少女の目覚め
当たり前だが、勇者に関する文献は多い。千年前に魔王を討った勇者、五百年前に魔王を討った勇者、二百年前に魔王を討った勇者と伝説にある物語は数多ある。まあ勇者って魔王を倒すのが仕事だから、ワンパターンでも仕方ないよね。
けれど、勇者とは何か、という疑問に答える文献は無い。
ソレは突然現れ、人知れず去っていく。
人族の守護者、という論文があった。ソレは神に愛されし人族の営みを繋げゆくための機構であり、強大な魔王に呼応して発生する超常存在である、と。
つまり世界に仕掛けられたセキュリティソフトというわけだ。そんななんの根拠もない空想がまことしやかにささやかれるほどに、勇者とは謎な存在なのである。
代々の勇者ゆかりの地である神聖王国に秘密が隠されているという噂もあるが、秘中の秘であるのか最初からそんなものはないのか、今のところ学院ですら真偽を掴んでいないのが現状だ。
「血液サンプル、毛髪、皮脂の欠片に爪の切れ端と」
僕は口頭で確認しながら、採取したサンプルを机の上に並べる。もちろんそんな珍しいモノ、錬金術師としては研究しないわけにはいかない。
これでも人工生命専門だ。僕の部屋はイキモノに関する研究設備ならそれなりに整っている。
「うっわすっご、内包魔素量が半端ない。しかも聖属性強すぎ。人間の魔素配分じゃないぞこれ。道理で治癒が遅いはずだ」
傷口から大量に採取した血液をいくつかの試薬に垂らして、顕れた魔素反応に目を見張る。勇者だなんて半信半疑どころか九割疑っていたが、マジモンの可能性がでてきた。
「んー、でもおかしいな。この魔素量だと普通、自己治癒能力も高いはずだけど……その傾向はなし。一般人レベルだ。疲労によるオーバーフローってとこかな。垂れ流しか空回り状態かは分からないけど、暴走してないだけマシってことにしとこう。とりあえずスライムの属性調整して……となると聖属性の精製魔素が欲しいな。あ、これから抽出すればいいのか」
ぶつぶつと思考整理しながら、僕は器具を用意していく。
ヒーリングスライムは生命力を譲渡する性質を持っている。そして生命力とは、生命が身体に内包する魔力……即ちオドが、生命活動のために活性化したものだ。
この人工生命が行う治療とは、活性化したオドをそのまま他者へ移動させることに他ならない。
なので当然、ヒーリングスライムの属性は一般の人族に近づけてある。だが聖属性が強すぎるこの娘には少し効きづらいだろう。どうりで夜が明けてもあまり良くならないはずだ。
僕は血液サンプルと薄黄色の薬品を適当な分量でフラスコに入れてよく振り、蒸留器にかける。彼女の血液サンプルから抽出した聖属性魔素を元にスライムの属性を弄れば、今よりマシな効きにはなるはずだ。
「あとは体内魔素を落ち着かせる薬と、単純に栄養だな。鉄分、タンパク、ビタミン。痩せぎす過ぎるし油分と糖分も必要と診た」
経口摂取なら、まず緑黄色野菜を入れたミルク粥あたりが適当か。味については勘弁してもらおう。
ビーカーに水と燕麦粉、細かくちぎった葉野菜を入れ、火にかける。適当に混ぜつつ、熱くなってきたらミルクと蜂蜜を入れて、さらに混ぜつつ弱火で熱する。消化器官が弱っている可能性もあるから、できるだけぐだぐだにしてやった。
せっかくなので別でお湯を沸かして、お茶も淹れてやる。昨日の超苦いワナのお土産じゃなくて、ちゃんと僕のお気に入りだ。
「よし完成、っと」
僕はできあがったオートミールとお茶の大小のビーカーをトレイに乗せて、こぼさないようにゆっくりと寝室へ向かう。来客用の寝具なんてないから、彼女は今僕のベッドの上だ。もうそろそろ起きていてもおかしくはないのだけれど。
一応、トントン、と控えめにノックしてみた。
「……はい」
あ、起きてた。
「おはよう。傷の具合はどうかな?」
ドアを開け、中に入って挨拶する。まだ目が覚めたばかりなのか、彼女は顔に困惑を浮かべながらも身を起こそうとして……痛みが走ったのか、顔をしかめる。
「ああ、まだ寝ていた方がいいよ」
「……いえ、大丈夫です」
ゆっくりと身を起こし、少女はベッドの上で背筋を伸ばす。さすが勇者、身体の頑丈さは折り紙付きらしい。あとけっこう育ちがいいな。言葉遣いと居住まいだけで、すでに庶民との違いを感じさせる。実はいいトコの子女かもしれない。
「無理はしない方がいい。君の背中の怪我は深かった。肝臓まで届くくらいにはね。普通ならそのまま死んでるところだけれど、僕が治療してなんとか命を取り留めたところだ。まったく、臓器の再生に関しては少し骨が折れたよ」
わざわざ術式組んで、傷の奥に浸透するようスライムのプログラム組んだからな。
「あなたが、助けてくれたのですか?」
「僕と、師匠がね。まあ、話は後だ。簡単なものだけど食事を作ったから食べてくれ。君には滋養が足りない」
テーブルを引いてベッドの横に移動させ、ビーカーの乗ったトレイを置く。
少女はあからさまに眉をひそめた。
「……変わった食器ですね」
「食器じゃないからね」
ちょっと意地悪だったろうか。まあ皿に入れて出すべきだったろうね。でもこういうのやりたいんだよ。
「僕は錬金術師で、それは実験用の器具だ。ま、中身は普通のお粥とお茶だよ。変なモノは入れてないから安心して食べてくれ」
「…………」
少女は顔を上げて、こちらを見る。少しだけ間があって―――そして微笑した。
「ありがとうございます。いただきますね」
……これは、試したのがバレたかな。
わざと失礼な振る舞いをしてみて、その反応で相手の内面を見る。僕の前世でよく見た常套手段だけれど、あっさり躱されてしまった。どうやら冷静で頭が良く、少々のことでは怒らない度量がある。
というか今気づいたけど、存外かわいいなこの子。
歳はたぶん僕やワナと同じくらい。背中までの黒髪に黒の瞳でわりと地味めの印象だけれど、よく見ればかなり整った顔立ちをしている。今は髪もボサボサで、やつれて目の下にくまができているが、休養をとって風呂に入れば化けるのではないか。
少女の細い手が粥のビーカーに伸びる。まだ熱いからか縁を持ち、匙で掬っておそるおそる口に運んだ。
「美味しい」
「嘘だろ?」
意外な感想に、思わず声が漏れてしまった。その粥、何一つ凝ってないぞ。
けれど少女は困ったように、曖昧に微笑む。
「温かい食事は久しぶりです」
「…………」
それは、まあ。あんな物騒なのに追いかけられてたら、まともな食事を摂る余裕すらなかったかもしれないが。
「それにとても優しい。わたしの身体を気遣ってくれる味ですね」
「……………………」
やっべー超やりにくい☆
いや冗談じゃなくまずい。見誤ってた。いいとこのおしとやかお嬢様キャラだこれ。勇者って聞いてたからもっとこう、パワーでゴリ押す系な快活雑女子を想像してたのに全然違う。ちょおっと師匠聞いてませんよこんなの。未来が読めなくてなんかヤバそうとか言ってたけど、すでに現在の僕がピンチです。気恥ずかしくて視線を合わせられません。
「あー、まあ。あれだ。口に合ったなら良かった。合わないよりずっといい」
「はい」
少女が嬉しそうにうなずいて、二口目を口に運ぶ。よく噛んで飲み込み、お茶に口をつけると―――目を瞬いた。
「そっちは本当に美味いかな? お茶はちょっとこだわりがあってね。茶葉自体はそこそこだけど、錬金術で少し味を調えてある」
「……驚きました」
本当に驚いた様子で、少女はお茶のビーカーを凝視する。飢えで何を食べても美味しい状態だろうけど、どうやら味の違いの分かる御方らしい。悪戯が成功したみたいでちょっと嬉しいな、これ。
あれは僕の完全な趣味で造った、紅茶に近づけて加工した茶葉だ。香りはまだツンとキツいが、味はそこそこダージリンに似せられた自信はある。個人的には及第点だ。
こっちの世界のお茶は雑味が多くてトゲトゲしくて、ぶっちゃけまずいからな。異世界転生者としてはやはり、お茶くらいは良いものを飲みたいのである。
「さて、食事も摂れるようだし、どうやら命の危機は脱したと判断して良さそうだ。では、とりあえず現状のおさらいといこうか」
少女がほぼ食べ終わるのを見届けてから、僕は椅子に腰掛ける。
「まずは自己紹介といこう。僕はリッド・ゲイルズ。先に言ったとおり錬金術師。このたび、師匠であるセピア・アノレの命令であなたの治療を任されている。昨夜あの裏路地で、君が何者かに追われているのを間一髪で助けたのも僕だ。方法は―――見ていたかな?」
「……いいえ。ですが屋根から落ちて意識を失う直前、あなたの姿を見ました」
ヒーリングスライムについては見てないんだな。実は今も彼女の背中に貼りついてるんだけど、動かないから軟膏か何かだと思ってるかもしれない。
「なるほど。まあ、それについてはひとまず置いておこう。あまり重要ではないし、本筋から外れるからね。なんとか誤魔化したとだけ今は理解してくれ」
スライムの説明は長くなるしな。
「ここは魔術大国ルトゥオメレンの首都ソナエザにある、大陸一と名高いハルティルク魔術学院……の学生寮兼個人部屋だね。つまりは僕の私室だ。現状、君がここにいることは僕と師匠しか知らない。そして僕の任務は君の治療なので、君には完全に快復するまでここにいてほしいと思っている。―――とまあこんな感じなのだけど、何か質問はあるかな?」
僕が促すと、少女はほんの一拍、まぶたを閉じ、そして開く。
「なぜ、助けてくれるのですか?」
最も聞きたいのはそこか。なるほど。
「師匠に命じられたからかな。実は僕、あまり事情を知らなくてね。それくらいしか明確な理由はない」
正直に告げる。少女はじっと僕の目を見ている。
「ただ、そんなものがなくても僕は君を助けるだろう。僕は君の怪我を治すことができる。なら、見殺しにするのは後味が悪い」
これは至極当然の、人道的な話だ。別に僕は善人じゃないが……というか、どちらかというと前世は悪人だったが、偽善で悦に浸れないような大物じゃない。
「……では、あなたのお師匠様は、なぜ?」
「さあ?」
僕は肩をすくめてみせる。
「ただの善意かもしれないし、何かに利用するのかもしれない。単純に面白いから、なんて理由が一番ありそうだけど、真意が本当に謎の人だからちょっと分からないな。まあ変人だしメチャクチャだけど、悪い人ではないと……うん、悪い人ではないと思う」
「返せるものがありません」
少女の声は切実で、嘆くように。聞いたこっちが痛ましかった。
「今のわたしは何も持たず、路銀もない状態です。ご厚意にお返しするものがありません。むしろ、必ずご迷惑をかけてしまうでしょう」
「必ず、ね」
その切実さでなんとなく、なぜ最初に理由を質問したのか、理解できた。
彼女はきっと、何か打算があってほしかった。ギブアンドテイクが成立するからだ。
彼女のせいで危険に巻き込まれても、リスクに見合うリターンがあるのだと、言ってほしかった。
ただの厚意では、そんな善人を巻き込んでしまう絶望が湧き上がる。自分のせいで死なせてしまうかもしれない、などと。
ああ―――なんて鬱陶しい。
死にかけるくらい追い詰められていたくせに。
余裕なんてこれっぽっちもないくせに。
そんなことばかりに頭を回して、他者の親切に気後れする。
そんなの、まるで僕のようだ。
「では、なぜ必ず迷惑をかけるのか、君の理由を聞くとしよう」
ズグリ、と。胸の奥で、熱い棘が疼いた。