星詠みの魔女
もがく。もがく。もがく。スライムの中で必死に手足を動かす。
限界解除して肥大化したスライムは、もう再結晶化できない。というかどの道しゃべれないからなんの命令もできない。水より遙かに粘性の高いゲル状をかき分ける。踏ん張りがきかない。息ができない。鼻に入ってむせそうだ。あと少し、気張れ……!
「ぶはぁ!」
なんとか顔を出す。咳き込みながら這いずり出る。危うく酸欠で気絶するところだった。さすがにこの状況で気を失うのはまずい。
ズチャリ、と粘った音を出して立ち上がる。全身がスライムでどろどろベタベタする。急いで目元を拭って周囲を見回す。
風を切る音。
予想済みだ。彼女が血みどろだったのは刀傷のせいだった。なにより、空から降ってくる女の子なんて誰かに追われているに決まってる。
とっさに身をかがめて頭をかばう。左腕に灼けるような痛み。静かな着地音が二つ。ドチクショウ、後で絶対師匠に抗議する。
視認する。闇に紛れる黒装束が二つ。即座に駆けてくる。手には黒塗りの短剣。毒じゃなきゃいいが。
『結晶解凍・ヒーリングスライム!』
あんなのをまともに相手できるチートなんか持ってない。魔術なんて使えないし、転生前からケンカはからきしだ。手持ちの札はスライムのみ。
さっきのを見ていたのだろう。読んでいたとばかりに黒装束が左右に展開する。
だが、読んでいたのはこっちも同じ。
大盤振る舞いだ。リソース全部突っ込んで、面で押しつぶす。
『オール・オーバーリミット!』
上着から取り出した全弾を限界解除。
魔力がごっそり喰われる。意識まで持っていかれそうになる。歯を食いしばって耐えた。爆発のように、スライムがさっきとは比べものにならないほど肥大化する。
黒装束たちがぎょっとしたのが分かった。だが今更どうしようもない。選択肢なんて与えない。スライムが路地を埋め尽くし、左右の壁まで圧迫した。
雪崩のように、黒装束たちを飲み込む。
「……ちくしょう、大損だ。大赤字だ。いくらかかると思ってるんだ」
スライムの中でもがく黒装束にぼやき、すぐに女の子の方へ向き直る。
くっそ、こんなのどう考えてもやっかいごとじゃないか。清々しいまでに関わりたくない。できれば逃げたい。平穏な異世界研究嫁作成ライフを続けたい。
……けどさすがに、放っておくわけにはいかないよな、これ。師匠のミッションだしな。
魔力不足でフラフラする体に鞭打って、傷に障らないよう女の子を引っ張り出す。苦労して背負う。
とにかく、すぐにここから離れる必要があった。黒装束たちはしばらく追ってこれないだろう。だがそれだけだ。ヒーリングスライムで人は殺せない。彼らはそのうち抜け出してくる。それにまだ、他がいないとも……―――
パチ、パチ、パチ、と。高らかに拍手する音が聞こえた。
血の気が引く。持ってきた結晶はすべて使い切った。完全に丸腰だ。次に打てる手などない。
だが、次に聞こえた声に僕は安堵した。凜とした響きのハスキーボイス。
「やあ、優秀だなキミのソレは。生捕り用のマジックアイテムとしても使えるとはね。しかし提出された資料に、そんな使用法は書いてなかった気がするが?」
「……そりゃあ、無茶な使い方ですからね。完成度が保証できないんで仕様書に書けなかったんですよ、師匠」
声が聞こえた方向へ答えを返す。
見上げるのは近くの家屋の、屋根の上。月を背にたたずむは、漆黒のマントを纏った女性の姿。黒のとんがり帽子に飾られた千里眼は導師級の刻印であり、その力を示す紋章。
肩で綺麗にそろえた金髪に、夏の空のように蒼い眼。
僕が所属するアノレ教室の講師にして、星詠みの大家。セピア・アノレその人が、そこにいた。
セピア・アノレという人物については、多くの謎がある。
まず年齢が謎だ。
見た目は細身の美女で二十代中頃に見えるが、誰も正確な数字を知らない。
経歴が謎だ。
彼女は元々学院に所属していたわけではなく、いきなり現れて、なぜかいきなり教室を持った。
実力が謎だ。
魔術全般に見識が深く、特に占星術による予知は飛び抜けている。だが滅多に表舞台に出ないため、はたしてどこまでの力があるのか、が分からない。底がまったく知れない。
プライベートが謎だ。
この人は普段、工房にこもりきりで、外を出歩くなんてことはまずしない。外に用がある時はたいてい使い魔の黒猫がお使いする。
謎だらけの引きこもり。もちろん学院内のドロドロに興味はなく、生徒は自由奔放にほったらかしで、しかしたまに出てきたと思ったらふざけ半分でメチャクチャやる。
それが僕の師匠、セピア・アノレという人物である。
「私は悲しいね。師として実に悲しい。完成はしていないとしてもコマンド・ワードがある以上、キミにとっては想定された使用法なのだろう? 相談してくれればアドバイスの一つもできように、弟子が頼ってくれないなんて寂しくてしかたがない」
舞台役者のように大げさに言って、師匠は屋根の上から飛び降りる。丈の長いマントをはためかせ、着地の瞬間にだけ魔術を使いふわりと地面に立った。
それだけで洗練された、優雅と言っていいほどの技術が垣間見える。それこそ並の術士が目にすれば、ぞくりとするような練度だ。
「だって師匠、こんな使い方ができるなんて知ったら、喜んでこういう場所に送り込むでしょう?」
「その通りだとも。だからこそキミをここに連れてきた。有能な人材を使わないのはもったいないからね。我ながら最適解だったと自負している。ほら、見たまえそこの暗殺者たちを」
促されて振り返る。黒装束の暗殺者たちはいまだスライムから抜け出せていない。今はもがくこともなく、動きが止まっている状態だ。酸欠で気絶でもしたのだろうか。
まあ、ヒーリングスライムはいわば生命維持装置だ。ホムンクルス用の培養液が元々の役割である。アレの中にいる限り、そうそう死ぬことはないだろう。
「任務失敗を悟り毒を飲んだようだね。奥歯にでも仕込んであったかな? おぞましいことだ。相当なプロフェッショナルと見受けられる」
ぎょっとする。改めてよく見れば、二人とも背を丸め、小さく痙攣していた。暗くて見にくいが、顔色も悪い気がする。
服毒自殺……なんて。そこまでしなければならない案件なのか。
「だが彼らにとっては幸か不幸か、このスライムは触れている生物へ生命力を分け与え続ける。即効性の致死毒なのだろうが、とりあえず延命しているな。とても苦しんでいるようだが、すぐに解毒剤を投与すれば間に合うだろう。おっと、そういえば私の二つ名はなんだったかな?」
「バッドラックメイカー。あるいは星詠みの魔女、ですね……」
「おお、そうだったそうだった。前者は全く記憶にないので後で問い詰めるが、たしかに私は星詠みの魔女だ。ではそれらしい振る舞いはしなければならないね。さしあたっては解毒剤を取り出そう。いや、まさか今朝偶然造った薬品がいきなり役に立つとは」
カラカラ笑いながら、師匠は豊かな胸元から小瓶を取り出す。たいがいチートだよな、この人。
「本当に素晴らしい。私でも、他の学生でも、彼らを生捕りにすることは叶わなかった。これはキミにしかできない手柄だ」
「なんで僕だったのか納得しましたよ。ですが、その二人をどうするんです? 尋問?」
「いいや、洗脳」
わお、ガチ悪趣味。
「情報も重要だが、今は戦力の確保が大事だ。なにせこれから忙しくなるからね。彼らはとても有能そうだし」
戦力と来たか。不穏な表現だ。師匠の口元が笑っているのが何より最悪だ。
「……いったい何が始まるんですか?」
できれば巻き込まれたくないんだけれど、という感情を隠さず聞いたのだが、返答は意外なものだった。
「さあて! それが全くもって嬉しいことに、私にもさっぱり分からないんだ!」
楽しそうに、本当に楽しそうに、星詠みの魔女はそうのたまったのだ。
「そも、未来とは定まっていないものだ。過去と現在は唯一だが、未来は枝分かれを繰り返し、無数に伸びていく可能性に過ぎない。つまり絶対はないし運命なんて存在しない」
二頭引きの馬車内で足を組んで座り、講義のように星詠みの魔女セピア・アノレは語り出した。普段講義なんて全然開かないくせに。
「しかし、枝はたびたび収束する。ランチにパンを選ぼうがパスタを選ぼうが、夜にはベッドで横になるだろう? どんな選択をしようが結局はこうなる、という結果は存在する。予知術士とはそんな収束点を探る者なのさ」
師匠の向かいに座りながら、僕は隣で寝かせている少女の容態を確かめる。彼女は完全に気絶していた。背中の傷はスライムで癒やしているが、どうやら血液が足りないうえに疲労も濃いようで、目を覚ます気配はない。
ちなみに黒装束は二人まとめて馬車の後部に転がしてある。解毒剤は飲ませたが、彼らが飲んだのは致死毒だ。しばらくは動けないだろう。
「収束点があるなら、それは運命なのでは?」
運命がない、というのは少し気になった。
魔術と錬金術は密接な関係にあるから、僕も魔術学はある程度勉強している。しかし予知術は高度な特殊分野だからほぼノータッチだ。……なんで僕この人の教室にいるんだろうね。ハードルと束縛がないからだね。あと受け入れてくれたのもここしかなかったわ。
「枝は必ず収束するわけではないよ。私の弟子になった時点でキミはどんな枝でも錬金術師だが、キミがそのスライムに至っていなかったなら、今夜ここにはいなかった。もはや今のキミと他のキミは完全に分かたれている」
そう言われれば、確かに。仮に過去の僕が十人いたとして、たしかに全員が錬金術師になっただろう。しかしヒーリングスライムの理論にたどり着くのは一人くらいだ。あれは偶然とひらめきで生まれたモノだからな。
けれど、ならばこそ。
それに辿り着いたからこそ僕ではないのか……なんて聞いたら、なんか哲学的で益体のない話になりそうだなこれ。うん、黙っておこう。
「しかし逆に、キミの性質がなければそのスライムには至らない。つまり今回の件で最適解たり得るのはキミ以外になく、キミがそれを錬成した時点で今日のことは決定していた。そういう意味で、これは運命とも呼べる。私の存在あっての話だがね」
「ずいぶん人為的な運命ですよねそれ。ここまでは予知していた、と?」
「その通り。そしてここからが予知できない。きっと彼女をめぐる未来には、収束点がほとんどないんだろう。一挙手一投足が未来の転換たり得るというわけだ」
そう言われても、何の実感も湧かないのが正直なところだ。というかいきなりの急展開に加えて、よく分からない講義とかついていけない。ぶっちゃけもう帰って寝たい。
「だから、これからはキミの無事が保証できない」
酷く……酷く真面目な声音で。その言葉は静かに僕の心臓へ響いた。
「そこの黒装束に襲われたときも、キミはどこかで油断していただろう? 私の導きなのだから、きっと酷い目に遭うけれど、必死でやれば結局は上手くいく。……心のどこかにそんな隙があったはずだ。だから動けた、という面もあるだろうがね」
「酷い目に遭わせてる自覚はあるんですね」
「そのうえで切り抜ける、と知っているから選ぶのさ。だが、ここからはそれがない。私個人はそれが嬉しいが、同時に怖ろしい。いいかねリッド・ゲイルズ、ここからの私はキミの生命に責任を持てない。故に強制はしないぞ。関わりたくないなら、何も聞かず部屋に戻るといい」
セピア師匠は優しい声音でそう言って、微笑む。ただし師としての慈愛に満ちた微笑ではなく、とっても挑戦的でいらっとするやつだ。
ヘイヘイこのチキン野郎、どうする? って感じのアレである。うっわぁ殴りたい。
「……何も聞かずにって、メチャクチャ気になるんですけど」
「聞けば関わったことと同義だ。占いの専門家として言わせてもらえば、情報を持っている、というのは一種の呪いだよ。否応なく、枠に組み込まれざるを得なくなる」
たしかに魔術的な観点から見れば、知らないというのはアドバンテージだ。精神操作、探知、条件感応などなど。情報を基に行使される魔術は多い。占いなどその代表格だから、師匠からすれば、知っていて部外者面する人間など邪魔でしかないだろう。
僕は溜息を吐く。
「では、帰ります」
「そうか、それではその娘の話をしよう」
「やっぱどう答えても巻き込む気満々じゃねぇか」
セピア・アノレは堪えきれず、腹を抱えて笑った。
「ハハハッ。いや、すまない。キミがそう答えるのは見えていたのでね。だが、収束点でキミは必ず私に協力している。そこまでは確定しているんだ」
「ええ……なんですかそれ」
まさかどんなふうに答えても、紆余曲折なドラマがあって結局は巻き込まれる的なやつ? 運命? やっぱ運命的な何か?
「なぜなら、私がキミの協力を必要としているからね。何がなんでも共犯者に引き入れるのさ」
違った。ただの横暴だこれ。
「前から思っていたが、キミは自身を過小評価するクセがあるな。足手まといになるかもと身を引こうとしたのだろう? 全くもって嘆かわしい。私の弟子は皆とても優秀で素晴らしい能力を持っているというのに!」
「放任主義の師匠に言われてもなぁ」
実際、まともに教えてもらったの片手で数えるくらいだし、本当にこの人に褒められても微妙な気分にしかならない。まあ、好きにやっていいって環境だけでありがたいけど。
しかし必要とされるのは、存外に悪くない気分だ。自分にも何かできるような錯覚に陥りそうになる。つーかそもそも、収束点があるなら抵抗しても無駄だしな。
「分かりましたよ。というか、どうせ僕の役割は後方支援でしょう?」
「おおそうか、やってくれるか。キミならそう言ってくれると思っていた。さすがは私の弟子だな! ああ、もちろん後方支援だとも。当面その娘の看病をしてくれればいい」
「白々しい……まあいいですけどね。でも、この子は一度教会の治癒師に診せた方がいい。師匠なら腕のいい術士にも心当たりがあるでしょう?」
少女の怪我の様子を冷静に判断し、僕は提案する。
ヒーリングスライムはもとより、薬学関係全般は錬金術師の十八番だ。あと多少だが現代医学の知識もある。この娘の容態は良くなさそうだが、僕であれば完治させられるだろう。
……とはいえ、悔しいがヒーリングスライムでは治癒速度と能力に限界がある。
ちょっとした傷ならともかく、深い傷は治すのに時間がかかってしまうし、痕が残る可能性も捨てきれない。女の子だしそれはかわいそうだと思う。
治癒魔術ならほとんど一瞬で綺麗に治るので、今回は治癒師に頼む方がいい。高位の術はかなり高額だけど、星詠みの魔女が払えない金額ではない。
「それはダメだな。今回、教会は頼りにならない」
しかし師匠はきっぱりと頭を横に振った。細めた眼で、後ろに転がした二人組を見やる。
「敵は神聖王国フロヴェルスだからな。あの国は教会どもの元締めだ」
「はい?」
あまりに斜め上の話に、思わず間抜けな声を出す。
敵が国? しかも神聖王国? 大陸一の宗教国家があんな黒装束の刺客を放ったってことか?
「……この女の子は何者なんですか?」
突拍子もない話に混乱し、僕は根幹にある疑問をぶつける。
答えはシンプルに、たった一言で返ってきた。
「勇者だよ」