追加の条件
「…………思い出した。セーレイムの教典か」
時間がかかったのは仕方がない。敬虔な信者じゃないし、ざっと目を通したくらいだもんな。しかも僕がまだ実家に居たころの記憶だ。
世界のことを知るため文字が読めるようになってすぐ宗教について調べたが、僕がマジメに教典を読んだのはそれっきり。もはやおぼろげにしか覚えてないぞそんなん。
「汝、隣人に愛されたならば幸福を求めよ。自分が幸せになると、親しい者の心を安らがせるから二倍ハッピーってヤツだろ」
「……ええと、間違ってはいないのですが」
はぁ、とこれ見よがしに溜息を吐く。さすが神聖王国フロヴェルスの出身。しかも元王族だ。
倫理、説諭、言いくるめの類は宗教の十八番。感情論に付き合えばあっさりペースをもってかれる。あまり真に受けない方がいい。
「正しくは―――汝、隣人を愛したならば幸福を助けよ。汝、隣人に愛されたならば幸福を求めよ。即ち皆で幸せを追って分かち合うという教えであり、さらに一つ踏み込んで解釈すれば、幸福を求めるは全ての人の義務であるという訓戒です」
「ハッ……失笑するね。妬み、嫉み、ってものを考慮してない教えだ。他人が幸福になる姿を見て、悪心を抱く者だっている。それが悪人なら特に、だな。自分を殴ったヤツが大金を拾うの見たら、背中から襲うだろ?」
「そんな例えを当たり前のように言われても……突き詰めれば、そういう事例を根底から無くしてしまおうという教えなのですが」
その突き詰めって億年単位で取り組んだ結果の話? 気長な話だな。全人類の精神浄化してディストピアを開くつもりだろうか。
ていうか、わりと心底から嫌いなんだその教え。前提がムカつくから。
「誰も愛さず、愛されていない者はその訓戒には当てはまらない。故に、神が幸福を求めるは全ての人の義務と宣うならば……当てはまらない者は人でなしと言うつもりか?」
「いいえ。神が愛を説き、教会が訓戒にしたのです。義務を果たせぬからといって人が人でなくなるはずもなし。神はそこまで狭量ではなく、教会は迷える者をこそ救うでしょう」
神の言葉と教会の決め事は違う、か。訓戒の方はあくまで教会が、人が社会で生きるうえでのお役立ちポイントとして設定した解釈であり、それから逸脱する者は教会の介入もとい救いの手を差し伸べられる、と。
しかしダルいな。即答で返してくるってことは、僕のはありきたりな反論だったんだろう。こういう問答はわざと素人でもツッコミ入れやすいとこを作っておいて、それに対する答えをあらかじめ用意しておくものだ。……これだから宗教家との話はイヤなんだ。
ていうかなんで僕、魔王相手に宗教問答始めてるの? 冷静に考えてこの状況、何もかも間違ってない? この話、スッゲェ無意味じゃない? なんか急速に熱が冷えてきたぞ。
「それに、なにも難しいことではないのです。初対面で少し話しただけの人が今日の家路を無事に歩けるよう、気をつけて、と声をかける。毎朝道で見かける人が、今日に限って見当たらないから少しだけ心配する。遠くから聞こえる子供たちの元気な声に、微笑ましく思う。ここでいう愛とはそういう、ささやかなものでいいのです」
あー、それはアガペってヤツだな。前世でもあったやつだ。
汝、隣人を愛せよ。そのままじゃないか。
「それは他者を思いやる心、他者の幸福を喜べる心であり、それを持つごくごく一般の人々は、他者の不幸を悲しむ心も持つでしょう」
「だから幸福を求めよってことに戻ってくるんだな。自分のためのみならず、他者のためにも。たしかに知り合いが自殺しそうなほど追い詰められていたら、僕だって気にはなるさ。なんかできるならしてやろう、くらいには思うだろ。そういうのは分かるがね」
「そうですね。そして私にはちょうど貴方がその、自殺しそうなほど追い詰められている人のように見えるのです」
ヒュゥ、大変だ。気の毒な人だと思われちゃってるわけだ。
まあたしかに僕のことを、前世の罪に囚われている、と見ているのならば……その通りなのだろう。
あるいは、本当に僕はその通りの人物なのだろう。
「まあ……君の言い分は理解した。前向きな努力を検討しよう。ただ、それは僕の心理の奥深くに宿るものだろ? 今日明日でなんとかできることだとは思えないから、すこし時間がかかることは了解してくれ」
だからどうした、という話である。僕は口先だけで宗教家の説諭を受け入れた。
僕は別に死にたいとも思っていないし、不幸になりたいとも思っていない。分不相応が気持ち悪いだけだ。
彼女から見て僕の功績は輝かしく見えたかもしれないが、今まで僕一人の力でできたことなんか一つもない。自分で自分の実力を認められないのに、いらないものを押しつけられても重荷でしかない。
そもそも、僕はそこまで素直な人間じゃないのだ。大して僕のことを知らない相手に勝手に決めつけられて、ありがたいお話を聞かされても心に響く訳がない。
「いいえ、まだです」
適当に終わらそうとしたが、魔王は食い下がった。さすがにそろそろ面倒になって、僕は頬の内側を軽く噛む。
相手が大切な交渉相手でなければ、右から左へ聞き流せるんだが。
「貴方が、私が思い描いていた異世界転生のヒーローでないというのなら。強くなく、勇士でなく、尊き心も持ち合わせず、ただの小悪党であると言い張るのであれば」
言い張るけどさ。
「貴方は臆病者で、卑怯者のはずではありませんか。それでは今の言葉は信用できません」
…………おお、それは道理だな。一言も反論できない。
ちょっと嬉しくなったじゃないか。ちゃんと理解してもらえたらしい。なんだ、話の分かる相手じゃないか。
「決めました。魔族軍の魔界への撤退に、条件を付けます。―――魔界の瘴気への対処法を見つけること。そして、人族の錬金術師リッド・ゲイルズが幸せになること。この二つの成立をもって、魔族軍は人界より立ち退きましょう」
―――どうしてこうなった。
「おや、どうしましたか? 顔色がすぐれない……のではないですね。面白い表情をされていらっしゃるようですが」
「わざわざ正しく言い直さなくていいぞルグルガン。僕にはちょっと、君の王が理解できなかっただけだ」
扉から出ると、先ほどと全く変わらない位置で褐色肌の魔族が立っていて、茶化すように声を掛けてきた。首から上を視界に入れないよう気をつけているから相手の表情は見えないが……声が笑ってやがる。
「あ、終わったのですねぇ、お疲れ様でしたぁ。ではルグルガン様、お片付けに入室しますがよろしいですかぁ?」
「ええ、よろしくお願いします。ペレリナンナ」
近くで待機していたもう一人の魔族ペネリナンナが、ルグルガンの了解を得て僕と入れ替わりに部屋へ入っていく。……うん、今めっちゃ面白い顔したな彼女。なんて最高な心の清涼剤だ。やさぐれてた胸に涼風が抜けた心地だね。ちゃんと名前覚えてやれよルグルガン。
「それで……君は近衛騎士隊長だったか? 護衛として中の様子は気に掛けていたんだろ? 話の内容まで把握してるか?」
「まさかでしょう。我が王の意に沿わぬ行いをする気はありません。魔王様が大きな声を出すか、あるいは貴方が武器に魔力を通すかしなければ、部屋内に干渉する気はありませんでしたよ」
ふん、ちゃんと忠実な配下やってるわけだ。どこまで信じられたものか分からないが。
「君らの王は、条件付きだが人界からの撤退に合意したぞ」
「ほほう、それはそれは」
いかにも予想通り、という反応を見せるルグルガン。声には戸惑いもない。
意外だな。もう少し驚いてくれると思ったんだが。
「君たちはそれでいいのか? この王都を落としたとき、けっこうな被害も出たと思うが」
「前魔王の招集に応じ侵攻に参加した者は、皆戦士でしたよ。戦死に文句を言うほどに落ちぶれて亡者になったなら、魂ごと燃やし尽くしましょう」
「……惜しくはないのか?」
褐色の青年は、ふ、と小さく笑ったようだった。本当に興味もなさそうに。
「人界には、神がいるのですか?」
……あー、これは神学でも、哲学でもないな。この質問、ただそのままの意味だ。
神が座する場所は人界なのか。
神を殺すためには、もっと人界へ攻め入ればいいのか。
「見たことはない」
たとえばあの山脈の女王なら、神と呼称してしまっても問題ないだろう。が、この男が殺したいのはああいう存在ではないと思う。
「では、まずは魔界をくまなく探しましょう」
優先順位の変化ってことか。すごいな、本当に神を殺す気だ。
……おそらく、だけれど。彼ら魔族は人族が憎かったハズだ。
神に愛され、瘴気から護られた人界にて繁栄を謳歌する、自分たちを特別と思い上がって疑わない者たち。それはそれはおぞましく、煩わしく感じていたのではないか。
けれど、たしかに魔族が新しく信仰する神が存在するというのなら。人族の認識はすべてが恥ずかしい勘違いで、憐憫の念すら抱く無知の権化なのだろう。
魔族にはもう、わざわざ人族を相手にする理由がないのか。
しかし―――魔王はあれだけ敬虔な宗教家なのに、配下は神を殺す気満々なのがなんとも怖いね。どこかで致命的なズレが生じないといいけど。
「それで、人界からの撤退の条件とは? 瘴気問題の改善は当然、要項にあるのでしょうが」
そのルグルガンの質問はまあ、話の流れからすれば当然聞かれるものだった。……が、僕にはそれにどう答えるべきか悩む。
未だに意味が分かっていない。どうしてああなったのか、誰か説明してほしい。
「たとえば、猫かな」
「……はい?」
「犬でもいい。両方いればさらにいいかもだ」
魔王と前世の話をしたからだろうか。かつて、ひたすらかわいい動物の動画を流し続けて精神の安定を図った経験がフラッシュバックしたんだよな。
うん、猫も犬も幸せの形してるよ。フェレットとかも可愛い。フクロウとかも好きだな。
「郊外に小さい家を建てて、犬と猫を飼いながらささやかに暮らすとか、幸せな構図だと思わないか?」
「はぁ……物好きですね。山猫と狼ならば魔界にもいますが、飼うのは大変では?」
「それまず間違いなく魔獣だよな。魔界で普通の動物が生きてけると思えないし」
ダメだ認識のギャップが違いすぎて話が噛み合わない。人族と魔族の壁厚いな。……あと、もしかしてこの男はほとんど城から出てないのかね。街には猫や犬くらい残ってるだろ。
まあでも……たしかにルグルガンの言うとおり、飼うのって大変は大変なのかな? 動物ってマトモに飼ったことないから分からないな。多分ホムンクルスよりは楽だろうし大丈夫だと思うんだが。
「もしや隠居でも条件に出されましたか?」
「いや、そうじゃないんだが……極めて個人的で、かつセンシティブなうえにファジーでアバウトな広義過ぎるクエストをいただいて困惑しているところだ」
「率直に文面のままならなんと?」
超恥ずかしいから言いたくないんだけど。でもどうせ、後で魔王から聞くんだろうなコイツ。
「僕に幸せになれ、と」
「なんだ、そんなことですか」
なにをそんな簡単なことを、と言わんばかりに呆れた声音でそう口にしてから、ルグルガンは己の胸に手を当てた。
「ならば良い方法がありますよ。魔族軍に入り、我らが素晴らしき魔王様に仕えるのです。貴殿であれば好待遇を約束しましょう」
「それが速攻で出てくるの、本気でガチなヤツじゃないか……」
陶酔した声しやがって……カルト宗教怖っわ。過去最高に関わりたくないと思ったわ。
「まあ、そちらの立場からして現実的ではないのは承知していますが。そうですね、魔王様の近衛騎士隊長という立場から助言するのであれば……敬愛する誰かのために生きる、というのはこれでなかなか、他では得がたい心の充足をもたらしてくれますよ」
「…………ああ、それはその通りだろうし、あながち悪くない幸せなんだろうがな。一つ聞くが、魔族である君はこんな条件に怒りはないのか? もっと魔族の実利になるような条件を付けるべきだと思わないのか?」
「ククリク殿あたりであれば怒りもするでしょう。ですが貴殿には少々、我々に対して認識に誤りがあるようです。……我らはそもそも、損得を計算してあの方を魔王に推したわけではありません」
もうヤダ。理解できない相手との交渉とかマジ無理ゲー過ぎる。会話がギリギリ成立するレベルだって誰か先に教えててくれよ。
こっちは商談に来てるのに、あっちは詩を詠んでるんだもん。勝ちも負けもあったもんじゃない。
「そうか、君がそう言うならそうなんだろう。魔族軍に魔王殿の付けた条件の変更を陳情して貰う、なんて期待するだけ無駄なわけだ。つまりあとは僕の問題だけってことだな。せいぜい考えておくさ」
「答えはすでに用意されていると思いますよ。我らが魔王様は、絶対に解けない無理難題を出す御方ではありませんから」
あの女好みの幸せの形を提示しろってわけね……クソ問題ここに極まったか。
はぁ……とにかく前向きに考えようかね。答えがある、というルグルガンの言葉が真実であるなら、魔王は人界からの撤退をかなり真剣に考えている、ということだ。どうとでも取れる条件を出して、のらりくらりとダメ出ししながらタイムアップまで粘る気はないと。
であるなら、向こうの想定した条件さえ満たせば……いいや、瘴気問題だけでも解決すれば僕の幸せ云々の話なんかは満たさなくても、魔族のためであるならば撤退していくだろう。それが理性ある為政者の判断である。
つまり交渉自体は大成功。こちらは予定通り瘴気問題について調査をすればいい。
ま、向こうのメンツがたつくらいの、幸せな僕の未来予想図をプレゼンするくらいは必要だろうかな。パワポで適当に資料作って仕事した気になっちゃうあの感じでいこう。
そこまで思考したとき、不意に、カツン、と硬質の音がした。
固い靴底が床を鳴らしただけで、けっこう響くものだと感じた。
夜のこの城は、それくらい不気味なのだ。
音がした方向に視線を向けると、柱の影から浮き出るように、仮面の黒外套が姿を現す。
白い仮面の、目の部分にだけぽっかりと空いた丸い穴が、僕へと向けられていた。




