同郷の女
「それはこっちの台詞だ」
魔王の問いかけに、僕は即答で返していた。
「僕らが魔界へ行くには多大なコストがかかる。今回のように数人ならまだしも、軍隊なんか送り出すのは非現実的だと言っていい。けれど、魔族はなにもなくても人界に出てこれるじゃないか。領界侵犯を一方的に冒せるのは、過去も今も君たちの特権だろう」
「ですが、未来は分かりません。人は発展していくもので、貴方はそれに拍車をかける存在だと認識しています」
魔王は山吹色の瞳を細める。……僕はどうしても同じ顔のネルフィリアと重ねてしまうが、あの少女の顔は想像できなかった。
余裕があり、落ち着きがあり、そして気高さがある。
優雅、という言葉が頭をよぎる相手だ。正直、レティリエに聞いていたイメージとは違う気がするな。知的で優秀だが空回り気味な女、という印象だったんだが。
「実は、貴方と会うのはとても楽しみにしていたのです。とても、とてもワクワクしていました。レティに会うのと同じほど、貴方にも会いたかった。噂はいくつか耳にしていますよ、リッド・ゲイルズさん」
微笑んでそう言った女は、心臓の鼓動を確かめるように己の胸に手を当てる。……なんだか妙に声が弾んでいるように聞こえて、僕は眉をひそめて訝しんだ。僕個人が危険視されていることと、向こうが上機嫌になる理由が繋がらない。
……というか、僕の噂か。そういえばフロヴェルスで少し話したときそんなこと言ってたな。あのとき彼女は、たしかに僕を認識していた。
噂なんて、前世も今世もあまりいいものが広まった覚えはないんだが。
「学徒ククリクからは、人族最大の危険人物であると」
「評価が過大だな」
「近衛騎士隊長ルグルガンからは、勇者より先に対処すべき相手と言っていましたね」
「戦いの時は僕を狙ってくれるってことか? 助かるね」
「竜人族のゾニからは、前魔王より面白い、と」
「あれと比べるなよ……」
まったく、辟易するね。魔族軍でも名うてのお三方からの熱い批評とは。
魔族から見て、どうやら僕は注目株らしい。たしかにこれでも勇者の仲間だもんな。そりゃ、個別評価くらいされるか。
「貴方は人族の中で一番、魔族に警戒されているのです。それこそ、勇者よりも」
嬉しそうに、詠うように、今代の魔王は言葉をつむぐ。
僕に向かって、最大級の敬意を込めて。
「彼の者こそは人界に在る災厄。もし魔界が滅びるとしたら、それはあの錬金術師のせいでしょう、と」
僕はテーブルに置いていたカップを手に取る。口元に近づけて香りを少し楽しんで、まだ熱いお茶で舌を火傷しないよう、ゆっくり傾けて口の中を湿らせた。
まだ残る中身をこぼさないように気をつけて、音を立てないよう慎重にカップを置いて、僕は口を開く。
「……なに言ってんの?」
素が出た。
クスクスと魔王は笑った。口元を手で隠し、ただの少女のように。そういう仕草はやっぱネルフィリアと瓜二つだ。まあ彼女がネルフィリアの人格に大きく影響しているのは、改めて考えるまでもなく当然なのだが。
「世界のコトワリを変えた大罪人。竜の女王の加護を得た勇士。人族にして瘴気を操れる境界越えの術者。知略知謀の賢人にして真実の探求者。勇者の仲間の錬金術師、リッド・ゲイルズ」
やめろそれ全部恥ずかしい。
一番目は甘んじて受け止めてもいいが、二番目と三番目は盛ってるし四番目は心当たりもないぞ。
「そして、異世界からの転生者。ですよね?」
「……他はともかく、それは認めるしかないが」
「もうお知りでしょうが、私もです。身体が弱く病床に伏し、成人前に死した身ではありますが、こうして新たな生を受けることができました」
ふわり、と。彼女の笑顔が和らいだ気がした。最初から敵意の類は微塵も感じない相手だったが、さらに同士であることを言葉にして確認したことで、親近感が緊張を緩めたようだ。
ふぅ、と僕は少し、ほんの少しだけ肩の力を抜く。どうやらここからは魔王対勇者の仲間ではなく、世界を越えた同郷との会話となるらしい。
「君が転生者なのはレティリエから聞いているし、もう一人の同郷とも少しだけ話題になったよ。ラーメンを食べたことがないんだったか?」
「やはりあの男とも会っていたのですね。ええ、恥ずかしながら前世ではあまり外を歩くこともできず、普通の人がごく当たり前に見聞きすることすら私には遠いものでした」
ほぼ病院生活ってことかな。外出制限と食事制限をされて二十歳前で病死してるとなると、どんな病気かね。
まあ病名を聞いても分からないとは思うけども。
「別に、恥ずかしいことはないだろ」
たしかに彼女の前世は、いろいろなことを経験せずに終わったのだろう。けれど人生の価値は経験の多寡ではないと、少なくとも僕はそう思う。
新たな生を受けることができた、と。転生をあんな顔で喜べるような者が、恥じることはなにもない。彼女は前世、最期まで懸命に生きたに違いないのだから。
「―――はい……はい。ですが、今世では健康体で産まれることができましたので、前世では本で読むことしかできなかったことを多く経験することができています。……さすがに、ここまで突飛な人生になるとは思っていませんでしたが。これもセーレイムの導きでしょうか?」
「すまない。神についてはノーコメントにさせてくれ。神学は専門外なんだ」
「あら、そうでした。貴方は術士でしたね。神は信仰対象ではなく研究対象ですか」
術士にも敬虔な信者は多いけどな。まあその辺の細かいことはいいや。
「分からないことへの明言は避けたいだけだよ。……貴女が魔族に広めた新興宗教に関しては、いろいろ言いたいこともあるがな」
「あ……もしかして、原典をお知りですか?」
「原作を読んだことはないから詳しくないが、有名だから少しだけ知ってるって程度だ」
だからそんな期待に満ちた目で見ないでくれ。僕には君の趣味話に付き合えるほどの教養はないから。
「あれは、私としても予想外だったのです。まさか、みなさんがあんなに喜んでくれるとは……」
神にとって魔族は邪悪な敵であり、そして魔界に魔族の神はいなかった。その代わりに魔王がいて、たぶん王と現人神の役割をしていたのだと思う。
そんなところに、彼女は新たな神の概念を持ち込んだ。
それは作り物でハリボテだったけれど、前世でも有名だったその物語の量と質は一級で、その神の在り方はいかにも魔族好みだった。
この世界を創ったモノは、この世界の全てを平等に愛していない。
故に、魔族は忌み子ではない。
その神を殺したい、とルグルガンは言っていた。そうすることで魔族の価値を奪い取ることができる、と。
歪な信仰だ。殺すために居てくれと願い、だから信じるなどと。
「私はこの世界に神がいたとして、ああいう類のものであるとは思いません」
元フロヴェルスの王女は、伏し目がちにカップの中の液体を眺める。紅色が映す燭台の火が揺れていた。
「私が魔王の座についているのは、自身も信じていない虚構の神を語ったがため。詐欺師のようなものなのです。本当は王を名乗る資格なんてありません」
これはきっと、彼女の懺悔なのだろう。
たとえルグルガンたちが、すべて知ったうえで喜んで虚構の神を信仰しているのだとしても。……彼女は罪悪感を抱くに違いないのだから。
「本来の私は、なんの力もない小娘にすぎない」
その声は暗く、苦しそうで、少し震えていた。
しん、と静まる。深夜の無音が僕と彼女の間に降りる。……まいった、気の利いた言葉が出てこないな。
彼女の言うとおり、たしかに小娘なのだろう。運命の手違いで魔族の王になってしまった、イレギュラー中のイレギュラー。この件に関しては何一つフォローする材料がなくて、しかも僕なんかが軽々しく口を出すのは躊躇われる問題だ。
しかたなく、僕は再度お茶に口をつける。……もう残り半分か。ケトルはペネリナンナが置いていったから、一応自分でおかわりしようと思えばできるんだが。
「ですが、貴方は私とは違う」
伏していた瞼を上げた彼女は、そう言って真っ直ぐ、僕へ視線を向けた。
「貴方にはゴアグリューズのような生まれ持っての力はありません。私のように事故のような運命の悪戯もない。……貴方は自分の意思で勇者の仲間となり、実力のみでここまで来て、さらに先へと進んでいく」
闇の中で希望の灯りを見つけたときみたいな、潤む瞳で。
「まるで、真の英雄のように。物語の主人公のように。―――私が、そう在りたかった姿そのもののように」
今、やっと僕は理解した。本当に今更ながら分かってしまった。
彼女がわざわざ、僕だけをここに呼んだ理由。僕と会話したい、となぜ思っていたのか。
「魔界の調査をしたい、と。瘴気が濃くなっている原因を探り、その対処がしたい、と。そう書かれた手紙を見て、飛び跳ねたくなるほど心が躍りました。返事を書く手が喜びで震えないかなんて、初めて気をつけました。そうして貴方は、本来敵地であるここに正面からやってきました。一刻の時間も惜しいと、人族に不利な夜であることも厭わず。―――……それを知って、私は玉座に座って待つのをやめました」
彼女は、酷い勘違いをしている。恥ずかしくて申し訳なくて、こちらが顔を覆いたくなるような、そんな思い違いを。
「貴方は、本当に世界を救うつもりなのですね―――と。それが分かってしまったら、こちらから出迎えるしかないでしょう?」
これ新手の拷問かなっ?
「同じ異世界からの転生者として、私は貴方を誇りに思うのです。とても、とても誇らしいのです。勇者の仲間として世界を救おうと邁進してきたその強さ、魔族も含めてこれ以上の血が流れない方法を探す尊き心。同じ転生者として、貴方のような方が居てくれることがどれほど励みになったか。―――ええ、そうなのです。私は、貴方のファンなのですよ」
まるで……まるで憧れのスター選手を目の前にしたスポーツ少年みたいなキラキラした瞳に晒され、僕のテンションが急激に下がっていく。いやもうホントにだだ下がりである。どうしようこれ大切な会談なのに。誰だよ僕と彼女の感情値に反比例の数式当て嵌めたヤツ。
思えば、こういう相手は今までいなかった。弟子のネルフィリアですらこんな感じじゃなかった。もっとこう、みんな僕を雑に扱ってくれていた。今にして思えば、あれめっちゃ心地よかったんだな……。
「いや……あのな、魔王さん? 僕はそんな……」
「そうだ。一度聞いてみたかったのです。貴方は、前世の世界ではどんな御方だったのですか? もしやとても有名な偉人だったりするのではありませんか?」
ゴメンなんかもう涙が出そう。初めて感じる胸の痛さなんだけど、これで死なせてくれないかな? ダメかうんダメだよね。窓ガラス割って飛び降りて逃げるのもダメだよね。
レティリエ、すまない。今から君の元主の幻想を壊すよ……。
「膝」
僕が口にした短い単語に、同郷の女は首を小さく傾げる。




