愛と夜道と娼婦と
愛は世界を救うらしい。
なんだったか知らないが、どこかでそんな言葉を聞いた気がする。
どこで耳にしたんだったかな。前世だっただろうか? それとも今世だろうか? まあ両方かもしれないな、と思うくらいには陳腐に聞こえる言葉だ。そういう歌とかありそうだよないっぱい。
愛で世界が救えたらいいのに。
なにを益体の無い思考なんかしてるんだ、と思って夜空を見上げる。基本、夜なら街中でも星の見える世界だが、今日は曇天だからさすがに空が暗い。
月が雲の向こうにうっすら透けている程度で、しかも町に灯りが少なくて、いくら世闇に目を慣らしてもカンテラがないと足下が覚束ないほどだ。建物から漏れる光すらもほとんどなく、大通りでこれなのだから、この町はチェリエカに比べるとかなり復興が遅れているのではないかと感じる。
そんな人の気配の薄い夜道を、僕は歩いて行く。
愛で世界が救えるなら、勇者なんか要らないだろうに。
人間同士の戦争と、魔族の侵攻。ジェイザールは戦場にこそならなかったが、受けた被害はかなりのものだった。しかもその被害というのが、敵国でも魔族でもなく、自国の軍隊によるものだというから笑えない。
情報収集で宿の店主と話したが、ジェイザールはロムタヒマの他の場所よりも、町の住人が残っていないとのことだ。嫌気がさしたんだろう、とは店主の談だが、つまりはここに居ても誰も護ってくれないと見切りをつけたのではないか。
どれだけ危険でも、人は生まれ育った場所を離れることに抵抗を覚えるものだ。
定住するということは、生きるための仕組みを整えることである。衣食住を満たし、日々の稼ぎのために仕事し、家族や隣人と助け合う。そうして人は安定と安心の生活を手に入れるのだ。
戦火に焼かれていなくとも、それを手放すほどに、この町の住人たちは絶望したのだろう。
愛でどうすれば世界が救えると言うのだ。
カンテラの灯火を頼りに、大通りを歩く。……正直、少し不安になってきた。どうにもこの町は夜の人通りが少なすぎるのだ。宿からけっこう歩いているのにいまだ数人しか見ていなくて、その数人もそそくさと家に向かっている感じだった。これでは街角女たちも商売あがったりではないだろうか。
チェリエカは夜でももう少し人通りがあったんだけどな。戦争があったんだ。どこも同じように順調な復興とはいかないか。
……いや、もしかしたらここの在り方のが普通なのかもしれない。国は滅亡し、魔族の驚異はまだ目と鼻の先にあり、フロヴェルス軍に町を占拠されて、明日がどうなるかなんて分からない状態なんだもんな。
そもそもまだ戦いは終わってもいないのだ。
愛なんてそこら中に溢れているはずじゃないか。
思考にノイズが走るような感覚。それがだんだんと不快に感じてくるが、舌打ちするほどでもなかった。頬の内側を軽く噛んだ程度で、僕は何事もないふうで歩みを進める。
宿屋の店主の話では、もう少し行けば何軒か営業している酒場があるらしい。フロヴェルスの兵士もよくそこを利用するのだとか。魔族の間諜である淫魔がいるとしたら、きっとその辺りだと思う。
ただ……この町の様子だとどうだろうな。今までの道で街角女なんて一人も見てないし、淫魔がいたところで素直に出てきてくれるか怪しいものである。
しかも、だ。そもそも相手は軍の情報を得たいはずなのだから、狙われるのは兵士らしい者なのではないか、という不安材料をたった今思いついた。……まいったな、町に入り込むために軍とは無関係のていで町に入ったが、もしかしたら裏目に出るかもしれない。今日捕まえられなくて、明日町の情報収集をやってしまったら、早々に軍に頼って軽鎧でも貸して貰おうかな。
ああ、そうか。前提が違うのだ。
ふと思いついて、雑音のように流れていた益体のない思考に答えを得た。
といっても、これがこの世の真理なはずはない。言葉遊びでしっくりくるものを見つけた、というだけの、本気で意味のない解答だ。
マジメに見直す気にもならないそれは、しかし己の腑に落とすには十分で、僕もこんなものにそれ以上は求めていない。言葉の解釈なんてそれこそ夜空の星の数ほどあればいい。
つまり、僕はこう思うのだ。
愛は世界を救う。
つまり、愛を持たない者が世界を壊すのだ、と。
「はぁいーこんばんはー。そこのお兄さん、おヒマじゃありませんかぁー?」
ずいぶんと間延びした声をかけられ、振り向く。
ずいぶんと肉感的な女だった。
少し童顔に見えるが、外見年齢は二十歳前といったところか。明るい茶色の髪を低い位置でツインテールにした、黒に近い緑色の瞳を持つ女性。紅を引かれた唇は厚めだが形良く、大胆に胸元の開いた衣服は肌着のように薄く、腰横の紐で結び留めるタイプのスカートは短くて太ももをほとんど見せている。
カンテラの揺れる灯りに照らされるその姿はひどく妖艶に映り、愛嬌のある笑みは緩りと警戒心をほどくようだ。
「おやぁ、お兄さんのその格好、この町の人じゃないですねー? 外の方ですかぁ?」
自分の顎に人差し指を当て、唇を尖らせてこちらを観察してから、間延びした声で聞いてくる女性。
荷物を降ろしていても、旅人というのはわりと分かりやすい。大量生産技術も長距離流通も発達してないこの世界、衣服はけっこう地域ごとに特徴があるからだ。
まあ、虫や気温変化対策で夏なのに長袖着てるしな。
「旅人さんは珍しくないですけどぉ、フロヴェルスの服とはちょっと違いますよねぇ。どちらからいらしたんですぅ?」
女性は小首をかしげ上目遣いにこちらを見ながら、ゆったりとした足取りで近寄ってくる。
この会話の内容に意味は無いのだろう。距離を詰めるまでの間を持たせたいだけだ。彼女が娼婦でもサキュバスでも、まあそうするだろうさ。
「んー、だんまりですかぁ? あ、もしかして急に声をかけたからビックリしちゃいましたぁ? 大丈夫ですよー、お姉さんは怪しい人ではありませんよー」
怪しいヤツはだいたいそう言うんだ。
溜息を吐きたいが、そうもいかない。僕は脳内で時間を計る。
あの後もけっこう揉めたが、最終的には僕が囮役となり一人で大通りを歩き、レティリエたちは僕を尾行するという形で落ち着いた。今頃あの三人は近くで隠れられる、いつでも飛び出せる場所に移動し始めているはずである。
やはり僕一人でも十分だと思うのだが、せっかく来てもらった彼らの配置が終わるまで、少しは時間を稼がねばならないだろうか。余計な手間とも感じるけれど、僕自身の安全と作戦の確実性のためならば無駄ではあるまい。うん、大事なことだな。
しかしそれでは、さて時間稼ぎになにを話すべきか。……しまったな、さっきからどうでもいい思考に邪魔されてたせいで、なにも用意していない。完全に脳内が真っ白である。わざわざ囮として歩いていたというのに、いざ獲物候補が出てきたときどうするかを考えていないとか、まれに見る馬鹿なのか僕は。
盛大に溜息を吐きたいところだが、女の目がある以上そうもいかない。なんだよ愛は世界を救うって。マジ馬鹿なの? と心の中で悪態を吐くだけにとどめた僕はきっと偉い。
まったく、なんだって僕はこんなノイズに囚われているのだろう。ミルクスが変なこと言うせいだな。色恋沙汰なんて面倒、当事者以外は迷惑極まりないのだから、わざわざ首なんて突っ込まなければいいだろうに。
「あのー、聞いてますかぁお兄さん? そろそろお姉さんとおしゃべりしてくれないと拗ねちゃいますよぉ。おーい」
僕が黙ってるから、女性が気を惹くように手をひらひら振ってきた。ああもう、まだなにも考えがまとまっていないのに。とにかくここはなにか言わなければならない。
少し焦って、僕は半ばなげやりに相手へ問うてみる。
「なあ、愛ってなんだと思う?」
……口に出してから、キョトンとして固まった女の顔を見て、誰になにを聞いているんだと死にたくなった。




