問う者
多くの場所に赴き、驚くほどたくさんの景色を見た。得がたい経験をしてきたし、多くの出会いがあった。
この旅に出るまで引きこもりだったことを考えると、驚くほどに濃い時間を過ごしていると思う。
いろいろ酷い目にもあったし、痛ましい記憶もあるし、いまだに問題が山積みだけれど。……けれど、ふとした拍子に振り返れば悪くないと思えるのだから、僕はこの旅路が嫌いではないのだろう。
そんなことを考えるのは、今がものすごく気が乗らないからだろうか。
神聖王国フロヴェルス。
神の腕の力を秘匿し、一度レティリエを見限って殺そうとした国。
レティリエは故国を恨んでいないのは知っているし、暗殺を命じた国王も死去している。ナーシェランやネルフィリアの国でもある。
けれど、どうしても好きになれない。感情の奥で忌避感がある。……それを、国境を越えて初めて自覚した。
「なんででしょうね?」
星降る夜、というのだろうか。雲一つない夜の晴天の、星明かりの下、僕の隣でレティリエが小さく呟く。
睡眠は馬車内でとるため、夜は火も焚いてない。僕らは繋がれたまま寝る馬の傍らで、手持ち無沙汰に立ち呆けしていた。
国境の町をわざわざ素通りして馬を走らせても、夜は野営するしかない。治癒術にも限界はあるのだから、馬とて休まねば進めない。替えの馬など連れてきていないため、一頭潰れれば立ち往生してしまうだろう。
「なにがだ?」
僕らが夜の見張りをする必要はなかった。護衛の騎士たちで足りているからだ。
それでも常のように見張り番をしているのは、ナーシェランが自分たちを戦力として見ているから……というわけではなく、単純にすることがないからである。少なくとも僕はそうだ。
窓のない馬車で揺られるだけの日々は、僕でも少々鬱屈する。尻が痛いし身体が固まってしまいそうな気がしてくる。そのくせサスペンションが原始的なうえに急ぎだから振動が酷くて寝るにも難儀するから、もうかなり辟易しているところだ。
「故国に帰ってきたというのに、不安しかありません」
レティリエの声は陰っていた。
「理由は明白だろう」
「はい。まだすべてが終わっていないからです」
……そういう意味ではないのだけれどな。
彼女はこの国に一度見捨てられているのだから、不安になるのは仕方がない。けれどそれはこの国が悪いのであって、彼女に非があるわけではない。……いや、冷静に考えれば、非はあるのかもしれないが。
あの頃の彼女は世界の危機に直面するには、あまりにも力が足りなかった。
正直、今も十分に足りているとは言い難いかもしれない。少なくとも二百年前のソルリディアのように、すべてをなぎ倒して進むような強さはない。
多くの者が言うだろう。彼女より相応しい者がいると。そして彼女一人の命で力を渡せるのなら、多くの民のために犠牲になるべき、という意見は当然だ。世界はそこまで甘くはないのだから。
多分、僕でも立場が違えば、神聖王国の王と同じ決断を下したのではないか。
「すべて終わらせれば、たしかに君はこの地に堂々と帰ってこれるだろうな。経過にケチをつける者はいても、ごく少数に留まるハズだ」
これは希望的な話ではなく、実際そうなるだろう。勇者というブランドは強い。どれだけ手際が悪くとも、最後に勝ちさえすれば、世論などあっさりひっくり返る。
あれだけ悪名高いソルリディアもそうだった。
「そうなるように、頑張らなければならないのですけどね……」
星を見上げる呟きは、もどかしそうだ。
思えば、遠回りばかりしてきた旅路だった。けれどそれでも、後ろに戻ったことはなかった。少しずつでも前に進めていた。僕らは魔王の膝元まで行ったのだ。
けれど、この神聖王国はこの少女にとってスタート地点。しかも理由を思い起こせば、足を引っ張られて戻って来たに等しい。
「無駄な仕事だとは思うが、やっておかなければならないことだ。さっさと始末をつけて、ロムタヒマに戻ろう」
「そうですね。……はい。そうしましょう」
僕の言葉に、レティリエが幾分明るさを取り戻す。それが強がりだと分かっていても、なんとなく救われた気がした。
「さぁて。はたして、本当にそうかな?」
かけられた声は、渋いが柔らかい、中年男性のものに聞こえた。
「やあ、こんばんは。驚かせてしまったかな? 本当はいきなり奇襲してみようかと思っていたのだけれど、面白い話をしていたからね。ちょっと混ざらせてもらうよ」
あまりにも場違いな、朗らかな声。しかもそれにしては嫌な単語が混ざっている。
僕もレティリエも、一瞬で戦闘態勢に入った。この旅の間に、僕らはずいぶん物騒な人種になっているようだ、と頭の片隅によぎる。
「危険性の話をしてみよう。人族にとって、どちらが至急対処すべき問題か。ええ、考えるまでもなく明白だと思うのだけれどね」
闇からまろび出てきた男は不自然なほど軽装だった。
街道とはいえ、国境の町から大分進んできた。人里からは離れている。なのにその男は、旅装ですらない。着ている服は半袖に長ズボンのみで、鞄もなし。街中にでもいそうな格好だ。
「魔族を放っておけば、人族が滅ぶ可能性がある。神聖王国を放っておけば、国が滅ぶ可能性がある。さて、人族の希望たる勇者殿はどちらを優先するべきだろう?」
距離は約十歩。見張りの騎士たちの明かりが遠いから人相までは見えない。細身で中背。声は若くなく、しかし年寄りと言うほどには嗄れていない。
闇の仮面の被った正体不明の男。そんな印象を受けた。
この相手は異様だ。まず、部外者がここに居ること自体がすでに異常である。
「おっさん、どうやってここに来た?」
「質問に質問を返すのではないよ。こちらの質問に答えたまえ」
「そっちの見張りの騎士はどうした?」
「はぁ……育ちが悪いな。眠らせてあるよ。殺すのは面倒だったからね」
肩をすくめて、からかうような口調。分かりやすい挑発だ。レティリエが剣に手をかけるが、僕が一歩前に出て制止した。
敵には違いないだろう。だから戦うことはいい。
だが、この相手はナーシェラン直属の護衛騎士数人を眠らせてきた。それだけで、魔術師で手練れであることは分かる。その相手が、レティリエが勇者だと知っていて挑発している。
であるならば、それに乗るのは避けるべきだ。罠に飛び込むようなもの。それがレティリエに有効かどうかは別の話だが。
「僕が質問に答えよう。勇者は魔族に対処すべきだ」
レティリエがこちらを見るのが分かったが、僕は警戒したまま視線を動かさなかった。
「ほう、ならばなぜこちらに来る?」
「状況が状況だからな。ロムタヒマを攻めるために、フロヴェルス軍と足並みを合わせたい。そのためには神聖王国のいざこざが邪魔。結局今は魔族に対抗するのに、余計な手順が加わっているというだけの話だ」
正直に答えてやる。会話がしたいのならしてやろう。取り押さえるのはその後でいい。
……もっとも、それが簡単にできる相手とは思えなかったが。
「なるほど。筋は通っている。だが落第点だな」
ふふん、と鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌で、男はこちらの選択を採点する。顔は見えないのに、浮かべる表情がアリアリと見通せるようだ。
声の抑揚がハッキリしていて、感情を声に乗せるのが上手い。詐欺師タイプだな。
「フロヴェルス軍の司令官がすげ変わるのが気に入らないなら、司令権など奪い取ってしまえばいい。勇者の力と称号のブランドがあればできるだろう。自分の手で軍を掌握しよう、という選択肢はほんの一欠片でも頭に浮かんだかね?」
「むちゃくちゃ言うなおっさん。面白い発想だが、無理が過ぎる。フロヴェルス軍は一枚岩じゃない。それをやれば軍部が分裂して足の引っ張り合いになるのは目に見えている」
はあ、とため息を吐いてやる。考慮にも値しない妄言だ。勇者の力を乱用して人族を従わせるなんて横暴、歴代でやったのはソルリディアくらいだろうか。
「やれやれ。今代の勇者はずいぶん大人しい。そして嘆かわしい。フロヴェルスに振り回されて、ずいぶん酷い目にあったというのに。飼い犬でももう少し反抗すると思うよ」
「それで? おっさん何者だ?」
「おや、オジサンの話は無視かね」
「これはただの意見の相違だろう。尊重して心にとめてやっても良いが、初対面の相手の言いなりになる筋合いはない」
会話しながら改めて距離を測る。約十歩の距離というのはなかなか始末が悪い。話すのは問題ないが、なにかしようとすれば余裕を持って対処されるだろう。
この距離が相手の選んだ間合いだと考えれば、どうにかして詰めたいところだ。
あるいは、レティリエならば一瞬で接近できるだろうか。
「もう一度聞くが、おっさんは何者だ?」
これだけ離れていれば、声はそれなりに大きくならざるを得ない。周囲に響くはずだ。それでも騎士たちが様子を見に来ないのは……静寂の結界を事前に張られているからだろう。
僕もレティリエも魔力抵抗力は高いが、魔力感知力は低い。エルフの二人なら気づけたかもしれないことを考えると、真剣に見張りの順番の考慮が必要だな。
「今代の勇者を憂慮する者だよ」
おどけたように腕を広げ、闇で顔を隠した男が嘲笑うように声を発する。
声音で分かる。その男はおそらく、最初から僕の事なんて見ていなかった。僕と会話しながら、レティリエだけを観察していた。
毒虫が肌の上を這い回るような嫌悪感が、あった。
「オジサンはね、レティリエ・オルエン嬢ははたして、本当に勇者にふさわしいのか。今一度それを問う者なのだよ」




