心の臓の鳴る音
赤黒く、てらてらとして、時折ドクンと動く。それはまるでむき出しの内臓だった。
それだけで人の十倍はありそうなほど巨大であることを除けば、どことなく心臓を思わせる形状をしている。脈動しているのであれば、やはり血脈に関係した臓器だろう。
ならば、床に淡く輝く星座のような点と線は血管だろうか? この光は魔力のそれであるのなら、血液の代わりに魔素を流しているのだろうか?
バハン山脈は霊脈になっていた。
ピアッタが土地の魔力を利用して、ヒーリングスライムを大きくしていたのを思い浮かべる。あれはノールトゥスファクタの魔力だろう。僕が山頂近くで使用した時はとんでもない大きさになった。
ここもそういうことであるなら、エディグ山の瘴気はこの心臓の異常である可能性がある。
「おやおやおや、どうしたんだい? 黙ってしまって寂しいじゃないか」
黙然として思考にふけっていると、視界の端で白いのが不満の声を上げてきた。
これ、やっぱ相手にしなきゃだめか……?
「いや、あまりに視点が神すぎてちょっとついて行けなくなった。もう君はそのままでいいからコレをどうするか考えようぜ」
「酷いな、まるで相手にされていなくないかい?」
「真面目に相手をしても無駄だと気づいたんだ」
「さらに酷いね! というかせっかくこんな場所で二人きりだというのに、扱いが雑すぎやしないかい? もしかしてボク、ナメられてるのかな?」
「君のせいで命を落としかけたこの場所で丁重に扱うとなると、とりあえず拘束することになるんだが……。というか、ナメないでいてほしいのか?」
「いいや。存分にナメてくれたまえ。ボクはそうやって生きてきたからね」
だろうな。聞くまでもない話だ。
力で序列が決まる魔族の中で、サキュバスのように生態からして特化しているわけでもないのに、こんなに脆弱な者がどうやって生きてきたか。
魔王の現状を見れば分かる。この女は、綱渡りのように細い道を歩いてきたのだ。―――それも、おそらくは鼻歌まじりに。
「有能ではあるけども、指先で殺せるほどに弱い。いざという時は力でどうにでもなる。……そうやって、低脳な力馬鹿どもに見過ごされることで生きてきたのがボクさ。今更ナメられた程度で気分を害したりはしないよ。安心したかい?」
ニコニコと笑う彼女に、僕は首を横に振った。安心する? まさか。
「弱さを弱さのまま強かさに変えてきた君を侮るものか。気分を害する程度の可愛げがあった方がまだマシだ。自分を簡単に殺せるようなヤツらに囲まれて誰に媚びもせず、中心に居座って堂々と笑ってるのだから、精神性がバケモノだろ」
「アハハ、やっぱりね。だと思ったよ。キミだけはボクをナメないし、正しく評価してくれる。低脳どもに侮られても悔しいとは思わないけれど、肩を並べてくれる相手に認められるのは幸福というしかない。うん、この多幸感はなかなか味わえないのではないかな」
己の薄い胸に手を当て、矮躯の女は染み入るように瞼を閉じる。さっきその相手を突き落としたとは思えない穏やかな顔だ。おかしいのは僕なのではないかと不安になってくる。
「だから好きだよ、リッド・ゲイルズ。ボクはキミを愛している」
不覚にも、息を飲んだ。研鑽の証である深いクマが刻まれたその目が、なんの偽りもなく僕を真っ直ぐに見ていた。
「ああ、やっと言えた―――やっと言えたよ偉いぞボク。危険を冒してでも二人きりになったかいがあった。さすがに皆の前で自分の想いを口に出せるほど心が強いわけではないからね。この状況でもなかなか勇気がいったけども、それにしたって口に出せたのはとても大きな一歩だ。胸がすくような気分だよ」
……この、ためか。
最初から狙っていた、なんて。最初の最初から、コレを狙っていただなんて。
ウルグラでゴアグリューズのヤツがそんなこと言ってたけど、質の悪い冗談だと思っていたぞ。
「驚いたかな? それともあまり驚いてくれていないのかな? どちらでもかまわないよ。過程はそこまで重要じゃないんだ。本当に、手順なんてものはどうでもいいものさ。ひたすらに試行錯誤を繰り返した実験が、ミスから生まれた偶然で成功するなんて経験はないかい? どれほど悩んでも構築できなかった理論が、ちょっとした日常会話からの気づきによって一気に組み上がるなんてことは? 大切なのは積み上げたことではなく至ったことだ。ボクらはそんな運命の悪戯すら全て飲み込んで、貪欲に一歩でも先に進んでいくものさ」
歌うように上機嫌な声。情けないことに頭は真っ白で、身体は石化したかのように動けない。言葉が耳の奥に響いてから意味を理解するのにラグがあって、ヒーリングスライムにたどり着いたときはそんな感じだったと無意味なことを浮かべるのが精一杯で。
そういえばなのだけれど……前世も合わせて産まれてこの方、愛の告白なんてものを受けたのは初めてだなんて、馬鹿みたいなことを考えてしまって。
反応が遅れた。
「さあ、せっかく勇気を出して伝えたんだ。キミの応えを聞かせておくれよリッド・ゲイルズ。―――できれば落ち着いてよく考えて、この状況をちゃんと理解してね」
ぺたり、と。
いつの間にか移動していたククリクが手を伸ばし、巨大な心臓らしきそれに手のひらで触れるのを、僕は阿呆のように棒立ちで許してしまったのだ。
ドクンという脈動の響きに、血の気が引くのを感じた。
―――芸術家だもんな、君は。
あの日、あの夜。僕が勇者の仲間になることを決意したあの瞬間。
魔石に施された球形立体魔術陣の、巧妙に隠匿された仕掛けを暴き開いて。
僕はそう、君へ向けて呟いた。
まったく、いじらしい。サインは残したいが、価値の分かる相手にしか教えたくないと。
だからせめて、同志の宣誓くらいはさせてやろう、などと。
どう見ても最高峰にいるくせに、隣に並び立てだなんて。
なんて高慢で、なんて子供っぽくて、なんて……孤独な。
魔術陣の向こう側にいる君をそう見透かして、僕は約束したのだ。
挑むような顔だった。獰猛な顔だった。笑っていた。
遺跡の深奥に隠された巨大な臓器に触れ、まっすぐに僕へ視線を注いでいた。
―――……なんて、酷い。
なんというか、こう、唖然とした。
これはちょっとどころじゃなくヤバい状況なのでは、と理解して血の気が引くと同時に、マジかこの女と口が半開きになった。
恋の告白をして、その返答を脅迫で勝ち取ろうだとか、ちょっと倫理観がぶっ飛んでいて理解できない。いやそういうケースだってあるだろうことは理解できるのだけれど、僕にそんなことがあり得るなんて想像の枠外だ。
しかも気軽に手で触れてるアレ、下手したら世界が傾きかねない厄ネタなんだが。
―――……なんて貌だ。
痛ましくさえあった。挑むようなツラは怯えを隠してるに過ぎず、獰猛なまなじりは追い込まれた小動物のようで、笑ってるのは見栄を張っているだけだ。
よく見れば、小さく震えてすらいた。
孤高、とゴアグリューズは言い表した。
孤独、と僕は彼女を見透かした。
その二つは似て非なるものである。だって、孤高なんて言葉を使うヤツはその時点で見上げている。
見上げられるか、見下げられるか。彼女の飛び抜けた頭脳と脆弱な身体は、魔族社会において否応なしにその二つのどちらか、あるいはどちらともを相手に強制しただろう。
真に対等になれる者など今までいなかったに違いない。誰にも理解されないが故に、他者を苔に例えるほど誰も理解する気にならなくなるくらいには、彼女は孤独だった。
彼女にとって、並び立てる者の存在はそれだけで奇跡なのだ。
―――……憐れだ、なんて思わない。
同情など望まれてはいない。した時点で殺されても文句は言えまい。
彼女は学徒。未だ道半ばにて高みを目指す者。その誇り高き姿には敬意を送ろう。
そして、その歩み行く隣に僕が欲しいと願われたことを、ただただ光栄に思う。……やり方は最低だけども。
―――それも悪くはないかもな。
そう、心から思えた。
塔の最上階で最初に会ったときから今まで、悪印象ばかりが残っているのだけれど、僕は彼女に対して嫌悪感までは抱いていない。
信用はしていないし、いざとなれば殺さなければならない敵だとも認識しているけども、決して人族の敵として憎むなんてことはない。
僕も彼女を認めているからだ。
正直に言えば、共に進む遺跡調査は楽しかった。互いの知識を出し合い、推理し、競い、協力して解き明かしていくのは場違いに心躍っていた。
きっと彼女の方もそうだったのだろう、と。それを疑うほどには、僕はヒネていないようで……だからここで頷いてしまえば、共に笑い合う明るい日々が待っているに違いないと、そんな夢想をして。
無意識に噛んでいた下唇から、血が流れた。
「………………すまない」
きっと、君は知っていた。僕が君を選ばないことを。
そうでなければこんなマネはしない。突き落として、二人きりになって、世界の脅威を背後に脅してなんて。
そんなことをしてまでも欲しいと想われて、けれど僕はどうしても頷くことができなかった。
どうしても。
どうしても、そこだけは譲れないのだと。胸の奥の熱い何かが叫ぶのだ。
「君の想いには、応えられない」
たとえ、この選択に世界の命運がかかっていたとしても。




