地の底
落下というのは物理である。命乞いしても情けはない。
人は脆い。一メートルの高さから落ちても死ぬときは死ぬ。まして、底が見えないこの高さなら間違いなく助からない。
装備があれば別だ。
この広さのある空間であれば、パラシュートならゆっくり降下できるだろう。無風だからハングライダーは難しいかもしれない。ジェットパックがあれば上までひとっ飛びで行けるんだが。
問題は位置エネルギーだ。これを殺しなんとかして減速しなければならない。そして僕にはスライムしかなく、近くには壁がある。
やることは一つだ。……なのだが、焦ってはならない。間違っても振り子運動で壁に激突なんてことは避けねばならない。また、急に止まってはならない。どちらも地面に激突するのと同じだ。
「あらかじめ身体をスライムに包む……はダメか」
一瞬よぎった考えは即座に却下。緩衝材にしようと思ったが、粘性の高いスライムは面で受けた衝撃を逃がさず内側へ伝えるだろう。内臓から潰れるな。即死だとヒーリングスライムでは蘇生できない。
ちくしょう。
『巨腕!』
スライムの結晶を掴んだ腕を上へ突き上げる。皆まで届けと声を張り上げる。
物理法則は強敵だけれど、相手ができないわけじゃない。この程度で死ぬ気は無い。
なぜなら、僕はこの魔法がある世界に生きている。
振り上げた右腕に解凍されたスライムが纏わり付く。多量の魔力を吸い上げられる感覚に歯を食いしばった。
瞬く間に大樹のような体積に肥大したスライムを、五指に搦めた疑似神経で操る。
壁へ。
突き刺すのではない。掴むのではない。貼り付くのではない。
壁面で、スライムを削る。
ナメクジのように壁面へ粘液の跡をつけながら、滝のように落ちる。摩擦を駆使して位置エネルギーを消費していく。削れたスライムは魔力を喰わせて補充する。
肩関節が外れた。
痛みで涙目になりながら、左手で同じようにスライムを発動する。覚悟していたから悲鳴は耐えた。僕の腕力じゃこうなることは目に見えていた。手をスイッチしてさらに巨腕を壁へ。
壁面が滑らかすぎて思うように速度が落ちない。かといって接触面を増やせばスライムの消耗に再生が追いつかない。気圧の変化で耳が痛い。十分に遅くなったところで壁にとりついて止まるつもりだったが、くり抜き型の遺跡に凹凸はなくスライムでは止まれそうにない。血液と内臓がせり上がるような嫌な感覚を伴う落下速度で、本能的に目を閉じそうになるのを堪える。
F1レースに使うタイヤって溝がなくて、摩擦だけで曲がるんだっけ……―――そんな馬鹿みたいなことを考えて、これとアレとどっちが危険なのか天秤にかける間もなく。
かすかに光を放つ、底が見えて。
『肥大!』
僕はスライムで造った即席プールに、足から突っ込んだ。
ヒーリングスライムを扱う以上、医療についてはそれなりに勉強してはいた。
この世界の怪しげな医学を、前世のうろ覚えの知識で補填するという危うい方法だが、無いよりはマシだ。
僕はこの世界の人間にしては、わりと高い水準の医学を修得しているだろう。
口内に布を押し込み、両の奥歯で噛み締める。こうすれば食いしばりすぎても歯が折れることはない。
右手を開いて手のひらを地面に付ける。腕は真っ直ぐ伸びるようにし、肘が曲がらないよう壁面で支えた。
関節が外れたのなら、また填め込めば良い。―――そう安直に考えるヤツはただの馬鹿だ。無理やり填め込めば周囲の組織を傷つけてしまい、痛みは酷くなって治りは遅くなる。また、脱臼は癖になると言われるとおり、再発の可能性も高くなってしまう。
だから、肩などの関節が外れたら応急処置だけしてちゃんと整復できる者に治療してもらった方がいい。
ここにはそんなヤツいねぇんだよ。
外れた肩を左手で押さえ、覚悟を決めるために五秒。三度深呼吸し、息を止めて。
一気に押し込む。
「ふぎいぃぃいぃっっっっっ!」
脳にガツンとくる痛み。己の声帯から漏れたとは思えない音が耳朶に響き、あまりに痛すぎて気持ち悪くなって、さっき食べた携帯食が胃から逆流した。盛大に嘔吐いて、噛み締めていた布を吐瀉物ごと吐き出す。
耐えきれず膝を突いた。咳をするたびに肩が尋常じゃない痛みを訴え、涙腺から水分が流れ出る。なんとか姿勢を変えて、右肩をかばいながら壁面に背を預ける。そのまま尻を地面に降ろした。
じとりとした脂汗を浮かべながら後頭部まで壁に預け、とにかく痛みが引くまで待とうと、浅めの呼吸を繰り返す。
ドチクショウ。
神話最初期の遺跡の最奥、魔界の地の底で、あんなしょうもないクソみたいな目にあわされるとは思わなかった。
レティリエたちは無茶しないだろうか。巨腕を発動するときの声は聞こえたハズだから、あの魔王ならば冷静に階段で進む判断をしてくれると思うが。
「やあ無様だね、ボクの敵」
その明るさに染みのような黒を滲ませたような声は、頭上から。
魔術の明かりと共にゆっくりと宙を下りてくる白の矮躯は、僕の有様を見て不敵に笑む。
「……来たかよ僕の敵」
舌打ちして、スライムで右肩を包んだ。……ヒーリングスライム、実は生命力を賦与するだけで痛みを苦しみを和らげる効果ないんだよな。今回、必要性を文字通り痛感したぞ。
「フフン、来るとも……と。きっとここが最奥で、だからこれが最後の好機だと思ったからね……おっとと」
「落下制御くらいもっと危なげなくこなせ」
フラつきながら落ちてくるなよ格好のつかないヤツだな……。どちらが無様なんだか。浮遊や飛行ならともかく、その魔術はそんなに難易度高くないハズだぞ。
「くらい、なんて言うなよ。この魔術は修得難易度はたしかに高くないが、実践機会が少ないから慣れにくいんだ。高いところから落ちるんだよ? 失敗したら怪我必至、運が悪ければ死んじゃうのに、そう何度もやりたいと思うかい?」
そう言われるとたしかに……修得と習熟は違うからな。火の弾をぶつけるとか風の刃を出すとか水を凍らせるとかよりよっぽど身体を張った魔術である性質上、多少の拙さには目をつぶるべきかもしれない。
なんて言うと思ったか。
「肘より先でしか魔力制御に慣れてないからブレるんだ。身体全体で魔力を回せ初級魔術士」
「失敬な。これでも中級くらいの実力はあるし理論だけなら最上位も……おお? なるほどかなり安定するねこれは」
「頭でっかちの小手先女め。いかに普段から魔術を使ってないかがよく分かるな」
「ま、錬金術なら極論、魔術なんて使えなくてもいいからね。そうだろう、ボクの敵?」
まったくもってその通りで、だから僕は舌打ちした。僕は魔術が使えなかったから錬金術師になったが、この相手は魔術を使えるくせに魔術に価値を見出していない。
「ま、キミは魔術が使えないせいで、高いところから落ちた程度でそのザマなんだけど。もう一度言うよ、無様だねボクの敵」
高みから見下ろす彼女は、挑発的に口の端を上げた。嫌味に続く言葉は、女の影の色をしていた。
「よく分かったかい? それがキミたち異世界転生組の限界さ。キミたちは魔法法則に馴染めず、物理法則に囚われる宿命を持っている。それは本質的にこの世界の者じゃないからなんだよ。異邦人」
……キッツいな。この世界の仲間はずれだなんて、そんな分かりきったことをわざわざ。
話している間もククリクは高度を下げて、ふわりと地面に降り立つ。
そうして、僕らは二人きり、対峙した。
「なんで僕を突き落とした? 僕の敵」
「さっきも言っただろう? これが最後の好機だと思ったからだよ、ボクの敵」
「つまり、最初から狙っていたワケだ?」
「もちろん」
星座のように、地面が淡く光っていた。でかい天球儀の上にいるかのようだ。
魔術の使えない僕の視界は、その地面の光とククリクの生み出す魔術の明かりで確保されている。
「そう、最初からさ。最初も最初、あのソルリディアの遺跡でキミの名を知ったときだ。ボクは嬉しくて嬉しくて、当時魔王だったゴアっちにこう宣言したよ。此度の勇者と魔王の戦いは、もはや茶番に堕した……ってね」
浮かべた笑みは、喜色に満ちているように見えて。
きっと彼女は、この瞬間をずっと、本当にずっと待ち望んでいたのだろう。
「さあ、謎眠る遺跡の最奥だ。小うるさい邪魔者たちはしばらく来ない。なら、茶番はもういいだろ? 学徒ククリクと錬金術師リッド・ゲイルズの闘争には相応しい舞台じゃないか。もちろん是が非でも付き合ってもらうよ、ボクの敵」
クルリと背中を向けて、大きく腕を広げて。
白い学徒は、魔術の明かりを操作する。
「コレは、なんぞや?」
問いに、僕は答える。
「神かな」
赤黒く、てらてらとした途方もなく巨大な何かが、ドクンと脈動した。




