王女と前魔王
「うっわ」
思わずそう漏らしていた。ドン引きすると自然と声出るんだな。
僕は夜の闇の中で、座り込んだ青年と、その彼に目線を合わせた少女を見る。
赦されざる者と、赦しを与える者。―――その構図は立ち入ることのできない聖域にすら見えて、それが酷く恐ろしいものに感じた。
国境の町の一件を思い出す。
あの物盗りの少年は住む場所を追われた末に困窮し、罪を犯した。そこだけなら、境遇は魔族と変わりはしない。
ただ……あまりにも重さが違う。あれを赦すのだからこちらも赦すというのは、道理が通っていても道徳が通らない。
突飛で、考え無しで、ありえないことだ。そしてあの少女が軽々しく言ってはいけない言葉でもある。
けれど。
―――罪を赦すのは、悪ですか?
あの時に問われて、僕は答えられなかった。
それは決して悪ではないのだろう。もしかしたらなによりも尊いことなのかもしれない。
しかし、それを軽々しく行ってはならない。それだけは断言できる。
赦されて良い罪はあるだろう。赦してやりたい罪はあるだろう。赦して欲しい罪はあるだろう。
だが、赦されてはならない罪はあるのだ。
そして、赦しなど望まぬ罪だってある。
赦されてはならないと、心に楔を打ち付けるような罪はある。
「ネルフィリア」
少女に声をかける。
僕にはその光景が、酷く残酷に見えたから。
……あるいは、そう見えるのは僕だけだったのかもしれないが。
「そいつは、今日は観客だ」
ネルフィリアはこちらを振り向いて少し僕を見つめ、それからゴアグリューズに視線を戻す。
立ち上がり、一礼した。
「差し出がましいことを言いました。忘れてください」
そうして、少女はこちらへ向き直り、戻ってくる。
「そうはいかないだろうよ」
けれどゴアグリューズの声に、その歩みは止まる。
しかして男は、俯いていた。自分で呼び止めたくせに、顔を上げようとしなかった。
「俺を赦して、なんとする」
あがくような、声音。いつもの快活さが微塵も感じられない声。
ネルフィリアは再び、彼と向き合う。
「なにも。私はあなたになにも望みません」
「意味が分からん」
獣の威嚇のように、低く。
傍目にも分かるほど、青年は苛ついていた。
「罰もなく、贖罪もなく、取引もなくただ赦すと? 何千か? 何万か? 俺の号令で出た人族の棺を数えてから言えよ、お姫さま」
「魔族の棺も数えましょうか?」
「いらねぇよ。棺を作る魔族は希少だ」
そういうことを言ってるわけじゃないことくらい、分かっているだろうに。
僕はため息を吐く。―――ここに来て、完全に外野になってしまった気分だ。脇役ですらない観客。さっきのゴアグリューズのように積極的に巻き込みを狙われることもないのだから、もう完全に蚊帳の外である。
まあ、おそらくあの男は暴力を使用しないだろう。できないだろう。
彼は力をギフトだと自嘲していた。彼にとって、力の強さとは誇るものではない。ゴアグリューズの暴力は転生時に贈られた道具であり手段でしかなく、己の正しさを肯定する要素たり得ない。
だから彼はあの力持たぬ少女に対し、ただ言葉を返すしかないのだ。
なら、あんなおっかない空間に手を出すほど、僕は身の程知らずではない。
「分かっているのか? 人族の王族として、俺みたいな輩を赦すという意味が。それは俺を、魔族を憎むすべての人族を敵に回すということだ」
「魔族も人でしょう」
あっさりと。
あまりにあっさりと、この女は人族の禁忌を口にした。……ほらもうおっかなくって仕方がないよ本当に。
ああそうだ。僕だって分かっていた。分かっていて、分けてきたのだ。
少し考えれば分かる。魔族と人族は姿形が似すぎている。言葉も話せるし、知能だって人間以上に賢い者だっている。ここにいる魔族の青年など、ああしている分には人間と見分けがつかないほどだ。
ならば、同じものから派生した、と考えるのが普通だろう。
ああ、そうだとも。僕らはそれをなんて言うのか、知っていた。人種差別ってヤツだ。むなしくなる言葉だな。肌の色なんてヌルい違いじゃないぞ。
世間知らずにもほどがある。こんなの異端審問官が束で首をくくりに来てしまう。あの異端認定一歩手前な神学者のイルズですら言わないだろうさ。
「人族も魔族も同じ人。たとえ敵方としても、相手に敬意を払うことは可能です。その正義に尊さを見いだすことも、できるでしょう」
「同じなわけあるか」
「なぜ目をそらすんでしょうね?」
本当に不思議そうに、ネルフィリアは首をかしげる。
ハタから見れば当然なのに、と。
当事者でなかった少女は分かっていてのたまう。
「見た目が違う。能力が違う。瘴気の有無が違う。心の在り方が違う。同じではない。そんなことで目をそらしていいのでしょうか?」
「十分だろ」
「では、目をそらさねばならない理由になるのでしょうか?」
言葉は穿っていく。僕らの中にある固い何かを。
けれど、僕らはとても頑固でひねくれているから、それを認めることはできない。
「神が言っているだろう。俺たち魔族は違うから殺していいと」
「直接聞きましたか?」
神聖王国の王女様さぁ……。
それは宗教への宣戦布告だろうよ。
「同じ人であるなら、あなたの苦悩を理解することも、できるはずです」
「それができないから人類は何千年も殺し合うんだ」
ゴアグリューズの言葉は至極まっとうで、ネルフィリアは人の理想を語る。
しかし……人族とは言わなかったな。人類と来たか。たぶん前世の話だ。
たしかにあの世界はこの世界よりずっと進んでいたが、争いはなくなっていなかった。
けれど彼女にそんなものは関係ない。なんならこの世界の話すら関係ない。
今更に、分かった。彼女は特異点だ。
「それを止めたいと願うほどには、私はロムタヒマに集う魔族たちが民であることを知っています」
彼女は見ていた。後に魔王に担ぎ上げられる姫君の内で、姫君を魔王に担ぎ上げた者たちのことを。
己の意思で動くことができず、もう一人の自分の視界から世界を覗き見るだけの魂は、その光景をどう感じたのか。なにを感じ取ったのか。
誰よりも無力で、最初からずっとなにもできなかった少女にとっては、人族も魔族も変わらないのではないか。善悪も力の過多も、測る天秤など彼女の内にはハナからないのではないか。
ならば、それはひとくくりに、他者でしかないのではないか。
「怖ぇ……」
危うさを感じて、僕は思わず呟いていた。正直ドン引きっぱなしである。
懐かしい怖さだ。以前……まだこうして旅立つ前の、ヒーリングスライムについて説明したころのレティリエに感じたものと同種の怖さ。
けれど、これはそれを上回る。
前魔王にとって、人界は治安の悪い外国くらいの認識だった。
この少女には、その程度の境すらもない。差別どころか、区別すらもしていないのではないか。
「願って、どうする」
「叶うように努力します。神聖王国の王女として」
「できるはずがない」
「かもしれません。けれど、なにもしない理由にはなりません」
「リッド・ゲイルズ!」
慮外に名前を呼ばれ、僕はそちらを振り向く。
形勢は明白。ネルフィリアは立って見下ろし、ゴアグリューズは座って俯いている。
「何か言ってやれ」
バカ言うなこっちに飛び火したらどうするんだ。罪があるのはお前だけじゃないんだぞ。
あの無垢な目で見通されたら心が砕けるだろ。
「君は戦いを見過ごしただろう」
やれやれと、僕はエルフ姉弟を指さす。
「なにかしたいと願うなら、まずはあの二人を止めるべきだった」
というか止めてほしかった。これはもう本当に。あんなの二度とやりたくないぞマジで。
「止められると思いますか?」
「まあ止まらなかったと思うけど」
当然のジト目に、僕は諸手を挙げて降参。役立たずをアピって危険区域から離脱。
舌打ちが聞こえてくるが無理。今回悪いの僕だもんな。ちょっと対抗できない。
「ミルクスさんやモーヴォンさんを否定することはできません。私には止める力もありません」
ていうか、この子あれだ。全然そんなふうに考えてなかったけど、多分……―――
「ですが憎しみ殺し合うだけでは、あまりにも悲しいではありませんか」
―――考え方が聖女だわ。
テレビの映像を見るような感覚だろうか。身体の主導権を乗っ取られた魂の見る世界は。
いや、嗅覚や触覚をも感じられるのであれば、もっと臨場感はあるだろう。
けれどなにもできないのは一緒だ。指の一本も動かせず、まばたきの一つも自由にならない。
誰も、自分のことなど知りはしない。一方的に知っているだけの、画面越しの誰かでしかない。
彼女の世界は、ずっと閉ざされていた。
であれば、この世のすべては他人事。
あらゆる光景に実感はなく、喜びに感動するような光景も、嫌悪感に吐き気を催す光景も、どうしようもない壁が隔てて思考はずっと冷静だ。
そうして、ただただ疑問が募る。
この世界はどうしてこんなに歪なのだろう?
「それで、なんの力もない王女が俺を赦して、どうなる?」
ゴアグリューズの声は落ち着いている。諭すようですらある。
彼女の理想は、僕ら転生者が諦めたものだ。現実がまるで見えていない、世界平和を短冊に書く子供と同じ。
軽々しいのだ。薄っぺらいのだ。鼻で嘲笑われる妄言なのだ。
「なにも。ええ、なにも変わりません。私がどれだけ言葉を尽くしても、ミルクスさんやモーヴォンさんの憎しみを消し去ることはできないでしょう。それくらいは分かります」
けれど魔族の青年は転生者。
この世界に重要な役割を持って産まれてきたと勘違いする、この世界最強の愚者。
「ですが、私があなたを赦さなければ、二人に言葉を尽くすこともできません」
―――ハ。ムチャクチャだな。
大罪人を赦すのは、己が進むため。己の進む道を定めるため。そもそもが罪人のためですらないと。
こうまでワガママを言われると、むしろ気持ちがよくなってくる。聖女なんてとんでもない。これは他者を振り回しながら一方向へ突き進む災害の雛。
あれはたしかに、アノレの門下。……僕の弟子だわ。
「……やってみろ」
ああ、敗北したな。完敗しやがった。転生者のくせに、転生者だからこそ、こんな未熟にも勝てなかったか。
青臭いだけの理想を、夢見てしまったか。あーあ。
「俺が見る限り、人族と魔族の共存の方法が一つだけある」
……ほう?
「ロムタヒマだよ。魔族が人族を管理し、飼う。これで魔族と人族は仲良くなれるぜ」
とっておきの冗談を言い放ったかのように、魔族の青年はクツクツと笑う。その陰気な笑いは、彼には全く似合っていなかった。
だから本心じゃないな。望まない未来だろう。
だが、紛れもなく魔王の視点だ。
「そもそも魔族から見たらお前ら、わりと食料寄りだしな。仕事もやらせられるし、家畜としては申し分ない。―――ああ、逆はダメだ。人族は魔族を殺し尽くすだろうさ。危険なだけだからな」
前魔王は顔を上げる。神聖王国の王女と再び目を合わせる。
「お前はいずれ、意見を覆すよ。……今は大切なものがないから好き勝手言えるだけだ」
それは予言。けれど、祈りが込められているように感じた。
「切に願おう。お前の心になによりも大切な、この世のすべて敵に回しても護りたくなるような宝が生まれることを。……それまではせいぜい、あがいてみせろよ王女様」




