囚われの王女
窓の外を雨が降っていた。
強くはないが、なんの対策もせず外に出るのは躊躇う程度の雨。雲は白くて、その向こうにある日の光を透かしている。風は少ない。
こういう雨は、少し長引く。気象に関する知識なんてほとんどないけれど、経験則から来る勘でなんとなく分かった。しばらくは止まないだろう。
―――まあ、どのみち。わたしは外に出られないのだけれど。
それでも、いつもより憂鬱になるのはしかたがない。
塔の最上階から景色を眺める。眼下でけぶるように街が霞んでいる。いつもなら都の壁が遠くに見えるが、今日は雨に隠れていた。
少しだけ心が浮上する。あの黒ずんだもやに覆われた壁は、目にして気持ちのいいものではない。それが見えないのだから、少し救われる。
あれはこの都が魔族の領域であることの証であり、わたしの罪そのものだからだ。
わたしはネルフィリア。
ネルフィリア・スロドゥマン・フリームヴェルタ。
神聖王国フロヴェルスの第三王女として生まれたが、今は魔王に攫われ、魔族軍に占領されたロムタヒマの王都にて軟禁されている。
とらわれの姫君、というやつだ。
……もっとも、攫われたのは悲劇でも理不尽でもない。正直なところ、自業自得だとすら思っている。
魔王と取引し、先払いさせたうえで契約を反故にし、暗殺を謀った。
それで失敗したのだから、目も当てられない。殺されなかっただけ運が良かった、と素直に思う。
窓の外を、しとしとと雨が降る。
その景色に過去を思い出した。自分の今の年齢より、さらに前の記憶だ。―――わたしにはとらわれの姫君の他に、もう一つ肩書きが存在する。
異世界からの転生者。
ただし、役立たずの、という注釈がつく。
一国の王女に生まれたまでは良かったが、わたしは見事になんの役にも立てなかった。チートなんてないし、生まれを利用しようにも、政治に介入する知識も立場もなかった。
わたしは情けない心持ちで息を吐く。結局、前世と何も変わっていない。
幼少は箱入りで育てられ、今は囚われて。
外を自由に走り回ることも叶わず、窓の外を眺めて、溜息を吐く日々。……それがわたしの運命だとばかりに、前世と同じだ。あの病室と何も変わらない。
「お姉ちゃーん!」
元気な足音と声が聞こえて、鬱屈とした部屋に満面の笑顔が乱入した。
褐色の肌とくすんだ銀の髪を持つ少年が、勢いよくわたしに抱きついてくる。多少びっくりしたものの、まだ十歳にもなっていない子供なので、元気が有り余っているのはしかたない。
たとえ魔族でも、子供は可愛いものなのだな、と。少しだけ新鮮な気持ちで思う。
わたしはくしゃりと長いサラサラした髪をかきわけ、頭をなでてやった。
「ゼファン。元気なのはいいけれど、手加減はしてちょうだい。そんなに勢いよく跳びつかれたら、押されて転んでしまうかもしれないわ。いいえ、それだけならまだしも、勢い余ってこの窓から落ちてしまうかもしれない。そうしたら死んでしまうのよ」
わたしがそう優しく諭すと、ゼファンは口をとがらせて抗議する。
「そんなの知ってるよう。人間はすごく脆いから、すぐに壊れちゃうんでしょ? だから今のもすっごく手加減したんだからね」
前言撤回してもいいかな? とわたしは渋面になった。
言葉にしてないから前言でもないけれど、やっぱり魔族は子供でも可愛くない。正確には可愛いところはあるけれど、それ以上に怖い。
「すみません王女さま。ゼファンが急に走り出したので、止められませんでした。お怪我はありませんか?」
そう言って部屋に入ってきたのは、ゼファンと同じ褐色の肌とくすんだ銀髪の青年だった。これまたゼファンと同じ黒の瞳に理知的な光をたたえた、物腰の柔らかな男だ。
「大丈夫ですよ、ルグルガン殿。ゼファンはちゃんと、わたしのことを気遣ってくれたようです。とても賢い子ですね」
優しい子、というのは抵抗があったので、別の表現にした。おそらく、魔族にはそっちの方がふさわしいだろう。
チラリと横を見れば、褒められたのが嬉しかったのだろう。ゼファンは胸を張って得意顔をしている。……そういうところは、人間の子供と同じで可愛いのだけれど。
「ところで、本日はどんなご用ですか?」
ほっと胸をなで下ろしているルグルガンに、わたしは社交用の微笑みで問いかける。これでも王族なので、表情を作るのは得意。
「いえ、今日は特に何も」
けれど、返ってきたのはそんな拍子抜けの答えだった。
……いつもなら、いろいろと質問があるのだけれど。
「王女さまにいろいろと助言していただけたおかげで、人族たちの扱い方もやっと慣れてきましたからね。そろそろ、こういう何もない日も増えてくるでしょう。……本当に感謝しているんですよ。なにせ我々、人族の統治のことなんて何も分からなかったのですから」
魔王に攫われてから、もう半年がたつ。
わたしはずっとこの塔の最上階に軟禁されているのだが、痛い目とか、つらい目に遭わされることはなかった。食事もすごく上等というわけではないが、粗末なものは出されない。自由に動けないことを除けば、ほとんど賓客扱いである。
そのかわり魔族はわたしに、人間社会の知識を求めてきた。
魔王に聞けばいいのにと思ったが、あのわたしと同郷の魔王には、この世界の人々の暮らしは分からないだろう。……それに彼にはどうにも、前世はろくでもない人物だったのではないか、と思わせるふしがある。
なので、わたしはその求めに応じた。できる限り、占領されたロムタヒマの民が酷い扱いを受けないよう、少しずつ誘導しつつ、だ。
「わたしとて、そこまで政治に詳しいわけではないのですけどね。継承権も低かったですし」
「いえいえ。基礎的なことを教えていただけるだけでも、とてもありがたいです。なにせこの国の王侯貴族はあらかた処刑してしまったので、気づいたら聞ける者がいなかった状態ですからね。いやあ、本当に当時は途方に暮れました」
このルグルガンという魔族の青年、並の人間よりよほど頭がよく理性的なのだが、やはりこういうところは魔族だ。冷酷で、血を流すことに躊躇がなく、そして徹底的にやる。
「そういうことだから、お姉ちゃん、またお話ししてよ。戦うヤツとか、怖いヤツとか」
ゼファンがわたしにキラキラした目を向けて、そうねだってくる。これも、いつものことだった。
この子は兄とわたしの話が終わると、いつもこうしてお話を催促する。最初に子守を引き受けた日から、妙になつかれてしまった。
「それはいいのですけれど、やはりルグルガン殿も一緒にですか?」
わたしが確認すると、青年はニコリと笑って頷いた。
「ええ。貴女の話はとても面白いので、差し支えなければ」
最近はいつもこうだ。ともすれば、ゼファンよりもルグルガンの方がわたしの話を楽しんでいる気さえする。
これは、おそらくなのだけれど。
魔族たちは娯楽に慣れていないのではないか。
魔界がどんなところかは知らないが、瘴気の土地はきっと厳しく、よほど余裕のない生活を余儀なくされていたのではないか。だから他愛のない物語でも珍しそうにして、披露すると彼らは凄く喜んで聞き入るのだ。
「まあ、いいですけどね。では……そうですね」
さすがに何ヶ月も毎日のように続けていれば、話のネタだって無くなってくる。
勇者の伝説とかはまだ使ってないが、そういうのは相手が魔族だとNGだろう。わたしだって命は惜しいので、語り聞かせる物語は選択しているのだ。
正直なところ、すでに今世の分の引き出しは使い切ってしまっていた。
だから、わたしはしかたなく前世から引っ張り出してくる。
本は結構読んでいた。病室で寝ていることの多かった自分には、物語は自分に寄り添ってくれる友達だった。
わたしは記憶の奥に積み上げた本の山を、見上げて微笑む。
うん。まだまだいくらでも。千夜と一夜だって乗り切れる。なんならその倍でも。
全部出してしまったら、そのときは自分で創作しよう。
「それでは今日は、この世界の神とは別の神と、氷の大地に根ざす古き山脈の話を」
そういえば、と。
思い出した。
わたしは物語が、大好きだったんだ。