星々はその決着を見下ろす
魔法とは、広義においては魔力が関わって起きる、あらゆる現象の総称。
魔術とは、魔力を使用した技を纏め精錬し、伝え授けることができるよう体系化したもの。
魔法とは、狭義において魔術の域を外れ、他者への相伝が不可能なほど資質に依存し実現する魔法技術。
ヒーリングスライムを魔法とは呼ぶまい。
あれは決して、他者ではたどり着けない境地ではない。前世の知識による文法を使用して術式を書いているが、効率化と暗号化に役立っているくらいで、やろうと思えばこの世界の文法で実現できる類のものだ。
―――それに、ヒーリングスライムはいずれ流布する。誰でも使えるように、誰でも造れるように、完成度を高めて広めるべきだと考えている。そして、であれば、術と呼ぶのがふさわしい。……この場合は魔術ではなく錬金術だが。
だが、これは違う。僕にしか使えず、他の誰にも継がせる気はない。
これこそは僕の魔法。
そして、僕の罪。
『Hack!』
ガチン、と脳内のギアが一気に上がる。どぷん、と深みに潜る。自意識が真っ逆さまに落ちる。
命令を受けたヒーリングスライムが励起する。
スライムの粘体が淡く光り、闇猫に使用された術式を映し出す。―――ククリクの瘴気の魔具を解析するのに使用した、魔視鏡の術式と原理は同じだ。
闇猫が伸ばす蝶羽が迫る。細かなところまで見る暇はない。術式を読み解く時間もない。
一目で、見抜く。
「完璧な術式は存在しない」
漏れた呟きは、僕の背を押し容易く一歩を進ませた。
スライムの疑似神経を操作する。物理的に動かすのではなく、魔素による術式への侵入を試みる。
世界がゆっくり動くような気がした。集中力が限界点を突破する。音が消えて、視界が鮮明になる。色がハッキリ見えて、輪郭がクッキリ見えて、活きているモノとそうでないモノの明暗が可視化する感じ。
酷く感覚的なモノだ。おそらく僕にしか理解できないものだ。
以前、戯れでピアッタやワナにさわりを教えたことはあるが、あの二人ではこの感覚を共有することはできないだろう。そして、絶対に分からせたくないものでもある。
あの二人はこんなもの、知らなくていい。
これは、僕の根底に潜む悪意の視界。
『Crack』
術式の脆弱な部分に侵入する。スライムの疑似神経を繋ぐ。
闇色の猫の動きが鈍った。蝶羽が……前魔王をも一撃で殺すと豪語した殺意の鎌が、僕とゴアグリューズの目と鼻の先で止まり、苦しそうに震える。
相手は瘴気。触れるだけで侵蝕される属性だ。長くは保たないだろう。
疑似神経を操作する。術式の一部を消す。書き換える。追加する。
濁流が浸食するように。
闇色の猫が声にならぬ絶叫をあげた気がした。
表面から奥へ。奥へ。奥へ。傷口に指を突っ込んで、ミチミチと音を立てながら、無理矢理に開いていく。
深く、深く、深く。潜っていく。己の内へ。数多の引き出しを空けて、新しい扉を開けて、彼の術式を陵辱するための手法を片っ端からつかみ出す。
今更ながらに抵抗が来る。闇猫が瘴気をまき散らす。じわりと身体を侵蝕される。
かまわない。脳内が真っ白で、世界は止まって見えて、回り道をする必要はないと感じて……ゴリ、と押し込む。
たぶん、きっと。……僕は笑っていた。泣いていた。怒っていた。慟哭していた。
暴き、壊し、蹂躙する―――前世で散々やってきたコトだ。
解体し、作り直し、いいように操る―――罪悪感が胸を刺し、スリルに心が躍る。
バラしテ、バラしテ、バラす―――もし、この世界で僕に役割があるなら。
「ああ……ちくしょう」
胸の奥の棘が歓喜に鼓動していた。
コワセ、コワセ、コワセ、と激しく燃えていた。
僕の身と心を灼いて、怒りに震えていた。
―――すべて壊してしまえ、と中指を立てて、かつての僕が猛っていた。
「未熟な術式のクセに、ここまで強固か」
けれど今の僕は、術式の向こう側を読み取って、静かに呟く。
暴れる闇猫を押さえ込み、組み伏せて、核を手中に収め。
「そこまで勝ちたかったかよ、モーヴォン」
首の骨を折るように、ぐしゃりと握り潰した。
ヒゥ、と細く息を吸った。呼吸さえも忘れていた。
頭が呆っとする。うまくモノが考えられない。立ちくらみがして膝を突く。天を仰ぐと……美しい、とても美しい星空が見えた。
綺麗だな、と。心の底から思った。
「勝負あり」
夜風に乗って、この場でただ一人元気な男がそう宣言した。……それで、ああそうか、と僕は状況を思い出す。
「いい戦いだった。最高だ。グッときたぜ」
観客が何か言って拍手している。最後まで観客であり続けた、今回の中心人物。
闇色の猫は消え、スライムは瘴気に濁り、ミルクスは気を失って、モーヴォンは驚愕した顔で僕を見ていた。
夜の空気を大きく吸って、大きく吐く。耳の血管が脈打つ音がうるさくて、心臓がバクバクと鳴っているのを自覚した。吹き出て流れた汗が目に入って手で拭おうとしたが、力が入らずもどかしいほどゆっくりとしか動かなかった。
惨憺たる有様だ。笑えてくるほどにボロボロだ。―――だが、なんとか終わったようだ。
……ああいや、まだ残っているか。
「僕は、魔術学院に在籍する錬金術師でな」
足に力を入れて、難儀しながら立ち上がる。集中しすぎた反動なのかフラつくが、歩けないほどではない。
気力を振り絞って歩く。
「ヒーリングスライムの特殊仕様は元々、対魔術師用だ」
これが種明かし。今まで機会はなかったが、だからこそモーヴォンは知らなかった。
すべての魔術に対処できるわけではない。たとえばさっきも見た火炎弾などは、解体より先に炸裂するから無理である。
せいぜい結界破りくらいの使い方を想定したまま、機会なく死蔵していた機能だが、あんなモノを相手にするとはさすがに思わなかった。……あと少しでヤバかったかもな。脳の血管が切れて廃人同然になっていたかもしれない。
膝を突くモーヴォンの前で立ち止まり、見下ろしてやる。少年の顔が悔しさに歪む。口を開く。
「あなたは……何者ですか」
その問いは、させてしまった僕に非があるのだろう。
だから、僕は真実を教えてやる。言葉は選ばず事実を告げる。
「異世界からの転生者」
誠実であるには遅すぎるのだろう。
けれど、今更ながらに真摯に、向き合うことにした。
琥珀の瞳が驚きに見開かれたが、すぐに納得の色を灯す。
「……ネルフィリアさんも同じですか? 魔王になったとかいう方の」
理解が早いな。まあ、彼にもいろいろヒントはあったはずだから、謎が解けた、という感じなのだろう。
僕の術式の文法だったり、シュレディンガーの猫とかいう異世界の話だったり、おそらくネルフィリアについて訝しんだ原因であろうナーシェランとの交渉の件だったり。
「そこの前魔王もそうだ」
「はは……悪い冗談じゃないんですよね」
冗談なら良かったんだろうかな。
「あなたたち三人で、この世界をどうするつもりです?」
その声に力はなかった。
会心の魔法を解体されて、その相手が異世界転生者という特別で、得体の知れなくて、だからなにをやっても勝てないかもしれないと―――そう諦めるのは、無理もない。
「―――バカ言え。他の二人は知らないが、少なくとも僕は、この世界に変えられたんだ」
その言葉は無意識からするりと出て、言った後でストンと腑に落ちた。
ふと空を見上げれば、見下ろす星々の美しさが心に降りる。今日見たどんな芸術品よりも、その光景は綺麗に感じた。
「知っているかモーヴォン。臆病な者にしか、本当の勇気は出せない。……人は大切なものがあるからこそ臆病になり、そして大切なもののために勇気を振り絞る」
多分、僕には勇気が足りなかったんだろう。だから皆に相談しなかった。できなかった。その結果がこのざまだ。
今回の件で悪いのは僕。それはもう確定で、言い逃れもすまい。
けれど、これとそれとは別の話だ。
「覚えておけ。今回の君のは、勇気じゃない。―――それが君の敗因だ。転生者がどうのなんて、関係はない」
左手で少年の胸ぐらを掴んで、軽い身体を無理矢理持ち上げるように立たせる。矢傷が痛んだが、逆に良い気付けだと強がった。
彼は罪を犯した。己が制御できない魔法を、暴走を前提に行使した。下手をすれば甚大な被害が出ていた案件だ。見逃すわけにはいかない。
罰は与えねばならない。
「満足に制御もできないくせに、裏技を思いついていい気になって、自分で開発した魔法に溺れた結果が、容易に外部から干渉される程度の完成度に表れていた。ククリク……魔族の最上術士を相手にしたときは、攻略の糸口を見つけるまで数日はかかったぞ」
琥珀の瞳が、僕を見る。
転生者なんて大したことはない。僕なんて大したものじゃない。
勝手に諦めるな。己の未熟から目をそらすな。僕ごときとっとと超えろ。
君は誰の弟子だ。
「あんなものがサリストゥーヴェの後継の術式か」
正面から目を合わせ、彼の最も弱い部分を抉ってやる。
せいぜいその傷を大事にしろ。
「姉も殺すところだったぞ、未熟者」
言ってやって、歯を食いしばって力を入れて、右拳を思いっきり握りしめて。
胸ぐらを掴み上げられて苦しむその顔を、ぶん殴った。
そして―――吹っ飛んで倒れる小柄な姿を見ながら、我ながらずいぶん甘いよな、と舌打ちしたのだ。




