交渉
魔族にしては珍しいことに、サキュバスは基本的に人族を殺害しない。
彼女たちは強力な魅了の魔術によって精神を操り、精気を搾り取って衰弱させ、それを常習化することでやがて末期の麻薬中毒者のような廃人を作り上げるが―――衰弱死も間近になると精気も不味くなるのか、廃人となった者は捨て置きまた別のターゲットへと移り変えるのが常であり、殺すまではしないのである。
サキュバスが人族を殺すときは、魔族とバレたときだけ。つまり身を守る時のみだ。
人族は食料であり、魅了した相手は家畜であり、武器を向けてくるのは危険な獣である。積極的に殺したところで益などないのだから、しゃぶるだけしゃぶって味がしなくなったらポイ捨てする程度の関心しかない。
つまりは、人族に対して憎しみや敵意といった負の感情を抱いている可能性が薄いのである。
交渉相手としては易い方だろう。
んく、んく、んく、と喉が鳴る。そのたびに大きなピッチャーが上向きに角度を変えていく。無力な僕らはただ呆然とそれを見守るのみである。
垂直。斜角四十五。直角。斜角百三十五。一定の早さでよどみなく。
取っ手があるのに両手でわし掴みされたそれは、給仕されてからただの一度も置かれぬままに、中身を干された。
―――実に、十二杯目の一気飲みである。
「プハーッ! いやぁ、美味しいですねぇ生き返りますねぇ。あ、すみませーん、おかわりくださーい」
そしてさらに注文しやがった。
「……いや、奢るとは言ったけどな?」
頬杖をついて湯冷ましの水を飲みながら、僕はぼやく。目立たない場所に座ったのに、気づけば酒場中の視線が集まっているようだ。窓際の席の兵士っぽい四人組、何杯いけるか賭けるんじゃない。
魔族相手だと敵意むき出しだったエルフの双子ですら、あの細い身体に消えていった大量の酒の行方が気になって混乱しているようで、さっきから二人で飲酒量と女の肉体の体積を比較計算している……こうやって算術は高度化していくんだな。僕も後で計算結果教えてもらおうか。このウワバミ女、物理法則を凌駕してる気がするし。
「あ、あのお魚料理も頼んでいいですかぁ? それと挽肉と卵のスープとお芋のバター炒め、葉野菜の漬物に果物の盛り合わせも食べたいですぅ」
まだあの前魔王の方が遠慮深かったぞ、コイツ……。
僕らが欲しいのは伝令だ。相手が魔族とはいえ、排除したいわけではない。傷つける必要はないし、殺しては元も子もない。手紙を渡して届けてもらえればそれでいいのである。
だが、手荒な手段で捕獲した魔族に手紙を持たせて放したところで、ちゃんとお使いしてくれるだろうか? 腹いせに手紙を破り捨てて嘘の報告をしたりしないだろうか?
諜報を任されているのなら情報の取り扱いで雑なことはしないと思いたいが、初対面の相手を信用して託すのは馬鹿の行いである。こちらの要求通りに動いてもらえるよう、念を入れる必要はあった。―――本当は何人か捕らえて同じ手紙を持たせたかったのだが、夜の町を練り歩いて行う釣りだけでそう都合良く当たりを引けるとは思わないし、正直もうサキュバスの相手はしたくない。
ゆえの交渉だった。できれば情報も仕入れられるとなおいい。
「お姉さん、ペネリナンナっていうんですよぉ。お察しの通りサキュバス族でぇ、魔王さまにこの町で諜報活動してろって命令されてるんですよねぇ」
自主的に話してくれるのはいいんだけど、そのオムレツ僕のだからな? レティリエのとこからチーズ持っていって乗せるんじゃない。
「酷いですよねぇ鬼畜ですよねぇ。せっかく人界に来たんだから人族の町に紛れ込んで好き勝手食べ放題ーってしたかったのに、こんな陰気なトコ放り込まれて情報収集ーとかサイアクですよー。しかもターゲットの兵士さんたち、妙に魔術に詳しいから魅了なんて危なっかしくて使えないですしぃ」
「それはルトゥオメレンって魔術大国のせいだな。あの国が隣にあるおかげで、神聖王国の兵士は末端まで抗魔術の手ほどきを受けてるんだ」
「うぇぇ、そうなんですかぁ? 邪魔くっさいですねぇ、そのル……メレ? って国ぃ」
僕が生まれ育った国だけどな。
ルトゥオメレンとフロヴェルスは友好国ではあるが、だからって万一の備えを怠るほど神聖王国はヌルくない。実際、カヤードやラスコーですら、対魔術士に関しては僕でも感心してしまう練度だった。サキュバスの精神干渉も一応魔術に属するから、神聖王国の兵士には使いにくかっただろう。
……というか、だから僕にまったく魔術を使わなかったのか? 精神干渉使われれば分かるもんな。僕は兵士に見えないだろうから、彼女……ペネリナンナだったか? もある程度の警戒はしていたのかもしれない。
「しかも最近、その兵士さんたちも警戒するようになっちゃったみたいでぇ、一人で夜に出歩いてるカモなんてもうとんと見かけないんですよー。お仲間が誰かヘマでもしたんですかねぇ?」
あ、それはナーシェランからの通達が届いたんだろうな。淫魔が間諜やってる、って僕が忠告したから、フロヴェルスの全軍に警告が行き届いたはずだ。
「だから全然精気吸えないどころかお金も稼げなくてぇ、まともなご飯食べるのも久しぶりなんですよねぇ。お酒なんていつ以来ですかねー?」
うっきうきで給仕されたばかりの芋にかぶりつくペネリナンナ。……んん?
なんか今、このゆるふわ脳天気女のイメージに合わないすげぇさもしい話聞いた気がする。
「……もしかして君、飢えてたのか?」
「それはもう」
ふっふーん、と豊かな胸を張るペネリナンナお姉さん。なんでそこ威張った?
「なのでぇ、愛とか恋とかの問答してる時とかすっごくイライラしてましたしぃ、そんな馬鹿馬鹿しくて童貞臭い悩みとか心底どうでも良かったんですよねぇ。まだるっこしいからさっさと暗がりで精気くれないかなぁって思ってましたよぉ」
頭痛がして鼻の根元を押さえる……僕、ホントこの女苦手だわ。なんか涙出てきた。
精神干渉の魔術なんかにかからない、などと見栄張って一人でも捕まえられると豪語したのに、魔術も使われず話術と観察眼だけで心を乱されてあのざまだったからな……。しかも相手は全然本気じゃなかったというから目も当てられない。完全に舐めてました。
最後に動けたの、三人がついてきてくれているという心の支えが大きかったよな。あれは世間体の勝利ってやつだ。
「えっと……ペネリナンナさんは、その……ご飯だけでは足りないので?」
レティリエが顔を赤らめながら、聞きにくそうに質問する。
食に関しては一家言ある彼女だからこそ気になったんだろうが、まあ精気を食べる、ってどういうことかなんて、レディにとっては聞きづらいことこの上ないだろうな。
けどお腹減ってるから精気を貰う、という生態がいまいち理解できないのは同感ではある。サキュバスに限らず魔族の多くは謎が多いんだよな。基本は見つけたら殺し合いの間柄だし。
「んー、お塩のようなものですかねぇ。ほら、お金がないときはお水と混ざり物だらけの小麦粉団子で生きていくでしょぉ? けれど、お塩を食べないとそのうち力が出なくなってフラフラになっちゃったりしませんかぁ?」
僕は幸いにもそのレベルで困窮した経験はないんだけど、この世界の貧民層はわりとそんな感じだから生々しいよな……。
ていうかペネリナンナさん、実体験ぽい話し方だけどそんなに困窮してたの?
「あー、でも精気だけでもお腹いっぱいになれますからぁ、どちらかと言えば塩よりパンの方が例えとしては正解かもですねぇ。お酒もご飯も美味しいんですけどぉ、それはそれで別腹というかぁ……いやご飯も食べなきゃ死んじゃいますけどぉ」
フワッフワしてるなぁ。本人もどういう構造なのか分かってない感じなのか。
まあ本人が当然と思ってやっていることを改めて言葉で説明するのって、結構難しいよな。直立歩行の仕方を説明せよ、って言われてパッと答えるのは結構な難易度だ。学問が一般層にまで普及してるとは言い難いこの世界では特にだろう。
おそらく……性交という手段で精気を吸収するのが彼女らにとっての主食であり、生命維持に必要不可欠というのなら、精気を介して活性魔力、すなわち生命力を得ている可能性が高いんじゃないか。
となると、淫魔は自分で活性魔力を生成するのが苦手な種族なのかもしれない。自前ではあまり生命力を用意できないために、性交という精気を奪うのに高効率な方法で生命力を得る能力に特化している……とか、仮説としては面白いんじゃないかな。検証する気にならないけど。
でも……もしこの仮説が正しかったなら、サキュバスって種族、僕のヒーリングスライムと相性がいいかもしれないな。あれは生命力を分け与える性質を持つから、彼女らに使えばお腹いっぱいになってくれるかもしれない。―――もし平時に会えてたら絶好の研究対象だったんだが。
「だからぁ、ご飯食べたらぜひぜひ、精気の方もいただけたらって思うんですよねぇ。お兄さんでもエルフ君でもいいですからぁ」
「断る」「嫌です」
即答で突っぱねる僕とモーヴォン。
交渉の基本はギブアンドテイクだけど、呑める要求と呑めない要求があるよな。
「あ、お金の方は安くしておきますよぅ?」
ていうか、女性陣の前で公然と娼婦の営業すんなよ。




