神の腕の力
僕と黒髪の少女が部屋の中に入る。残りは部屋の外で待機をお願いした。術式はなるべく不確定要素がない環境で使用したい。
モーヴォンの言うとおり精霊に敵意はないようで、近寄っても動き出すような気配はなかった。さっきと同じく、少し波紋が増えただけだ。
「神の腕はこの原初の水から、全ての液体を汲み出した。同じ神の腕の力を使える君であるなら、それと同じことができるはずだ」
説明しながら、僕は羊皮紙に魔術陣を描く。真水を手に入れるなら濾過と蒸溜が定番だが、今回は魔法的な生成をしなければならない。
原初の水はあらゆる液体の祖なのだから、当然ただの水でもあるわけである。だから変換ではなく性質を引き出すというのが正しいんだが……ううむ乱数幅が酷いし、絞るためにも術式の回路を細長くとった方がいいな。
しかし要求される術式自体は簡単だけど、問題は人間の肌でも強く感じるエグい魔力含有量だ。このレベルだともう真エーテルみたいなもんだろ。これを水にするって逆に難しいぞ。生成段階で消費し尽くしてやらないと飲料水になんかできないじゃないか。
「普通の方法ではできないのですか?」
レティリエの疑問は当然のものだったが、僕はそう聞かれることを予測していなかった。術士からしたら自明すぎて、改めて説明する必要性すらないと思っていたな。
そもそもこれ、普通の方法が存在しないんだ。希少すぎて。
「……そうだな。決して不可能ではない。ただ、僕の実力だと難しいかな」
「リッドさんでもですか?」
純粋な声音でそんなふうに聞かれると困る。別に僕、世界で最高クラスの錬金術師とかじゃないんだけどな……。
「オリハルコンの加工並の技術が必要だよ。僕が自分の力だけでやろうとするなら、ナーシェラン王でもキレる額の資金援助が必要だろう。それでじっくり数年ってところか」
「それだけの難行を、勇者の力はあっさり可能にするのですか……」
「本来の用途が世界創造の力だからな」
勇者と言えば華々しい戦いの詩が浮かぶが、あれは全て仕様外使用なんだよな。そもそも勇者という呼び名すら正確ではないのだし、それも当然ではあるのだけれど。
「ですが今、リッドさんは魔術陣を描いていますよね?」
「ああ。君の協力を得る前提なら、水くらいはなんとかね。これでも錬金術師の端くれだから」
僕は完成した羊皮紙をレティリエに渡す。
詰め込み過ぎて文字がかなり細かくなってしまったが、羊皮紙一枚で書き終わる程度の術式である。
いや、ちょっとケチり過ぎたな。これだと一回の生成量が少なくなってしまいそうだ。まあテストで一回やってみるだけなら、これくらいでちょうどいいと思おう。
「さっきは難しいと言ったが、水の生成式はそこまでじゃない。飲めるくらいの魔力含有量にするのがキツいだけで。けど、どうやらこの原初の水には精霊がついているらしいからな。せっかくだから協力してもらおう。」
ゾニは警戒していたが、モーヴォンは指示待ちと言っていた。これが神の腕に使われるために存在しているのであれば、実はこの精霊さんは協力的なのではないか。
「つまり、だ。精霊を制御系の一端に組み込み、汲み出す際に内包魔力を引っ張らせながら物質としての原初の水を摘出するんだ。実体だけとって魔力だけを精霊の中に置き去りにするわけだな。ただ、それはそれとして原初の水から水分子への調整と定着のための魔力も必要であるからタイミングは術式を潜らせる最中であるべきで、だから本来ならわりとシビアではあるんだが今回は精霊に意思があることを利用して自己保存本能に働きかけ―――」
「あ、いえ。そういう説明はいいです。本当に聞いても分からないので」
くぅ、この超特殊状況下での適解を導き出せたのちょっと自慢したかったんだけど、さすがに術士じゃないとついてきてくれないか。
とはいえモーヴォンは精霊相手ならセンスでゴリ押ししそうだし、ククリクは僕よりベターな手法を考えつきそうだし……。
「まあ、とりあえずやってみようか。レティリエ、聖属性の魔力をその術式に通せるか?」
「できると思います」
「なら精霊の前に置いて発動させてくれ。……ああ、もう少し近くに。かすめる程度に浮遊に使われてる魔力を解除して一部を切り離すから」
場所だけ細かく調整してから一歩引く。これ以上、僕にできることはなにもない。あとはレティリエが魔術陣に魔力を通すだけだ。
要領としては、僕の弟子たるネルフィリアに探査の術式をやらせたときと同じ。ただ、レティリエは魔術士としての訓練は積んでいないからな……。
まあ、彼女が戦闘時に見せる魔力放出の制御は実のところかなり精緻だから、そう心配することはないだろう。あれだけの魔力量をあの精度で使用するとか、ちょっと並の魔術士ではマネできないぞというレベルである。……剣をぶん回すのに、そこまでの緻密さが必要かどうかは置いておいて。
屍龍を斬った時に剣以外の装備が蒸発してなかった時や、ターレウィムの森で魔素感知を試したりした時も魔力制御の才能は感じていたが、それが顕著になったのはチェリエカの後くらいかな。あの頃やっていた訓練を通じて、なにか掴んだのかもしれないと僕は睨んでいるが……―――
「それでは、やってみます」
レティリエはそう、気負いを感じさせない調子で魔術陣に向かう。
胸の前で何かを持つように軽く両手を開き、精神を集中して彼女は魔力を練る。その課程に淀みなく、魔力は滞りなく魔術陣へと通り、彼女はやはり剣よりも魔術の方が向いていたのだろうなとセンのないことを考えて。
「あ、やべ……―――」
彼女が勇者としてではなく、本来の力の使い方―――神の腕として力を使うのはこれが初めてなのだと、やっと思い至った。
液体のキューブの頂点からほんの一滴、原初の水が分離する。それは重力に引っ張られながら魔術陣の式の螺旋を通り、水の性質を引き出されていく。そこに聖属性の魔力を当ててやれば曖昧だった存在が証明され、水として定着する―――その課程で、誤作動を見た。
室内の空気が、すべて水に置き換わった。
位相の変換。理の裁定。世界の法則を変えてしまう力。
神の腕。
呼吸のように水を吸って、盛大に咽せた。貴重な酸素が肺から押し出され、慌てて手で口を覆う。気泡が天井へと逃げていく。
一瞬だった。一瞬で、水の中にいた。
飛び込んだわけでもなく、せり上がってきたのでもない。瞬間移動の方がまだ現実味があるが、視界の端に驚きの声をあげているらしいミルクスとククリクが見えて、同じ場所であることを悟る。
つまりは、一瞬にして部屋が水槽になった。馬鹿げている。
水が欲しいと願い、原初の水が存在し、魔力があった。―――だからって。
部屋の中を水で満たしたのではなく、空気がまるごと水に変換されてしまったなんて、ミスで起きるか普通。
「なるほど、こうなるのですか」
落ち着き払った声は、僕がよく知るもの。水の中でも発音に一切の濁りなく、聞こえたそれは黒髪の少女のもの。
「凄まじい量の水属性の魔力に、存在意義が確立していない原初の水。それを媒介に聖属性を操れば、空気を水にすることもできてしまう。すぐに解けてしまう魔法ではなく、この水はもう実体として存在してしまっているのが分かります。本当に、世界の在り方すら変えてしまう、危険な力なのですね」
水中での呼吸、発声になんら不便を感じさせず、起こったことを冷静に分析するレティリエ。その彼女はいまだ胸の前で何かを持つような姿勢を崩さず、魔力を練っているように見えた。
―――まさか、コントロール……している?
「一つ、聞いていいでしょうか?」
この水の中で呼吸できるのは彼女だけなのか、それとも僕も勇気を出して水を吸ってみれば酸素供給されるのか、多分前者だろうなこれと思いつつ頷く。いくらなんでも、他者の呼吸まで面倒見れるような運用、術士ではない彼女にできるとは思えない。
溺れるまで多分、あと一分くらい。この状況でパニックになってないのは上出来だと思う。
多分、僕はこの状況で……呆れていた。
「なんで勇者の力が、神の腕の魂だと教えてくれなかったんですか?」
ここまでやっておいて、世界を変えてしまう力の片鱗を使ってまで、彼女は僕に文句を言いたかったのだろうか。多分そうなんだろうな。声も表情も普段通りに見えて、ずいぶんお怒りになっていらっしゃる。
僕、けっこうな前科あるもんな……。本当に、僕は彼女を傷つけてばかりいる。
そんな自身に呆れ果てて、けれど残念ながら、きっと何度やり直してもそうするのだろう。
「それをあまり使うな。気が狂うぞ」
僕は肺の中の空気を絞り出して、それだけを言う。
警告だけど、答えでもあると伝わるだろうか。そんな杞憂を抱きながら、僕は溺れるにまかせて意識を失った。




