原初の巨人
巨大な心臓がドクンと脈打てば、地に走る星座のような線が波のように光を放つ。そのたびに瘴気が溢れ出し、黒い霧が濃くなっていく。
それが、この矮躯を蝕む。
「結界の魔石を使ってしまったのは、痛かったね……」
心臓の横で膝をついてしまう。嫌な汗が流れ出て、顎先からしたたり落ちる。ボクの瘴気耐性は高くない。こんな濃い瘴気は毒でしかない。
「この遺跡は瘴気を流し出す構造をしていた……瘴気異常の起点はこの巨人で間違いない……と、思うんだけど……」
視線をわずかに上方へ向ける。壁に大穴が開いているのが見えた。先ほどボクが瘴気の砲弾を撃った名残だ。あの威力はさすがに吸収しきれなかったのか、それともこの瘴気撒き散らす巨人の側に永くあれば、さすがに劣化するのか……。
意識が霞みかける。呼吸がうまくできない。犬のように舌を出し、ヒゥヒゥと浅い呼吸を繰り返して目眩に耐える。ああくそ、興味深いけれど、余計なことを考えている時間はない。
今なら。
今なら、ボクはこの世界を滅ぼせる。
今一度この巨人にパスを繋ぎ、溜め込まれた瘴気を大量に外へ放出してやればいい。脳無しだから操るだけなら使い魔より簡単だ。
さっき繋いだ時の感じでは、ターレウィムの境界点も押し流す瘴気の洪水を起こせると思う。
フフ、と笑った。
それは痛快だ、と思った。奴隷だったボクが、何者でもなかったボクが、名前すらなかったボクがついに今、世界を手中に収めている。
すべて、壊してしまえる。
「―――……そんなんじゃ、足りないな」
呟いて、天を仰いだ。ここは地の底で、真っ暗な闇しか見えなかったけれど。
初めて自由になったとき、炎燻る瓦礫の原を目にして、その先に遙か遠くまで続く世界を視界に収めて。
どこまでも美しく見えたあの光景が、今も心に灼き付いている。
知りたい、と思ったのだ。
「あ……そうか、キミも生きたいんだね」
不意に気付いて、隣を見た。巨人の心臓に語りかける。
考えてみれば当然だ。生きるのは生物の本能で、この頭部のない巨人も生きたいからまだ生きているのだろう。神代の始まりから死んでるだろうにご苦労様だ。残念だけどさすがに救うのは無理。
だけれど、脳無しでも生きているその姿が、なんだかちょっと昔の自分と重なった。
「見せてあげたいよ。キミが礎になった、この世界の今を。―――こんなにも、綺麗なんだよってね」
囁くように言って、フフンと笑って、死にかけなのに悠長なことだと反省してから頭を回す。真剣に、ここを―――
眼下に動きがあった。息を切らせて走り出てくる人影がいくつか。ああもう。
こっちはそれどころではないのに。
巨人を見つけて、豆粒サイズの誰かが何かを言い合っている。凄く驚いているようで、とても警戒しているようで、酷く焦っているようだった。離れているからなにを言っているか聞き取れないな。どうせ陳腐なことしか言ってないだろうけど。
巨人の心臓の高さにいるボクを視認するのは、あの少女の方のエルフでも難しいだろう。それくらいに距離があるし、そもそもこの巨体に圧倒されていればボクなんかは目に入らない。しばらくは時間がある。その間にまずは結界でも張って延命し、この状況を打破する……。
「―――ククリク! リッドさんはどこです!」
目が、合った。
声を張り上げたのは今代の勇者の少女。いつも物静かなくせに、あんなに大きな声が出せるのかと驚いてしまう。しかも呼び捨てにされてしまったな。そうとう怒っているようだ。
……仕方がない。観念しよう。
「遅かったね、今代の勇者」
下にいる者たちの視線がボクに集まる。この距離であれば弓も魔術も届かない。ルグルガンの視線もさすがに範囲外。
あの中で唯一怖いのは、勇者の少女だ。彼女であればこの距離を一瞬で詰めることも、強大な魔力量にあかせて斬撃を飛ばすこともできる可能性がある。
やれやれ、と。力を振り絞り、立ち上がってみせる。膝をついた姿は見せられない。そんな情けない格好をするわけにはいかない。
「彼はボクが殺したよ」
ボクは、彼女の想い人を殺したのだから。
たしかに、殺したのだから。
眼下の者たちが絶句した。勇者の少女が膝から崩れ落ちそうになるのを耐えている。哀しみと絶望に押しつぶされそうになって、ボクの言葉を疑うわずかな希望だけで己を保っている。
この圧倒的な巨人を目にして、黒くひずむほどの瘴気に巻かれて、ボクの言葉を聞いてなお、彼が死ぬはずはないと心のどこかで信じている。
うん、さすがだ。
さすが、彼女は彼を分かっている。
「殺した、ハズだったんだけどなぁ……」
瘴気が流れるマナの風を感じて、フフ、と笑えてしまった。
いや本当に。ここまで愉快なことはない。己の認めた好敵手が強いというのは、こんなにも救いになるのか。
まだまだボクは未熟なのだと。だからまだ先へ行けるのだと。
真っ暗な未知を踏みしめる足音が、ただただ愛おしくて。
空間が歪む。今のボクの位置よりもさらに上方。先ほどボクが彼を撃ち殺した瘴気の弾が、壁に空けた大穴。
巨人が放出する瘴気が吸い込まれるように集まっていく。凝縮していく。
濃く、暗く、あまりにも禍々しく。バチバチと黒の稲妻が走り、空間が歪む。
気付けばボクの周囲の瘴気すら取り込まれて、なんなら巨人の外皮に亀裂が走って搾り取るようにそこからも吸い上げている。……ざっと魔力量を計算すれば、別の冷や汗が出てきてしまう。間違いなく天災クラスだ。
「言っても無駄だと思うけど、願わくば邪魔しないでくれないか」
瘴気が薄れたおかげで、ゆっくりだが動くことができた。幸運だ。まだボクもやれる。
続けることができる。
壁の大穴から凝縮された瘴気の塊がまろび出る。見れば、それを覆うように魔術陣が展開していた。
ヒーリングスライム。彼の持つ、ほとんど唯一と言っていい戦闘手段。
本来は生命力賦与による治癒を用途に製造されたその人工生命は、ひねくれた彼の分かりにくい性根を反映するように、殺さず無力化することに長ける。
あれは、武器ですらない。
あれこそは彼の甘さ。
そして、願いの形。
瘴気の塊に、巨大な黒い竜の翼が生える。
「どうやらまだ、勝負の途中みたいだからね!」
ボクは巨大な心臓に手を添え、パスを通す。
黒い巨人が片方しかない腕を振り上げる。狙いはこちらではなく、突如出現したなにかに向けて。
それがいったいなんなのか、考えることもしなかった。
氷雪の剣を抜く。大上段に振りかぶる。
これはチェリエカでずっと繰り返していた構え。あの地を発ってからもずっと、時間を見つけては続けていた訓練。
剣術における最も基本形。剣を振り上げ、真っ直ぐに振り下ろすだけの動作。
つま先から頭の先まで魔力が通った。剣の振り方は身体が覚えている。余計な力は微塵も入らない。
踏み込みは足指で地面を掴むように。膝、腰、背骨は力と魔力を無駄なく伝え、さらに加速する。
腕を振るのではない。剣を振るのではない。己を剣の軌跡を描くためのモノにする。
ただ、染み付かせた動きを再現する。
―――剣を速く振るにはどうしたらいいですか?
そう、聞いたことがあった。
自分には戦士の才能なんてない。そう思って、けれどそんな自分がどうすれば勇者になれるか考えて、自分で出した答え。
本当に強い相手に小手先の技など通用しない。
だから才能などなくても、半端者の勇者にしかなれなくても、一番の基本を選んだ。
愚直。
故に最速で、最大威力。
氷雪纏う一閃が巨人を斬り裂く。
「モーヴォン!」
勇者の踏み込みの衝撃で塵芥舞う只中で、エルフの姉弟が動いた。
頭部無き巨人の胴の真ん中から二つに割れ、黒水晶の華がごとく瞬く間に凍り付いていく。明らかに致命の一撃にぐらりと傾ぎ、されど心臓が動くのを視認した少女は、弓に矢を番える。
名を呼ばれただけで弟は意を汲み取り、術を唱える。
飛距離と威力。
魔力で強化された弓を引き絞り、ピタリと狙いをつける射手が睨む先は―――巨人の心臓に手を添える白い魔族。
「射て、ミルクス!」
矢が放たれる。
だが。
「―――それは、させるわけにはいきません」
声と共に、放たれた矢が阻まれる。魔術による瘴気の盾を弾き飛ばし、掌底を突き抜けて肘まで貫通した矢を握り止めて、褐色の青年は二人の前に立ちはだかる。
「ルグルガン!」
魔王の悲痛な声が響く。対して青年は落ち着いた様子で、エルフの二人を視界に収めた。
「お気持ちは分かりますが……アレがいなくては、我が主が死んでしまいますから」
巨人が動く。宙に浮かぶ瘴気の塊に向けて、腕を振り下ろす。
笛の音が響く。




