ペネリナンナというサキュバス
「―――取り入る、とは?」
姿勢良く背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いて椅子に座るレティリエは、テーブルに肘をつくサキュバスの視線を正面から受け止めた。
普段より声のトーンが低いのは気のせいではないだろう。瞳には強い警戒心が宿っているように見えた。
「イヤですねぇ、そんな恐い目で睨まないでくださいよぉ」
対するペネリナンナは朗らかだ。今代の勇者である少女を見上げてニコリと笑ってから、僕を横目で見る。
「怒った顔って損ですよぉ。ねぇ? お兄さんもぉ、勇者さまは可愛く笑ってる方が好きですよねぇ?」
「……君、損得で表情作ってるのか?」
「そんなの当然じゃないですかぁ」
言い切るかぁ。ホントしたたかだなこの淫魔。もう一周回って気持ちいいわ。
じゃあさっき僕に一瞬だけ悪い顔見せたのも計算だな。……オーケー、もう分かった。分かりました。僕が愚かだったよ。
相手は凄腕のプレイヤーだ。交渉は向こうの十八番と心しよう。
「ご……誤魔化すのはやめてもらえませんか?」
少々どもりながら、苦々しい顔でレティリエが声を絞り出す。
こいつの相手、マジメな雰囲気が続かないからツラいよな。分かるよ。そうやってペースを乱してくるんだ。
「新魔王……殿に取り入って、あなたはどうするつもりなのです」
「んー、そんなふうに怒られるようなことは、何一つしないんですけどねぇ」
ペネリナンナはクスクスと笑って、からかうように舌を出して見せる。
「むしろ逆なのです。お姉さん、新魔王さまを尊敬? しているのですよぉ。ですからお近づきになりたくってぇ」
なんで尊敬の後に?入れた。
「尊敬……ですか?」
「そうなんですよー。ほら、多分ですけどぉ、あのお方って戦う力とかないでしょぉ? それなのに捕虜から魔王になっちゃって、お姉さんすっごくビックリしたんですよねぇ。人族のみなさんには分からないかもですけど、これって本当に歴史が変わるくらいの一大事だったんですよぉ。なにせ魔王は強い人がなるものですからねぇ。……だから、あんまり戦えないサキュバス的にはそんな今代の魔王さまって、とっても尊敬するというかぁ、敬意を抱くというかですねぇ」
説明が進むうちに、レティリエの顔に理解の色がさしていく。
ああ……姫さん褒められて嬉しいんだな。表情に出さないよう気をつけてるみたいだけど、頬がちょっと緩んでいた。
―――うん、交渉術で我らが勇者様がこの相手に勝つのは無理だ。ワナに術式学の導師資格取得させるくらい無理。諦めよう。
しかしペネリナンナお姉さん、サキュバスとして新魔王さんをリスペクトしてるわけか。それは少し意外だったが、分かる話ではある。
たしか前魔王のゴアグリューズが言ってたけど、魔王は血統ではなく決闘で決まっていたらしい。つまり基礎戦闘能力の低い淫魔にとっては蚊帳の外のイベントだった。
その伝統を覆して非暴力で魔王の座についた僕の同郷は、サキュバスから見れば憧れの的なのかもしれない。
「興味があるんですよねぇ……新魔王さまがあの上級のバケモノたちを、どんな手管で籠絡したのか」
あ、憧れじゃないわこれ。
しかし悪い顔するよなぁ……。尊敬しているお方にお近づきになりたいんですぅ、なんてヤツの表情じゃないぞそれ。
最初に尊敬って言ったとき、疑問符が付いたのがなんでか分かった。近くで観察して掠め取る気なんだな、コツみたいなのを。
「―――籠絡、だなんて言っているうちは無理でしょうね」
レティリエの声のトーンが一気に落ちた。……ペネリナンナの言葉選びのせいか。まあ籠絡って言葉、印象悪いもんな。
でも、これはレティリエが正しいんだろう。
新魔王さんについて僕の記憶で一番印象深い事柄は、ロムタヒマ王都で見たあの石像だったりする。……正確には、石像に跪く生き残りの民衆たちだ。
彼女がまだ魔族の捕虜だった時からずっと、元は敵国だったロムタヒマの民のために最善を尽くしていた、その結果としての光景。気高き貴人として他者のため懸命に尽くしたが故に、あの広場で祈る者たちの姿があったのだ。
―――そして、そんな彼女だからこそ、ルグルガンをはじめとする上級魔族たちも惹かれたのではないか……などと僕は思うのだ。
いかにペネリナンナが手強い役者でも、己が欲求のために他者を操らんとする者には、届く領域ではない気がする。
「あはぁ、やっぱり前の魔王さまが言ってたとおり、勇者さんは捕虜のお姫さまの侍女だったんですねぇ?」
その確認は、からかい混じりに。
少しレティリエが動揺したのが見て取れた……が、別に二人の関係が知られているのは問題じゃない。この話題になった途端、ペネリナンナがわざわざレティリエに向き直った時点で、知っていることは明白だった。
「前魔王の時から、君はこの町で間諜を?」
少し口を挟む。気になったのはこっちの方だ。
「はい、そうですよぉ。お姉さんは元々ゴアグリューズさまの部下なのです」
「そうか。魔王が交代しても任務は変わらなかったのか?」
「全然変わりませんでしたねぇ」
淫魔をスパイにする、ってのはたしか、前魔王のアイディアだったはずだ。だから彼女が以前から間者を続けているのはおかしくないが。
「ずっとここで諜報活動ってことは、君はロムタヒマ王都で行われていたっていう、囚われの王女様主催の集会には行ってないんじゃないか? なのに特殊な方法で魔王が変わってもそのまま忠誠誓ってるのか」
「そりゃあ、サキュバスは寄生種族ですし?」
「……寄生種族?」
聞き慣れない言葉を聞き返す。……寄生する、種族。寄生虫みたいなものだろうか。
「他種族に取り入って美味しいところ奪って生きる種族のコトですよぅ。―――そっちのエルフさんたちみたいなものですねぇ」
ミルクスの眼光が鋭くなり、ポーカーフェイスを決め込んでいたモーヴォンですら眉をひそめる。
なんでこう、この状況で四方に喧嘩売れるんだろうなこの魔族。
「ペネリナンナ、今のは二人への謝罪を求める。彼らは君が思っているような者たちではないよ」
「おやぁ、そうだったんですかぁ? というか、褒めていたんですけどねぇ」
「価値観が違ったか……」
異種族との交渉ってやりにくいよな。魔族ならなおさらだ。
彼女にとって今のは褒め言葉になるらしい。まあ自らを寄生種族なんて呼ぶくらいだし、そもそも他者から精気を奪って生きてる時点で、道徳観念とか意味がないのかもしれないな。
人間にも、悪辣さが美徳になる場所はある。小さな子供の悪戯自慢から、不良少年のハク付け、犯罪組織の通常業務まで。スラムとかだと悪事以外の生き方を知らない者だっているだろう。―――けれど、多分彼女は根本から違う気がする。
知り合いだときっとエストが近いんじゃないか。あの女のおかしさをマイルドにした感じだ。魔族より尖ってるヤツ知ってると精神に余裕ができるな。
「んー、たしかに人族ってそういうところありますよねぇ。むぅ」
厚めだが形のいい唇に人差し指を当てて考えた後、ペネリナンナは頬杖をついた姿勢を正し背筋を伸ばす。
そうして、ミルクスとモーヴォンに向けて頭を下げた。
「侮辱に聞こえたならぁ、ごめんなさい。お二人を貶める気はなかったんですよぅ」
おおう、ビックリするほどあっさり謝ったな。しかもわりとマジメに。
二人に視線を向ければ、ミルクスの表情は怒気を孕んでさらに険しく、モーヴォンは狐につままれたように肩の力を抜かれていた。
……ミルクスはなんで、謝られたのに怒ってるんだ?
「その謝罪を受け入れましょう。そのうえで、自分から質問してもいいですか?」
「ありがとうございますぅ。どうぞ、なんでも聞いてくれていいですよぉ」
「寄生種族であるあなたにとって、魔族軍に所属することで得られる利益は? 易い獲物に乏しいこの町で、飢えに耐えてまで間諜を続けている理由は?」
モーヴォンの問いを受け、ペネリナンナは目をパチクリさせて少年を見る。意外なことを聞かれた、というように。
返答は早かった。
「その方が生きやすいから、ですかねぇ。ほら、魔界の魔物とかに襲われたらお姉さん勝てないですし?」
「でもあなたはこの町で単独行動で、飢えていたではないですか。組織に護ってもらってないのでは?」
「ええ……? 警戒されてるから男を籠絡できません、なんて言うんですかぁ。お姉さん、これでもサキュバス族ですよぅ?」
あー……うん。やっぱり見栄っ張りなのは素みたいだな。尻尾巻いて逃げ帰るのが嫌なわけだ。
「あと、魔力が強いお方の精気って美味しいですからねぇ。お仕事しっかりやれば上級魔族の目にとまって取り入れるかもしれないですし? グルメなお姉さんとしてはぜひぜひ手柄の一つも立てたいと思ってたんですよぅ」
美食家なんか気取るなよ。どっちかっていうと大食い選手の方が太成しそうな食べっぷりだったぞ。この世界は僕の前世の世界ほど食糧が溢れてるわけじゃないから、フードファイターなんて職はそもそもないけどな。
「まあ本当は、取り入る先は前の魔王さまを狙ってたんですけどねぇ」
ああ、ゴアちゃんを魅了する気だったかぁ。そりゃぁ強大な魔力持ちで精気も美味しいだろうな。
でもアイツの好みって、痩せ型ちんちくりん体型で色気とかゼロの学者タイプなんじゃないかな? 何一つペネリナンナに魅了できる材料がないんだが。
「毎日コツコツ地道に情報収集してぇ、報告書を持って行ってぇ、手渡すときに必死にアピールしてぇ、せっかく顔と名前を覚えてもらったんですけどねぇ。いなくなっちゃって、新しい魔王さまに変わった時は途方にくれましたよねぇ……」
すげぇもの悲しいこと言うなよ。ちょっと同情しただろ……。




