その名、自由の印にて
「おはようございます。……あなたは誰でしょうか?」
小さな女だった。
やせっぽちで、生っ白くて、穴だらけのボロを着て、生気の無い相貌をしていて、感情のない瞳で俺を見上げていた。
残り火が燻る瓦礫の原では、妙なモノが焼ける嫌な臭いがかすかに漂う。ずいぶん見晴らしの良くなった里には他に生者はおらず、けれどそのうち死骸が動き出して徘徊し始め、不死族でも構わず喰らう肉食の魔物が群がるだろうと容易に予想ができて。
「ゴアグリューズ・バドグリオス・ハイレン・マドロードゥニウス。どうやら、俺はそういう名前らしい」
その名を知ったのは最近で、名乗ったのは初めてで、慣れないが故にその名称が自分を示すという実感もあまりない。赤の他人の名前のように空虚な響きだ。
「ゴアグリューズさまですね。我が主のご友人の方でしょうか?」
わずかに首を傾げる仕草には、どこか幼さを感じさせた。魔族は種が多くて年齢を推測しづらいが、まだ若いのだろう。
しかし、それでも今の質問はどうなのか。
「……それは、そこに転がってるヤツのことか?」
「はい」
「…………」
目の前で殺したハズなんだが、どうしたら友人関係に見えるのだろう。もしかしたら高度なジョークなのだろうか。それなら無表情はやめてほしいのだが。
「……血縁の方でしたか?」
俺が黙っていると、小さい女は少し考えてからそう聞いてきた。声には冗談の雰囲気は感じられない。
なんて答えようかな、と迷う前に、なんでこんな発想をするのか気になってしまって、胡乱げな目でじろじろ見てしまう。
「なんでそう思う?」
「違うのであれば、それ以外の方の来客は初めてです」
その二つしか知らなかったか。そうか。
まあ、そういうこともあるんだろう。
「お前、奴隷だろ。種族は?」
「種族?」
「やっぱ答えなくていい。じゃあ名前は?」
「おい、です」
「そうか、俺と同じだな」
「? あなたはゴアグリューズさまでは?」
「ああ、そうだったな。その通りだ」
溜息を吐いてしまう。やれやれだ。どうしたもんか。
見なかったことにするのが一番楽だが、それでは見殺しと変わらない。それで痛む心が残っているわけでもないのだけども。
しかしこの里の惨状は自分のせいで、つまりここでの見殺しは直接殺すのと変わらない。ならばいっそひと思いに命を奪ってやるか、でなければ面倒を抱え込むのがスジだろう。
「おい、という名前はつい先日使用禁止になった。新しい名前を考えておけ」
「そうなのですか?」
「そうなんだ」
「だからあなたも、新しい名前にしたのですか?」
「その通りだ」
適当な嘘っぱちを重ねても、白いそいつが疑うことはなかった。ほんの少しだけ考えた様子を見せて、たいして悩まずに口を開く。
「では、ククリクと」
俺は二度まばたきして、ふむ、と腕組みする。
これは多分なのだが、彼女はその名をずっと胸に秘めていたのだろう。そう察っしてしまった。名乗った彼女が少しだけ、本当に少しだけ微笑んだからだ。
それはかすかなものではあったが、運命への叛逆に違いなかった。
名は親にもらうか、あるいはもっと偉い人とか、尊敬する人などにもらうべきだろう。
そういうのに発注できないなら、自分で付けるべきだ。
あの日、あの女は自由になった。生まれて初めて自由を手に入れた。
手に余るものには違いない。むしろ他にはなにも持ってない。俺が放り出していれば三日も生きてはいけなかっただろう。
だから一旦は俺が預かった。外敵から守り飯の世話をするくらいのことだったが、庇護下に入れた。
だが、それでいいなんて思っていなかった。せっかく奴隷から解放されたのだ。俺がまたあいつの自由を奪うことになってはならないと、あの時は本気でそう思った。
だから名前は自分で付けさせた。俺が名付けていたら、それはきっと鎖になっただろうから。
「やれやれだ」
臭くてクソマズい魔獣の焼き肉を噛みちぎって、骨を投げ捨てながら嘆息する。焚き火の炎に足を向け、柔らかな土の上に寝転がる。
王座を追われたことにククリクが関わっていると知っても、怒りはまったく湧かなかった。むしろ喜ばしいとさえ感じる自分がたしかにいた。
あの女が本当に自由になること。それは俺の密かな願いだったのだ。ソレが成って初めて、自分が過去から解放されるような気がしていた。あの里から持ち出したのはアイツだけだったから。
そして、自分の意思で俺を裏切ったあの女は……俺の庇護下からあっさりと離れた彼女は、もはや誰よりも自由だろう。世界の真ん中で踊り出すほどに。
きっと散々迷惑をかけているに違いない。周囲を振り回して、憤慨させ、あの顔で笑っているのだろう。
それでいい。アレに他人の心は分からない。分かる必要がない。
他人の顔色なんて伺わなくていい。
「……どうしたもんかな」
問題があるとすれば、あの時と今で自分の心情が変化していることだ。
まったく。こんなことなら、やっぱあの時に名付けてやれば良かった……なんて。
あの自由さがなければ、アイツじゃないんだけどさ。
「アハハハハハハハハハハ! いいね、神か! たしかにコレはそういうものかもしれないね!」
最初からククリクはこの状況を狙っていた。
それを聞いてやっと腑に落ちたのは、僕がこの女を最初からずっと信用してなかったからだろう。
「そも、世界を創造した者を神と言うのであれば! 世界の基となったモノはそう呼んでも差し支えないのではないかな!」
テンションが高ぇ……。怪我に響くから勘弁してくれ。
右肩をかばいながら立ち上がる。ヒーリングスライムでの治療はどれくらいで終わるだろうか。折れたわけじゃないし、半日くらいで痛みは引くと思うが……。
「バハンで山脈になっている竜がいる。彼の地の信仰では、竜は神の腕が世界を創る前から存在していたそうだ」
自分の声が遠い。脳を介さず口だけで喋っているようだ。
これがどんな存在なのか、僕には断言することはできない。ただまあ、こんなものが最初期の神代の遺跡に繋がっているということは、それなりの関係があるのだろう。そこは疑う必要がないように思う。
―――けれど、そんなことは後々調べればいいことではないか。
「素晴らしい! 古竜の死骸か! いやいまだに生きているのかな? これが竜かどうかは調べないと分からないけれど、かつてこの世界ではここまで巨大で強力な生物が複数いたということだね! いやいやいや、神の腕の存在を考えたならば、創世記の時代はもしかしたら……」
「君は、平和を願っていないのか?」
下らないと心底思った。世界の真実に唾を吐きかけたくなった。
この遺跡調査はそこに行き着く。魔界の異常が収まれば魔族はロムタヒマを手放すことができるし、人族はこれ以上の戦いを避けられるからだ。
だが、魔界の異常をどうにかできなければ……明言こそされていないが、魔族はさらに人界の領土を広げるだろう。魔界全土の民を避難させるならば、ロムタヒマの王都以東だけでは土地が足りない。
ここは運命の分水嶺。歴史が変わる奇跡の一時。全員がその認識で来たはずだ。
魔王は双方の未来を祈り、勇者はかつての主を救うために、エルフ姉弟は心を押し殺して。
ソニも、ペネリナンナも、ルグルガンだって、それぞれの思惑はあれ、この遺跡調査を成功させようと協力していた。
この女だけだ。
ここで僕が死んでいたら、人族と魔族との間に禍根が残ったはずである。いずれ成るかどうかも疑わしい和平もさらに望み薄くなるだろう。
それを踏みにじる行為を、いとも容易く行ったのだ。
「おや? この期に及んでそんなことを聞くかい? もちろん平和は願っているとも」
だというのに、しれっとした顔で女はのたまう。
「ボクは願うとも。人族も、魔族も、この世界の生命すべての平和と繁栄を願う」
己の薄い胸に手を当て、真摯な声で。
寒々しい薄ら笑いが、魔力の明かりに浮かぶ。
「どうか勝手に、適当に、そしてできるならばあまり煩わしい音を立てないようひっそりと。どうぞ、苔のように繁茂してくれたまえ」




