神聖王国の王女
ヒッ、と短い悲鳴がした。殴り飛ばしたモーヴォンが地面に倒れるのと同時、エルフ姉弟が出てきた木陰あたりから。
……そうか、君も来てたのか。
「ネルフィリアだな?」
痛む右拳をさすりながら声のした方へ向けて問いかけると、数秒の逡巡の末に人影が出てくる。
繊細なアッシュブロンドの髪が夜風に流れる。それは祈るように胸元で手を組み、不安そうに俯いて目を合わせようとしない、怯えた少女だった。
神聖王国フロヴェルス第三王女、ネルフィリア・スロドゥマン・フリームヴェルタ。
僕の弟子。
「やはり君か。二人に漏らしたな?」
「はい。問い詰められて……こんなことになるとは思いませんでした」
これでだいたいの流れは分かったか。
「そうか。まあいいさ」
あっさりとそう許すと、ネルフィリアは驚きに顔を上げる。
バツが悪くて、僕は彼女から目をそらした。エルフ姉弟の状態を見る。
ミルクスはもとより気絶していたが、モーヴォンもさっきので気を失ったようだった。
おそらく殴られたことはきっかけに過ぎず、魔力枯渇の方が原因だろう。瘴気妖精を召喚した後から大分消耗していたし。
……しかしまいったな。魔力不足による昏倒となると、数時間は起きないかもしれない。ヒーリングスライムはこの場合役に立たないし、魔力回復用の霊薬なんて素材が足りないし、どうしようかこれ。気休めでマナを集める魔術陣でも書いとくくらいしか方策がない。
「あ、あの……怒らないのですか?」
おずおずとネルフィリアが問うてきて、僕は口を歪める。やはり逃がしてくれないか。
「今回は僕に非がある」
だから彼女を責めるのは筋違いだ。
リスク回避しながら上手くやろうとして、本当の最悪が見えていなかった。思えば、転生者であることを言わなかったのも、ウルグラに来た本当の目的を隠したのも、この二人にとっては憤慨ものの裏切りだったろうし、傷つけてしまったのだろう。
だからミルクスは挑発を流せず矢を射かけ、モーヴォンはあそこで止まれなかったのではないか……まあ目前の前魔王の存在が大きかったとは思うが、それは一因ではあるのだと思う。
そしてもちろんネルフィリアにとっても、隠すのに心を痛めていたことだろう。
それくらい分かっていたつもりだった。けれどこんな結果を突きつけられてみれば、自分がどれだけ分かっていなかったかを痛感する。
ゴアグリューズの言うとおり、本当に僕は人の心が分からないのだ。
「……おいおい待てよ。なんで新魔王殿がここにいるんだ?」
声がして振り向けば、前魔王の男が本気で訝しげにネルフィリアを見ていた。
……いまだ座った状態なのは、徹頭徹尾で手を出さないという決意の表れだろうか。それでも当然、ネルフィリアは怯えているが。
「そうか。お出かけ中に謀略で王位簒奪されて追放になったから、魔王軍の詳しい成り行きを知らないんだなお前。彼女は新魔王じゃない。お前の言うダブルソウルの、もう片方だ」
「あ、あー。なるほどそういうこと。つまり、あっちの姫さんは魂を取り出して新しい身体ってわけだ。ククリクが考えそうなこった。そりゃ、新しいオモチャがあれば簒奪組にも協力するよなあの女だし」
……あー、散々こいつが重用しただろうに裏切った理由、それか。ていうかククリクへの信用度すげぇな。低い方に。
「ってことは、今の姫さんは魔族の身体だな」
……うっわ。
「頭痛い爆弾発言きたよ。もうヤダ……マジかそれ?」
「マジマジ。魔族は人間に従わないし、だったらククリクが躊躇するはずないじゃん」
「できるならやるな、あの女」
そしてできるなぁ多分。僕もレティリエの身体構成するとき、ちょっとだけ勇者の力に適応するよういじったし。
素体の規定値を操作して魔族の身体の基準値に近づけるくらいは、おそらく両者のサンプルがあれば可能だ。問題はその振れ幅が大きすぎると魂に拒絶反応が出かねないとこだが……。
「そうか。で、そっちの姫さんは解放されて救出されて、晴れて自由の身ってわけだ。どうだい、姫さん。自分で歩くこの世界は?」
ゴアグリューズのあまりに軽い問いかけに、ネルフィリアはびくりと身構える。
前魔王で、かつて自分の身を攫った相手だからな。そして自分が謀殺しようした相手でもあるわけだし、そりゃおっかないよな……まあ、そのネルフィリアは今の彼女じゃないわけだけど。
「……わかりません」
それでも真摯に、彼女は答えた。
この世界に本当の意味で触れて間もない少女は、今、最も世界を狂わした転生者と目を合わす。
―――きっと、この二人の対峙は、運命だった。
「わからないのです」
もう一度、彼女は首を横に振る。悲嘆にくれる表情で。
その問いは、彼にとっては軽いものだったが、彼女には違ったのだろう。
「私は、まだ不自由なころから、神聖王国が好きでした」
すっかりと静かになった夜の広場に、少女の声だけが響く。
「父も、母も、兄も、二人の姉も、とても素晴らしい人で。周りにいる人たちも、とても善い人で」
……ツッコミどころが一個あったけど、指摘しちゃダメなヤツかなこれ。
「だから私は、もう一人の私を応援していました」
ゴアグリューズの眉がピクリと動く。僕もそれには呻った。
彼女は僕らの被害者のはずだ。転生者によって人生を奪われていた、転生者を憎むべき者のはずだ。
それなのに、応援していたとは。
「もう一人の私は、王家を上手くまとめようとしていました。一番末っ子の立場から、家族の歪みを直そうとしていました。そして、それは成功していたのです。……もし私だったら、多分できなかったでしょう」
まああの家庭にはエストがいるからな。それに王族なんてどうせ権謀術数の坩堝だろうし。見ていて、これはちょっと自分でやらなくてよかったわ……って思ってたのかもしれない。
しかし凄いなカリスマ姫の方。王家の仲を一番下の立場からコントロールして、成功していた、か。
ナーシェランを引っ張り上げたのは彼女という話だったが、どうやら他にもいろいろやっていたらしい。……もしかしたらエストにも牽制なり懐柔なりしていたかもしれない。
「そしてその在り方は、ロムタヒマでも変わりありませんでした。もう一人の私はロムタヒマの生き残りの人族のために尽力し、そして魔族の方の事情も理解に努め、両者にとって少しでも良い方向へと誘導していました。……誰よりも近くで見ていたから分かります。もう一人の私は、常に良き未来を目指していた、と」
一歩、ネルフィリアは進んだ。ゴアグリューズの方へ。
己に問いかけを発した、魔族の方へ。
「私と彼女が離れて、自分の手足を動かしたとき、絶望感すら覚えました。私はきっと、ああはなれない、と。……レティリエさんとリッドさんが救けに来てくれたとき、ルグルガン殿に、もう要らない、と言われて―――そうでしょうね、と泣きそうになりました」
さらに一歩、少女は距離を詰める。座り込む前魔王へ。
「レティリエさんに王女であると認めて貰ったときは、嬉しかった。師匠に魔術の才能があると言われたときは、涙が出そうでした。ミルクスさんやモーヴォンさんは分け隔てなく接してくれて、胸がいっぱいになりました」
―――……本当に、ゴアグリューズの言うとおりだ。
「けれど、兄に政略結婚の道具にされそうになったとき、分かったんです。みなさんは私に優しくしてくれますけれど、必要とはしていない、と。みなさんが本当に求めていたのは、もう一人の私なのだ、と。……そんな当然のことを、改めて理解しました」
僕は、人の心が分からない。
「悔しかった。だから反発して、ゲイルズさんに弟子にして貰って、私でもなにかできると証明したかった。……師匠に私にしかできない仕事を与えられたとき、舞い上がりました」
たったあれだけのことで、彼女がここまで救われていたなんて。
「けれど、国境の町を見ました。衣食住にも困窮するロムタヒマからの亡命者と、変わらぬ生活を営もうとする街の人たちを目にしました。そして、思ったのです」
一歩一歩、進んでいく。距離が縮まっていく。山吹色の目に見据えられて、青年は動けない。
魅入るように、ゴアグリューズは少女を見上げる。
「私はネルフィリア。ネルフィリア・スロドゥマン・フリームヴェルタ。神聖王国の王女。……その私には、もっと他にやるべきことがあるのではないか、と」
もはや前魔王まで数歩の距離で、ネルフィリアは立ち止まって見下ろす。
その目には、強い意志が宿っていた。
「私になにができるかが、わかりません。この世界に立ってまだ幾ばくもない自分がやっていいのかも、わかりません」
その瞳は強く真摯に輝き、曇りなく。
「もういい」
前魔王が口を開く。短く制止する。
……その姿を哀れだと思ったのは、僕の気のせいなのだろう。
「けれど、わからなくても、やらねばならない気がするのです」
「もういい」
僕は懐のヒーリングスライムの結晶に手を伸ばし、そしてやめた。あの男が暴力に訴えることはないと知っていた。
だからこそ痛ましかった。
「あなたはロムタヒマを滅ぼし、あのエルフの二人の里を含む多くの人族の集落へ被害を出しました。それは悪であり、罪であることに変わりありません」
倒れ伏すエルフ姉弟の姿を横目で見てから、ネルフィリアはゴアグリューズへと視線を戻す。
「ですが、ロムタヒマに捕らえられていた私は、あなた方魔族の事情を知っています」
彼女は誰よりも無垢で、純粋で。
僕らには心が握りつぶされるほどに、眩しい。
「あなたは、国境の町で出会った物盗りの少年と同じ。―――そして、なにかをしたいと願う、今の私と同じ」
さらに一歩、距離が詰まった。そしてもう一歩も、あっさりと縮まった。
ネルフィリアは地面に膝を突き、座り込む男へと視線を合わせる。
「あなたの罪を、私は赦しましょう」




