愛と夜道と娼婦と 2
「……え、ええっとぉ」
にぱ、と愛想笑いを浮かべ、豊満な胸の前で両手の五指を合わせる女。うん、無理しなくていいから。
自分でも初対面の第一声があれでは、若干どころじゃなくひかれるのは当然だと思う。
「愛って、家族への愛とか隣人への愛とかいろいろありますけどぉ、お兄さんが悩んでるのは恋愛のことですかねぇ?」
うっわすごいな、話に乗ってくれるんだ。え、この世界のサービス業ってこんなに意識高いの? 僕ならなんにも悪いことしてなくても謝って逃げてるんだけど今の。
「あ、ああ。うん。そう、色恋の話……だな」
「ああ良かったぁ。お姉さん、恋愛のお話以外はちょっと自信ないからぁ、違ったらどうしようかって思っちゃいましたよー」
安堵したように胸をなで下ろし、にっこり笑う茶色の髪の女性。僕はちょっと驚きながらも、その彼女に興味を持った。
ほほう恋愛話は自信あるんだ。それはちょっと期待してしまうじゃないか、と。
どんなテーマであれ、他者の意見を聞ける機会は貴重だ。自分ではどうあっても辿り着けないような、斬新な角度からの発想を得られるかもしれない。もしかしたらこの心の芯に刺さった棘が疼くような苛立ちを、少しだけでも理解させてくれるのではないかと……―――
「それでぇ、愛はなにか、という質問でしたよねぇ? うん、分かりません」
おうぃ。
「あ、ふざけてはいませんよぅ。だって、愛って十人十色じゃないですかぁ。みんな違ってて、同じものなんてないんです。お兄さんは二人いないでしょお?」
……ああ、なるほどそういうことか。愛とはなにか、なんてでかいくくりで考えることがまず間違いだと言いたいわけだ。
たしかに当事者が変われば愛の質も変わるのは当然だ。
ディーノとドゥドゥムでは、ワナへの想いのカタチは全然違うだろう。ラスコーとメリアニッサはなかなか面白い関係だった。ハルティルクのそれはちょっとどうかと思うが。
「他の人なんてどうでもいいんですよぅ。普通ならどうこう、なんて必要ありません。だって愛って心の内側から湧き出るものじゃないですかぁ。自分の中にあるのに外のものと比べるの、間違ってるって思わないですぅ?」
人差し指をピンと立てて、得意そうに講釈してくれる薄着女性。―――うっわなんかスッゲェ真面目に答えてくれてる? 申し訳ない! ゴメンそんな本気で答えてくれるなんて思ってなかった!
「お兄さんがなにを悩んでるのか知らないですけどぉ、愛なんて自分の思うとおり、感じるとおりにすればいいんですよぉ」
「それはどうだろうな」
僕はほとんど反射的に首を横に振っていた。
愛は己の心の内にあるもの。他者と比べるべきではない。それは分かる。納得できるし、間違ってるとは思わない。
けれど今のは違うだろう。
「恋愛には相手がいるものだろう。自分だけの感情で動いても、それは押しつけになる」
「おやぁ、これは一本とられたかもですねぇ。たしかにお相手さんの気持ちも大切ですよねぇ」
否定されたというのに彼女は嬉しそうで、ぽん、と手を頬の横で手を合わせてニコニコ笑っている。
ああーそうか、真面目に答えてくれてはいるけど、真剣ではないのかな? 彼女は会話そのものを楽しむのが目的で、話題の結論はどうでもいいのかもしれない。
「けどそれってヘタレの言い訳っていうかぁ、アレコレ考えすぎてウジウジして、結局最後までなにもできなく終わる人の考え方じゃないですかぁ?」
痛ぇなおい!
クッソこの女やってくれる。今のはなかなかの一撃だったぞ。久しぶりに言葉の刃で死ぬかと思った。むしろ死にたくなったじゃないか。
「まあでもお兄さんは、それだけじゃあなさそうですよねぇ」
女は屈み込むように身体を傾けると、目を細めて斜め下から僕を覗き込む。……わざとやっているのか意図的なのか知らないが、大きく開いた胸元を見せつけるような姿勢は、相手が性で糧を得ている者であることを否応なしに認識させた。
普通に目のやり場に困るんだがな……。
「知ってますかぁ? 愛と恋は違うんですよぅ。お兄さんが言っているのは恋の方ですよねぇ?」
「……んん?」
「あ、分からないって顔してますかぁ? してますねー」
今度は跳び上がるように背を伸ばし、嬉しそうに顎の前でぽんと手を叩いた。低い位置で結ばれたポニーテールがピョコンと跳ねる。
……なんかこの女、いちいち動作が忙しないな。愛嬌がある、ってこういうことを言うんだろうか。
ワナとかよくああいう動きするけど、あれとはまた違う気がする。もっとこう、相手に見られていることをちゃんと意識している感じだ。
あるいは、見せようとしているのか。
「恋は相手を欲しくなることで、愛は相手の幸せを願うことなんですよぅ。これを一緒のものだと考えちゃうと、けっこう痛い目を見ちゃうことがあるから注意した方がいいのです。綺麗なお姉さんからの忠告ですよー」
…………自分で綺麗って言っちゃうのか。まあ否定はしないけどさ。
しかし話の内容は興味深い。恋と愛の違いねぇ……。辞書でも引いて調べれば違う説明文が出てきそうだが、なんか納得してしまうな。それを一緒にするとどう痛い目を見るのかは分からないけど、おそらく彼女の人生観において、それは一つの哲学としての答案なのだろう。
あれ? でも愛は相手の幸せを願うことって、もうそれ最初の僕の問いに対する答えになってないか?
知っているというか、もう彼女の中で答えが出ている問題なのに、なんで分かりませんなんて嘘をついたんだ?
「お兄さんは恋をしてるんですねぇ。羨ましいですねぇ。素敵ですよねぇ」
微笑みながら、女性はうっとりとした声で言う。―――いや、どうしてそうなる?
「待ってくれ。僕が恋をしてるって、なんでだ?」
「だってぇ、愛とか恋とかで悩むこと自体がそもそも恋の病の症状ですし? それに押しつけはダメ、っていうの、いかにも特定の相手を思い浮かべてません?」
「ただの一般論だろう」
「じゃ、そういうことにしておきましょうかぁ」
即答で返すと、女性はこちらが呆気にとられるほどあっさり引き下がった。……それで分かった。カマかけだ今の。
うわ、ちょっとゾッとした。今まで会話ってもしかすると、わりと巧妙な話術の類かもしれない。
最初の愛に関する問いに対しても、答えをすぐに返してしまえばそこで会話が終わってしまうからしなかったんだ。なので話を逸らさいように多方へ広げて、わざと隙のある言説を唱えることで相手を話に乗らせていった、って感じの流れか。
そうして会話を繋げながら、こちらの心理を探っているんだこれ。今も。
「でも、幸せを願う人はいるんじゃないですかぁ?」
「それは……まあいるにはいるが」
だが、愛は幸せを願うことってのは納得したが、幸せを願えば愛なのか、と逆にするとちょっと疑問がある。はたしてそれは必要十分条件を満たしてるかどうか……って。
完全に会話のペースを取られていることに気づいて、僕は目をそらすフリをして周囲を確認する。と言っても残念なことに、カンテラの灯りに目が慣れているから光が届かない場所はほとんど見えない。暗い夜闇が、大通りで向かい合う僕と彼女を包み込むように覆っていた。
彼女が魔族の間諜なのか、それともただの娼婦なのかはまだ分からない。―――レティリエたちが配置につき終わったら、僕にだけ分かる方法で合図があるはずだ。それまでは会話を続けるべきだろう。
そういや合図の方法って決めてないんだけど、女性の背後に小さな魔術の灯りでも発生させるとかかな? 幻術で準備完了と文字を書いてくれる優しさは、ちょっとモーヴォンには期待できない気がする。アイツってなぜか僕にだけ当たりキツいし。
「ふっふーん、なるほどなるほどぅ? これはお姉さん、ちょっと分かりかけてきちゃいましたよぅ?」
完全に面白がってる感じで、女性は口元を手の甲で隠しクスクス笑う。早く合図来ないかな。なんかすごい居心地悪くなってきたんだけど。
「ねぇお兄さん。さっき恋と愛は違うって言いましたけどぉ、これって実は、べつに分けて考える必要なんてないんですよねぇ」
「は? 一緒と考えると痛い目見るって言ってなかったか?」
「一緒じゃないですよぅ? けど、両立するものじゃないですかぁ」
ああ、まあそうだな。恋と愛の文字をくっつければ恋愛になるのだから、それは道理だ。誰かを欲しいと想うことと、その相手の幸せを願うことは相反しない。
しかしやりにくいな。ふわふわとした話し方と愛嬌のある仕草で油断しがちだが、今のってわざとこちらが疑問を持つような言い方をしたのではないか。これでは会話から気も逸らせない。……いやさすがに考えすぎか? どこまでが計算でどこまでが素かは分からないな。会話の上手いヤツって、そういうの無意識にやってくることある気がする。
「だから、本当はそんなところで悩む必要はないんですねぇ。告白したら成功するかどうかとかでウジウジしてる方がまだ建設的というかぁ、生産性のない頭でっかちの日陰男特有の、なんの意味もない的外れなお題目というかぁ」
ちょくちょく失礼だよな君? 喧嘩なら買うぞ?
「ねぇお兄さん、もしかしてですけどぉ」
ぐい、と近づかれる。気づけば普通に会話する距離よりも、半歩分は近い位置。黒に近い深い緑の瞳が僕を覗き込む。カンテラの灯りに照らされる女の顔の、睫毛の長さまでも見取ることができる近さ。
彼女は微笑み、問いかける。
「なにか、悩まないといけない理由があるんです?」




