盤上遊戯
コン、と小さな音を立て、左端の白の歩兵が一つ前に出る。僕は少し考えて、黒の斥候を動かした。
盤上遊戯。―――前世の世界では将棋やチェス、シャンチーなど、相手の王様にあたる駒を獲るゲームは結構多かったが、この世界にもまさにそういう遊戯が存在していた。
今やっているこれは戯軍という名で、少し駒数は多いがチェスと同じようなルールだ。
特徴的なのは弓兵と魔術士の駒だろうか。移動の仕方に違いがある両者だが、二マス先の敵駒を倒せるかわりに攻撃を選択すると動けないという特徴がある。逆に動くことを選択すると攻撃ができないという、移動と攻撃が連動しない駒だ。……この二つはおそらく、時代を経れば除外されるだろう。ちょっと守りに強すぎる。
あと、敵陣にたどり着いた駒が女王に成るというようなルールがないかわりに、最弱の歩兵でも前後に移動できる。
まあ前世のそれと多少の違いはあるが(そもそも僕は前世で、こういうゲームをほとんどやったことないのだが)、この手のゲームは多少ルールが複雑でも、勝敗は明確だ。王を獲ればいいのである。
その明快な勝敗設定こそがこういった遊戯の魅力であり、かつての世界にも広く存在したゆえんなのだろう。
「見たことのない陣形ですね」
僕と盤を挟む男がそう、呟きを漏らす。
ナーシェラン・スロドゥマン・フリームヴェルタ。先日めでたく即位し、神聖王国フロヴェルスの王となった……一国の王様だよなぁ。即位したばかりで忙しいだろうになんで僕と一対一で盤なんか挟んでるんだか。
僕、このゲームそんなに強くないんだが。
「ルトゥオメレン流だからかな」
適当に返答したが、実際は僕のオリジナル陣形だったりする。……とはいえ、そこまで奇抜な形でもないはずだが。
「組むのに時間がかかるわりには、柔らかそうですね」
コツン、と音を立ててナーシェランが駒を動かす。そんな音すら響くほどに、殺風景な部屋は静かだった。僕と彼しかいないから当然だが。
ナーシェランの私室……寝室は正気を疑うほどに物がなかった。上物ではあるが装飾のないベッドと、今ゲームに興じているテーブルと椅子二組。そして灯りのための飾り気のない燭台が四つのみである。レンガの壁は黒色で塗り潰され、窓はなく絨毯もひいていない。
ミニマリスト、というのとは違うだろう。王城内に彼の私室は他にいくつか存在するが、その一つに立ち入った時は上物の家具が一通りは揃っていた。
就寝時くらい、外界の一切から距離を置きたいのではないか……。そう邪推すると、ナーシェランが日々受けているストレスの度合いが分かるな。
「そっちは手堅いな。定跡通りだ」
盤上はやっと序盤の終わり、といった具合だ。王を端に逃がして守りを固め、攻撃の準備を終えたあたり。互いに駒は一つも欠けていないが、ひとたび開戦すれば派手な駒の取り合いになるだろう。
状勢は……後手のナーシェランが隅っこでガチガチに防御を固めているのに対し、僕の陣形は隙間が多い感じだ。この差がどう出るか、という勝負になるだろうか。
「さて、では行くか」
僕が軽い調子で歩兵を一つ進めると、ナーシェランは少し考えた後にそれを歩兵でとる。さらに僕が別の場所の歩兵を進めると、それも少し考えてからナーシェランは騎兵でとった。予定通りなので大して時間もかけず、僕は最初の歩兵を騎兵でとる。
そこからは派手な駒の取り合いになった。
今のナーシェランのように、隅っこに王を移動して周りを他の駒でガッチリ囲う陣形は、あまり知らない人は守りに主眼を置いた陣形だと思うだろう。―――だがそれは誤りである。片側に寄せて低く構えた形は、逆側から攻めれば案外脆い。
この陣形が怖いのは、王を狙えるまでが遠い、というところだ。つまり王手がかけられないのである。守り駒の肉壁を何枚か外さないことには絶対に届かない。
守り切るのではなく、時間稼ぎこそがこの陣形の真骨頂。そしてその稼いだ時間で、無茶な攻めを通してくるのだ。
案の定、展開はナーシェランが派手に攻め、僕が受けに回る形になった。……やっぱ強いなコイツ。まあ弱いわけはないと思ったが。
ナーシェランはロムタヒマ戦線を率いる指揮官であり、このゲームはただの遊戯ではなく用兵学にも使われる教材である。当然ながら彼は、この遊戯盤を学問として修めているハズだ。強いに決まっている。
まあ、だからこそ僕のオリジナル陣形が刺さるんだが。
「……ふむ」
盤上から駒が十枚ほど減ったところで、ナーシェランの手が止まる。形勢は僕が圧され気味の展開だ。
彼はチラリと僕の顔を見てから盤へ視線を戻すと、こちらの次手を伺うように僧兵で駒をとる。僕は斥候でその僧兵をとった。
派手な総力戦だが、手なりでの進行だ。盤の状況を考えれば自然な手の応酬で、次の一手は戦車で斥候をとる以外にありえない。……が、ナーシェランが考え込む。
「人が悪いですね。友達を無くしませんか?」
どうやら目論見を見透かされたようだ。
「僕の戯軍の相手はあのディーノ・セルでな」
このゲームはチェスに似ていて、とられた駒はゲームから除外される。将棋のように手駒にすることはできないため、進行と共に盤上からどんどん駒が減っていくことになる。……そのため遊戯としての欠点があり、あまり駒が無くなると双方共に相手の王を詰ませることができなくなることが、わりと頻繁に起こるのだ。
「あれでお貴族様だから、矜持をもってどんな状況でも勝ちに来る。実力はあっちが上なぶん特にな。けれど焦ってうっかり無理な攻めをしてくるなら、反撃で勝てる可能性も生まれてくるものさ。……たまにしかやらなかったが、何回かはこれで勝てたよ」
「だからって、最初から引き分けを狙いますかね?」
「引き分けでも悔しがるからな、あいつ」
己の駒を犠牲にしてでも、相手の駒を減らしていくこと。それだけに腐心するなら、相手が王様をどこまで堅く囲おうが関係ない。互いの駒数を減らしてから逃げ道の多い囲いから抜け出し、敵に掴まらない新天地へと王を逃がすのが最終目的だ。
勝つ必要は無い。そもそも実力で劣っているのに、まっとうにぶつかる方がどうかしていると思う。
「これは引き分けですね。当方もここから勝ちきれるほど強くはありません」
「ずいぶん諦めが早いな? まだ十分勝機はあるぞ」
結構減ったとはいえ、まだ盤上には十分に駒が残っている。僕からしてみれば、作戦通りの展開だけどまだまだ気が抜けない、って感じだ。
むしろ作戦の意図に気づかれた分、不利だとすら思っていたが。
「当方は貴族ではなく王ですので、敗北の可能性を広げながら戦い続けるよりは、早期の引き分けを選びます」
「……こんな戦法使っておいてなんだが、遊びなんだからもう少し引き際悪くてもいいと思うぞ」
「不毛な泥仕合で頭を疲れさせた後に、マジメな話なんてしたくないでしょう?」
まあそれもそうだな。わざわざこんな場所に呼び出されて、ゲームやってバイバイだなんてことはないだろう。
「魔族が休戦協定を持ち出してきました」
「知っているよ。突っぱねるべきだ」
あえて即答する。
魔族にとってハティータス・クメルビルスの招待状なんて、ついでに過ぎない。でなきゃ魔王が危険を冒してまで直々にフロヴェルスへ来る必要はない。
神聖王国の次期王を決める式典に出席しておいて、なんにもせずにじゃあバイバイと帰る方が不自然だ。
「理由は?」
「魔族が最も嫌がる選択だからさ」
向こうから休戦を提案してきたとなれば、苦しい状勢だと自ら吹聴しているようなものだ。望み通りにしてやる理由がない。
「新魔王への代替わり直後で、今が魔族は一番統制が取れていない。やつらを叩くなら今だ。逆に言えば、今を逃せば魔族は急速に力をつける。なぜかは分かるだろう?」
「たしかに。あなたが言っていたあのククリクという女性、そうとうキレ者であることは見て取りましたが……」
「そいつも危険だが、もう一人いるよな?」
ナーシェランが黙る。この男は身内、それも末の妹には特に甘いからな。
「あの新魔王がヤバい。過去の魔王は腕っ節が第一だったが、あれは王族として育った正真正銘の支配階級だ。政治力が違う。今はまだ魔族も混乱しているだろうが、いずれ前魔王ですら為し得なかった魔族の完全統率もやるかもな」
あのバ……前魔王、不正の温床だったボルドナ砦粉砕とか結構苦労してたもんな。最終的に追放されてるし。
「先日の短い演説でも、かなりやられましたね。ここ数日で我が国は、戦争希望の貴族と対談希望の教会で対立構造までできあがってしまいました」
「へぇ、教会が魔族滅すべしと言わないのは意外だな?」
「新魔王の顔も仕草も声も、我が妹そのものというのも……いや、本当に我が妹その人なのですが……影響したんですかね。神聖王国の王族は、言わば教会の子も同然ですから」
いずれ王となり教皇になるかもしれない子供たちだもんな。さぞかし教会の偉いさんは可愛がるだろう。
上層のお爺ちゃんお婆ちゃんたちは情くらい移っていてもおかしくはなく、ならばあの顔を見れば嫌でも動揺はしてしまう。それでいて宗教論争という下手すれば千年先まで続くようなテーマをぶっ込むことで、ここに来て神聖王国の足並みをガタガタに乱すことに成功した……全部計算ずくかな、あの魔王。
つまり、すでにまんまと時間稼ぎされてるわけだ。
「仮に戦う場合、最も危険な魔王とククリクの二人だけは逃がしてはなりません。……ですが、その気になれば魔族は魔界へ逃れることが可能です」
深々と息を吐いてから、ナーシェランは盤上から白の王と魔術士の駒をつまみ上げる。
それも頭の痛い話だ。
前魔王は魔界の瘴気が濃くなって来て避難場所を求めた、などと言っていたが、別に魔界の全土が危険になったわけではあるまい。
魔界からロムタヒマへ、ボルドナ砦経由で物資が送られていたことは知っている。人界にやってきたのは魔族の一部にすぎないだろう。
戦うならあの二人だけは殺すか捕らえるかしなければならない。でなければ意味が無い。あの二人のどちらかでも残せば、魔族は人族の手に負えなくなる気がする。
けれど、それが難しいんだよな。ロムタヒマって魔界に隣接してるし。
はぁ、と息を吐いて、僕は盤上の自陣へと視線を向ける。
黒の王の横には、守備に強い魔術士の駒が寄り添うように立っていた。
「ところで、ゲイルズ氏。ソルリディアには会いましたか?」
………………こんなもてなす気ゼロな部屋に通された時点で、予想はしてたけどさぁ。
「ああ、悪かったか?」
「悪いと思ってるから当方に無許可で行ったのでは?」
ナーシェランがにっこりと笑う。どうやらすっとぼけても無駄なようだ。
ところで今更だけど、顔色ヤバいなコイツ。目の隈すごいし、頬がこけてるし、もしかして激務でそうとうお疲れなんじゃないか。死霊に微笑まれてるような嫌な気分になるんだけど、もしかして精神的に限界だったりしてるのかなナーシェラン新王。
……伏兵がドバッと出てきたらスライム巨大化させて逃げようか。うん、そうしよう。
「なんのために見に行ったのです? あなたのことです、まさか興味本位だけではないのでしょう?」
まあ、それもこの問いに間違えたら、だろうか。
勇者の仲間たる僕の答えなんて、一つしか用意できないのだけれど。
「世界を救うためかな」




