとても足らず、万の軍にすら相対しうる、とまで言われていたほどだ。
こういうのは誇張して伝わることが多いが、だとしてもその勇者が、たかが二十人相手に手こずるだろうか。
「……なるほど。けれど、ソナエザは国境からちょっと離れてるだろ? どうしてここまで?」
「恥ずかしながら……襲撃された時に荷物も路銀も失ってしまって。教会に事情を話して工面してもらおうと考えたのですが、国境の街は彼らに先回りされていたので……」
「ああ、それでこんなところまで来たのか。たしかに首都なら、大きな教会があるのは確実だもんな。……でも、ここでも追いつかれたと」
「撒いたと思っていたのですが、不意をうたれてしまいました」
「二十人いなくて良かったよ」
ヒヤリとする話だ。あのとき二人しかいなかったのは、彼女を捜索するために散らばっていたからだろう。あと一人でも数が多ければ、僕じゃ対処できなかった。
「だいたい事情は分かった。それで、君はこれからどうするつもり?」
分かりきったことを僕が聞くと、レティリエは即答した。
「勇者の遺跡を探索し、遺物を手に入れます」
へぇ、欠片もぶれないわけだ。
「何のために?」
さらに続けた質問に、彼女はきょとんとした顔で僕を見る。
「ロムタヒマ戦線の戦況を打破するために、ですが……」
「それは分かってるよ。だけど、レティリエ・オルエン。君がなぜ戦うのか、その理由を聞いているんだ」
勇者であるから、人族のために魔族と戦わなければならない。そんな理屈はない。
たとえ誤解であっても、彼女は人から命を狙われた。死にそうになった。なのになぜ、躊躇もせず魔族との戦争に赴こうとするのか。
「……神聖王国フロヴェルスの王女が魔王に攫われたのは、知っていますか?」
昔のゲームか。
「いや、知らなかった。世情には疎いものでね」
でもそんなセンセーショナルな話題、僕が半引きこもりっていってもさすがに聞こえてきそうなものだけれど。もしかして情報規制がかけられてるのか?
「目の前で、攫われました」
後悔、慚愧、憤怒、懺悔。あまりにも悲壮に、彼女は告白する。
「必ず、救い出します。―――必ず」
寝室から出ると、黒猫が待っていた。鳴きもせず机に跳び乗って、ふたの開いたインク壺に右前足を浸す。そして、その前足を羊皮紙にポンと置いた。
『―――どう思う?』
猫の前足から染み出たインクが羊皮紙の上を踊り、文字を成す。
……師匠、こういうの得意だよな。実は超難しいはずなんだけど。使い魔を操りながら、使い魔を介して遠隔で魔術を使い、かつ繊細に制御する。こんなの、普通の魔術師にはとてもできない芸当だ。
僕は空のビーカーが載ったトレイを置いて、チラリと寝室の扉を見る。気丈に背筋を伸ばしていたが、やはり体力の限界だったのだろう。レティリエは話が終わってすぐ、気絶するように寝てしまった。
声を聞かれる心配はない。
「黒装束は必死すぎ。彼女は何かを隠してる」
『―――同意見だ』
インクが踊ってそう描いた。僕はどっかと椅子に座って、背もたれに体重を預ける。
「刺客がわざわざフロヴェルスからだと明かしたのは、おやさしい勇者に全力を出させないためでしょう。本当に大義があると思ってるなら、毒を飲んで自殺なんてするもんか」
『―――彼女はそれに勘づいていると思う?』
「個人的な勘ですが、おそらく。でも確信までには至っていないと思います」
レティリエは刺客が死のうとしたことを知らない。だから刺客の勘違いというセンは捨てきれないだろう。しかし練度と人数の本気度から、違和感くらいは覚えているはずだ。
そして、だからこそ。
返せるものがありません、と。あんなに悲壮に、無関係な僕を巻き込む未来を怖れた。
……おそらく。秘密裏に命を狙われる、心当たりがあるのだ。
『―――彼女は何を隠している?』
インクが描いた質問に、僕はなんと答えるか迷い、そして首を横に振る。パズルのピースが足りていない確信だけはあった。
「分かりませんね。ところで、師匠の方の調子はどうです?」
『―――肉体を健康に保ったままの洗脳は難しいことが分かった。慣れないことはするものじゃないな』
「進展ゼロっぽいですね」
『―――洗脳を補助する薬物を造れないかね?』
「完徹明けにそんなアウトなの造らせないでくださいよ。レシピも材料もないし、こっちはこっちで手一杯です」
『―――そのようだ。ここにスライムについてアドバイスをまとめておいた。後で読んでおくように』
猫が前足で羊皮紙をずらすと、その下にびっしりと何事かが書かれたもう一枚の羊皮紙があった。は? 何それ。
話が終わった合図に、黒猫はニャアと鳴いて机から降りると、開いた窓から外へ出ていく。それを見送ってから残された羊皮紙を見ると、レティリエ用の細かな調整と付け足すべき機能、術式の添削と効率のいい回路の構築案、そしてこの裏コマンドは趣味が悪いんじゃないかな☆ などといった内容が、わかりやすく項目分けされて書かれていた。
「……データプロテクト、付けよう。早急に」
渋い顔で黒猫が去った窓を見やる。
気になって確認したが、インクの足跡はついていなかった。