運命を狂わせた者
夜の川辺に出て、バキボキボキと全身を鳴らす。コリが酷い。何日も地下に籠もっていたから、全身が悲鳴を上げている。
服を脱いで、畳んで置く。緩く流れる川にそろそろと踏み入り、ゆっくりと浸かった。
冷たい。これでは長くは入っていられないだろう。身を縮めながら、岩に背中を預ける。
身体も頭も疲れ切っていた。
清流に身を晒しながら、欠けた月を見上げる。
久しぶりの水浴びだった。さっき様子を見に来たエストにキレられたんだよな……臭いって真正面から言うの酷くない? ほぼ軟禁状態で働かせてるくせに。
夜の川は不気味だ。暗い水中は何かが潜んでいるような気がして恐ろしい。ともすれば足を掴まれて引きずり込まれそうな恐怖がある。
やっぱり、水浴びは明るいうちにやるものだ。寒いしな。
「……まあ、みんなと会わなかったのは幸運か」
正直、彼らとは顔を合わせづらい。ほぼ全員敵に回したからな。
特にワナやディーノには何を言われることか。あの二人に会うくらいなら、エストとお茶会してる方がまだマシってものだ。……ところでなんであの女、僕のことちょくちょく誘ってくるの?
僕は大きく息を吸って、ザプン、と頭まで水に潜った。そのまま手荒く髪を洗う。冷たい水が思考まで洗い流す。
危うくまた、鬱に向かうところだった。今は一人だ。忘れよう。
それよりせいぜい身ぎれいにしておかないと、また文句を言われかねない。
限界まで潜って、ぷはぁ、と水中から顔を出す。二、三回肩で息をして、また岩にもたれかかった。
空を見上げる。しばらく地下だったから時間感覚が狂っているけど、この季節でこの星位置だから……深夜帯か。ちょうど前世でいう丑三つ時くらいだな。
これでも僕は星詠みの弟子だ。この世界の天体については多少の知識がある。さすがに未来は見えないが、方角やだいたいの時間を割り出すくらいは楽勝だ。象限儀が欲しいな。無意味に緯度とか計って自己満足に浸りたい。
岩に背中を預け、ぼう、と星空を見上げる。前世の世界なら誰でも知ってる歌が頭に浮かんだが、声にはしなかった。
「戻りたくないな……」
つい、本音が出る。
溜息も出た。どうしてもネガティブに戻るのは、いかにも僕らしいことだ。
僕がやっているのはレティリエを殺すための準備だ。終わり次第彼女は殺され、勇者の力を摘出。ソルリディアのコピー製造という予定になっている。
やりたいわけがない。作業中にも、ふと思い出して手が止まる。最悪の気分になる。
「貧乏くじだよな」
本当に、そう思う。こんな役のために転生したのかと思うと涙が出そうだ。前世のバチが当たったにしても、これはあんまりだろう。
僕程度の小物なんか見逃してくれてもいいだろうに。
冷たい水にさらされ、疲れた身体が冷えていく。疲れた心が冷えていく。いっそこのまま凍え死ぬのはどうだろう。いや溺れ死ぬのも捨てがたい。誘惑がずりずりと、身体を水中に引きずり込む。
本当に、いっそこのまま。
「着替え、こちらに置いておきますね」
「ありがとう……って」
不意に聞こえた声に心臓が跳ねた。
「レティリエ? なんでここに」
振り向こうとして、裸なのを思い出した。慌てて背中を向ける。
「外へ向かうリッドさんを見て追おうとしたら、鉢合わせたエストさんに、水浴びに行ったからと着替えを用意するよう言いつけられました」
身体をひねって顔だけ向ける。月明かりの下の彼女は、少しやつれて見えて。
「こんな時間まで起きてたの?」
「最近、あまり眠れなくて」
そりゃそうだ。もうすぐ死ぬ予定だからな。死刑囚の気分だろう。
「少しお話ししたいのですけど、いいですか?」
遠慮がちにこちらを伺う彼女に、僕は濡れた髪をかき上げる。
「ちょうど、上がろうとしていたところだ。……ちょっと後ろを向いててくれないか。すぐに着替える」
「……ワナさんが、毎日泣くんですよ。わたしのことで」
僕らは川辺に並んで座った。レティリエは星空を見上げて、困ったように言った。
「そうか」
僕はそれしか言えなかった。どう返したらいいのか。
「みなさんにも、何度も逃げようって誘われました。このまま死ぬなんてダメだ、と言って。とても良い方たちです」
「そうか」
自分の気の利かなさにはほとほと愛想が尽きるが、どうしようもない。こんな時に口にする言葉の在庫なんか持っていない。そんな資格があるとも思えない。
「心変わりしたのか?」
だから、ただそう聞いた。過程は飛ばして、結果だけを知るために。
「……やっぱり、リッドさんの方が優しいですね」
夜風に流れた長い黒髪を、彼女はそっと押さえる。
「どこがだよ。彼らの方がずっと人間味があるだろ?」
やめてくれ、そんな評価は受けたくない。
「だって、どちらでも受け入れてくれるでしょう?」
レティリエは口元を隠し、クスクスと笑った。
「それに、言ってくれたじゃないですか。心の折れた勇者はツラいだけだって」
そんなことを言っただろうか。覚えてないな。
「そのとおりなんですよね。わたしに勇者は重すぎました。その名にかけられる期待も、責任も、心が折れてしまうほどに苦しかった。リッドさんはそんな弱い人の気持ちが分かるんです。だから、わたしの願いを聞いてくれたんです。みなさんは、強いですから。すごい人たちばかりですから。……きっと、絶望なんて知らないんです」
……少し、イラッときた。
「そんなことはない。誰だって挫折くらい経験する。絶望だって味わう」
僕なんかを彼らより上に見るな。
「けれど、それでも立ち上がるから強いんだ。何度でも上を向けるから、彼らは強くあれる。けれど君は、ソルリディアに甘えてそれを放棄した。歴代最強の勇者なら仕方ないと、都合のいい言い訳で責任を投げ出したんだ。僕はそんな弱さを見放した薄情者だよ」
僕こそがクソヤロウなんだ。計算と打算で君を殺すロクデナシなんだ。
そう思ってくれないと惨めすぎる。頼むから慰めなんかかけないでくれ。
「でもリッドさんは、何度立ち上がっても、どれほど上を向こうとも、凡人には手の届かない場所があることを知っています。どうしようもないことがあるって知っています」
「…………」
何か言おうと口を開きかけても、結局言葉は出なかった。
否定できるものか。人生二度目なんだ。そんなの嫌というほど思い知らされている。
「だから、これでいいんです。きっと、わたしではダメですから」
レティリエの表情は、もう迷いもなく、どこか名残惜しむようで。
そんな時でさえ、綺麗で。
ああ、ちくしょう、と。僕は神を恨んだ。
「それに実はわたし、死ぬのってあまり恐くないんですよ。……ねえ、リッドさん。リッド・ゲイルズさん。一つ、質問してもいいですか?」
改めてフルネームで僕を呼んで、彼女はまっすぐにこちらを見つめる。
欠けた月の下、木の葉の擦れる音と川のせせらぎが聞こえた。
「あなたは、異世界から転生してきたのでしょう?」
あまりにも儚く、さみしそうに、けれど悪戯っぽく微笑んで。
己の死を受け入れたその少女……今代の勇者は、僕の秘密を射貫いたのだ。
誰にも言ったことなどなかった。
ワナやディーノも知らない。たった一人の肉親である母にさえ教えていない。
知っている者はいないはずだ。
「なん、で……」
口の中が乾いて声がつっかえる。
ごまかそう、なんて考えつきもしなかった。驚きで頭が上手く働かない。
「最初からです」
天使のように、レティリエはニコリと笑む。
「確信したのは料理をさせてもらった日。わたしのお茶を飲むと、みんな遠い目をするんですよ。遙かな過去を懐かしむように」
お茶……って。まさか、紅茶か?
最初に紅茶のまがい物を出したときから、疑っていた?
いや、それよりも―――彼女は、僕と同郷の転生体を知っているってことか? それも、みんなってことは複数?
「わたし、思うんですよ」
ふいに、レティリエは立ち上がる。後ろ手に手を組んで、川の方へ少し歩く。
「リッドさんが言ったとおり、リッドさんのお父さんは、きっとハルティルクの転生体だったんだって。きっと、人は死んだら次の命に生まれ変わるんだって。……わたしも、そうなるんだって。だから、死ぬのはあまり恐くありません。実際に転生している人がいるって、知ってますから」
そんな。
死んだら転生できる、なんて。そんな、藁みたいな話に縋って。
僕らの……僕のせいで。
命を差し出す覚悟をしたってのか。
「ダメだ、そんなの……保証できない」
勝手なことを言っているのは分かっていた。彼女を殺そうとしているのは、他ならぬ僕なのだ。
でも僕は、自分がなんで転生したかなんて、見当もついていない。
なにかのイレギュラーだろうとは察している。けどそれだけだ。彼女が次の生を得られるなんて、そんなの肯定できるはずがない。
「死んだらそれで終わりだ。僕らは特例だ。何かの間違いなんだ。この世界にとってはバグに等しい。次の生なんて信じて……」
「いいじゃないですか。どうせ死ぬなら、せめてそんな希望を持っても」
神がいたら僕が殺してやる。
ふつふつと怒りが湧いてくる。胸の奥の棘が熱を持つ。
決定した死を前に縋れるものなんて、死後の救済くらいしかないのに。本当に実例を知らせるなんて最悪だ。
彼女は僕ら転生者のせいで、今の生を足掻くことなく終わろうとしている。
そんなの間違っている。壊れている。破綻している。
「……みんなって、誰だ」
そいつらも殺してやる。余計なことしやがって。お前らさえいなければ……。
レティリエはくるりと振り返って、微笑む。
「姫様と魔王です」
それはまるで、冗談のようで。
がつんと頭を殴られたようで。
僕は愕然として、彼女に手を伸ばす。あんまりな情報を押しとどめるように。
「待っ……待ってくれ。そんなの」
そんなの、ない。
やめてくれ。勘弁してくれ。
息が苦しい。納得してしまった。なんで魔王がフロヴェルスの王女を訪ねたのか、なぜ王女が魔王と取引をしたのか、理由が分かった。
互いに転生者だと知ったからだ。
そしてレティリエは、その二人のいざこざに巻き込まれたのだ。
「転生者が……僕の同郷が、寄ってたかって君の人生を狂わせたってことなのか?」
魔王がもっと大人しくしていれば、王女が暗殺など謀らなければ、そもそも二人が会わなければ、レティリエは勇者になどならなかった。ならなくて済んだ。
転生者がいなければ、彼女は、普通の人間として人生をまっとうできていた。
「そんなことを言いたいわけでは……」
少女は否定しようとするが、何が違う。
他所から来た異分子のくせに、この世界の人様に全力で迷惑かけやがって。
胸の奥の棘が暴れ回る。脳が沸騰しそうだ。
僕は。
「……地下に、戻るよ」
クラクラする頭を押さえて、ふらふらと立ち上がる。
最低の気分だ。自分も含めて全員殺したい。
「あ、わたしも……」
「一人にさせてくれ」
同行は拒んだ。これ以上はどうにかなりそうだ。
彼女に背を向け、よろめきながら歩き出す。精神的にやられたせいで貧血でも起こしたか。苛立ちに任せて木の幹を殴る。
ちくしょう。チクショウ。なんでこんな。
転生者のせいで、彼女は不幸になった。
僕も加害者だ。僕さえいなければ、僕が転生なんて可能性を示さなければ、彼女は生を諦めなかったかもしれない。
彼女がディーノやワナたちと共に旅に出て、少しずつ強くなって、いずれ本当の勇者と呼ばれる未来があったかもしれない。
僕らが、いなければ。
「レティリエ。転生なんかに期待するな」
我慢できなくて、振り向いて言い放った。
「仮に転生できたとしても、ろくなもんじゃない。くそったれな神のオモチャだ。どうせ君も、好きになった相手を殺さないといけないような、最悪の役を押しつけられるぞ」
「え……」
歯を食いしばり、背を向けて去る。もはや振り返る気はなかった。
ぐるぐると脳みそがかき回され続けるような心持ちで、遺跡へと戻る。
ストレスで吐きそうだった。病人のように胸を押さえて、おぼつかない足取りで歩く。
その中途で、ふいに近くの茂みが小さくガサガサと鳴った。
そちらを見やると、小さな金色の双眸がこちらを見て鳴く。
「にゃあ」
闇になれた目をこらせば、欠けた月の明かりに照らされ、黒猫がちょこんと座っていた。
「……ああ、やっと来たのか」
呟いて、僕は空を見上げた。
頭上には満天の星。申し分ない夜空だ。
僕はわずかに瞑目する。
ゆっくりと目を開けたときには、心は決まった。
「僕の頭上の星は、輝いているか?」
黒猫は、にぃ、と笑って。
「にゃあ」
楽しそうに鳴いた。
僕は歩き出す。
暗い森を戻り、遺跡へ入る。地下への階段を降り、ハルティルクの研究部屋へ。
部屋の片隅に設置された魔視鏡のもとへ行き、起動させた。
取り出したのは、あの瘴気の魔石だ。魔視鏡に置いて球形立体魔術陣を映し出す。
もはや、躊躇すらしなかった。
「―――我ら、真実を求め闇へ踏み出す者」
それは、迷彩化されたブラックボックスを開く合い言葉。
「―――我ら、未知の全てをつまびらかにする者」
それは、契約の祝詞。
「―――我ら、学究の徒」
決意の表明。
「―――世界に挑み、神を殺す者なり」
知りたいのなら肩を並べろ、と。そいつは扉の先で待っている。
「―――我、同朋として、汝の名を知る権利を主張する」
魔視鏡の映像がぐにゃりと蠢く。
顕れたのは、たったの四音。
線を越えてしまえば何も難しくはない。こんなもののために、ずっと躊躇していた。
「芸術家だもんな、君は」
まったく、いじらしい。サインは残したいが、価値の分かる相手にしか教えたくないと。
だからせめて、同志の宣誓くらいはさせてやろう、などと。
どう見ても最高峰にいるくせに、隣に並び立てだなんて。
なんて高慢で、なんて子供っぽくて、なんて……孤独な。
「覚えた」
立体魔術陣の向こうの敵に、約束する。
「君の相手は、僕がしてやる」




