愛と夜道と娼婦と 3
娼婦とは、世界最古の職業の一つだと言われている。
性行為によって対価を得る者。そう簡単に定義されている彼女らだが、その種類は千差万別だ。
街角に立ち通行人を誘う者。娼館で客を待つ者。酒場では給仕娘に春を売らせることも少なくなく、踊り子や吟遊詩人も積まれた金によって応じることがある。遠征する軍に専属で雇われる者もいるし、貴族や富豪に愛人として囲われる者も一種としていいだろう。
性病の運び手として一時期は教会に弾圧された過去もある一方で、歴史を紐解けば聖娼や巫女と呼ばれ神事に仕えたともされる職であり、今も一晩で平民の半年分の稼ぎを得るような者がいるような職業。娼婦とは社会においてまさしく混沌の権化のような生業なのだが、その社会的役割は一つしかない。
つまるところ―――歴史上で最も古くから存在する、他者の心を癒やす職種である。
ただ肉体を差し出すだけの娼婦もいるだろう。
だが礼節を纏い、教養を身につけ、知識を修め芸事を学ぶ者は……客の心を満たし、喰らう。身体を交わらせるだけに止まらず、心を通わせて容易く踏み入り、一夜にて魂を癒やし恋に燃え上がらせるのだ。
そうしてケツの毛までむしり取るのだが、まあそれはともかく。
文明も今だ未熟なこの世界において彼女らは、範囲は狭くともまさしく心の専門家であるのではないか。
ならば今僕が受けているのはまさしく、精神の暴露に他ならない。
「お兄さんは、愛している人がいる。けれど、恋ができないでいる」
心を見通すように、深い緑の瞳が僕を射貫く。貼り付いた微笑みは内側へと侵蝕する霧のようだ。
ヤメロ、と心の奥の棘が黒い炎を宿した。
「ううーん、歪ですねぇ。歪んでますねぇ。面白いですねぇ。お姉さん、そういうの嫌いじゃないですよぉ」
女は脚を動かさず、普通に喋るよりも半歩近い距離のまま、前傾姿勢だった身体を戻し見せかけの距離をとる。分かっていても一瞬、緊張が解けそうになった。
……我ながらうかつに過ぎる。もし彼女が刃物でも持っていたら、僕には反応できない距離だ。ここまでパーソナルスペースへ踏み入られて気づきもしなかったなんて、経験したことがない。
「苦しいんですよねぇ?」
そっと、僕の頬を指が撫でた。黒に近い緑の瞳が細められる。それは慈愛の聖女のようで……思わず信じかけた。
歪んでいる、と言われた。ああそうだろう。僕は自分が歪だと断言することに、いささかの躊躇もない。
苦しいか、と言われれば、苦しいと答えるしかない。この胸の奥で暴れる棘は、苦痛でもって僕を縫い止め、今もなお身と心を焦がしている。
けれど。
「悩むのってぇ、出口が見つからないからじゃないんですよぉ。出口なんて最初から見えちゃってるのにぃ、絶対に失敗を選べなくてぇ、だから一歩も動けなくなるのです」
形のいい厚めの唇が動くたび、甘いささやきが耳朶を打つ。ゆったりとした口調は一音一句こぼさず脳へ届け、その余韻は胸の奥へと響かせる。
―――出口は最初から見えている。……その言葉が胸に浸透し、死にたくなった。見えているのにそちらを向いていないのは、見えないふりをしているからだ、と。単に目を背けているのではないか、と胸の奥の棘が暴れ回る。
「お兄さんは、誰よりも真面目で、真摯な人なんですよぉ。お兄さんは気づいていないかもしれないですけどぉ、実はとてもとても心の強い人で、だから誰よりも悩むんです。……でもぉ、もしかしてお兄さん、普通の人なら気にもしないようなこと、すぐに忘れちゃうようなこと、開き直っちゃうようなことも、ずっと抱え込んでるんじゃないですかぁ? それってすごく大事なことかもしれませんけどぉ、少しは肩の荷を降ろさないと、立ち上がれなくなっちゃいますよぉ」
人格の肯定と堕落の誘惑が、蠱惑的な声で同時に紡がれる。
普通の者ならばもっと楽に生きている、なんて。
まるで、僕がただの不器用なだけのヤツだったのだと、勘違いしてしまいそうで。
「ねぇ、お兄さん? お兄さんはただ、進み方を忘れてるだけなんですから。どちらへ進めばいいかなんて、ホントはもう知ってるはずなのですからぁ」
百合に似た香水がふわりと鼻孔をくすぐる。ゆっくりと、さらに距離が縮められる。体温すら肌で感じられるほどに。
「お姉さんでよければぁ、その忘れている進み方、思い出させてあげられますよぉ?」
羽衣のような抱擁に包まれる。吐息が頬をくすぐる。緑の瞳が潤み、慈愛の笑みが心を蕩かす。
紅がひかれた唇が焦らすように迫り―――
『聖域結界起動・最大出力』
用意していた魔具を起動させる。
合言葉を受け、魔石に刻み込まれた術式が起動する。聖属性の魔力が周囲に展開し、まばゆく光る強固な結界を形作る。
範囲は直系でおよそ二メートル。決して広くはないが、この距離ならば僕と女を纏めて包み込むに十分。果たして……―――
「ヒッ……アアアッ!」
弾かれたように女がのけ反った。両腕で顔をかばい後方に跳ぶ。
そして……バサリ、とその背に羽を生やし、そのまま宙へ逃れる。黒いコウモリの羽を持つ魔族は何種かいるが、これはもうサキュバスってことでいいだろ……!
「良かった、当たりだ!」
思わず歓喜に叫ぶ―――違ったらどうしようかと思った! ヤバい、ちょっとマジで涙出るほど嬉しい。やったぜ敵だもう問答無用で黙らせる。
『開……』
ガシ、と空中に逃れた淫魔の首根っこが、さらに上空から掴まれたのが見えた。ギャッ、という短い悲鳴が夜に響く。さらに左腕も極められたようで、空中制御ができなくなったのか無様に墜落する。
タン、と危なげなく石畳に着陸する音。
……あ、鮮やかだなー。
「お疲れ、レティリエ」
「大丈夫でしたか、リッドさん?」
「ああ、問題ない」
サキュバス女の背後から首根っこを掴んで左腕を捻じ極めて、つま先がつくかどうかの高さに持ち上げる勇者様。持ち上げられてる方は今の短い攻防であっさり気を失ったのか、コウモリ羽を垂らしてぐったりしていた。……さすが淫魔、純粋な戦闘能力はやっぱり低いらしい。二度と相手したくないが。
しかし……あれ首掴んだ片手だけで持ち上げてるよな。猫じゃないんだが。普段の華奢なレティリエの見た目からはなかなか想像できない光景で、なんならもっと大きな怪物とかでも片手で持ち上げるくらいできるはずだけど、いざこういうの見ると脳が軽くバグる。
「へぇ、本当にサキュバスだったのね。一人目でいきなり当たりを引くなんて豪運じゃない?」
「多分だけど、ここは復興が遅れてるようだから本物の娼婦は商売にならなくてあんまり居ないんじゃないかな……?」
わりと近場の建物の陰から、エルフの双子が話しながらボチボチ歩いて出てくる。君ら余裕だな?
「なあ、もうちょっと僕を心配するとかないのか? 今、魔族との戦闘があったんだけどな?」
「弓は構えてたけど、むやみに傷つけられないからレティに任せたのよ」
「呪文を唱えるヒマもなかったですからね」
二人して同じ動作で肩をすくめる双子姉弟。
まあたしかに傷つけずに弓矢で捕らえるとかミルクスでも無理だし、僕のヒーリングスライムも間に合わなかったのに遠間のモーヴォンが何かできたかというと無理がある。つまりレティリエがすごかったってことだな。
「というかモーヴォン、配置についたら合図をよこしてくれるんじゃなかったのか?」
「それはすみません。つい先ほど準備が完了したところでした。ギリギリでしたが間に合ったので良しとしてください」
「そうか。まあ大事なかったしな」
街中の大通りだ。隠れながら移動というのはなかなか難しいし、サキュバスは夜行性だから夜目も利く。気を遣って多少遠回りしてでも路地裏を伝って来たのだとしたら、時間がかかるのも当然かもしれない。
……しかし、モーヴォンが僕にあっさり謝るのって妙な違和感あるな。普段の彼なら文句の一言二言添えそうなもんだが。というか、なんでミルクスとレティリエは目をそらしてるんだろうな?
「そ、それより、リッドさんがさっき使ったのはなんですか?」
「ん? ああこれか?」
レティリエに聞かれて、僕は手に持っていた魔石を三人に見えるよう、顔の高さに持ち上げた。淡く輝くそれは、最近は見慣れてきた白色をしていて。
そういや、これのこと言ってなかったか。
「ソルリディアの遺骸」
ザッ、と三人が仰け反るように一歩さがった。
「が安置されてた部屋の、魔石に変質してた床の欠片」
三人が揃って汗を拭う仕草をする。仲いいな君ら。
というかさすがに僕でもあんな、まだ生きていると見紛う遺体を切り刻んで魔具にしたりとかしないぞ? 君ら僕をなんだと思ってるんだ?
「ああ……あれでしたか。良かった……本当に」
「つまりは聖属性の結界さ。今回は魔族の判別に使ったが、本来は瘴気対策で用意したものだ。これから魔界に行くっていうのに、瘴気に対して無防備じゃいられないからな」
実は今回の作戦、この魔石の動作確認も兼ねてたんだよな。問題なく起動してなによりだ。
予想通り効果範囲が狭すぎてすぐに逃げられるから、魔族にダメージを与える用途には使えないと思うが……それでも魔族が跳び退くくらいの効果があるのだから、周囲の瘴気を寄せ付けなくするだけなら十分な効果を発揮するだろう。これに関しては大成功と言っていいのではないか。
「この魔石は君らの分もあるから安心してくれ。なにしろあの部屋で大量に削れたからな。それより、せっかく向こうの間諜を捕らえたんだ。さっそく交渉といこうか」
特に王都潜入の際は留守番させた双子に向けて魔石を掲げて見せてから、僕はレティリエが捕まえているサキュバスへと視線を向けた。




